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本当の自分であるということ

言葉は難しいけど私なりの私だけの嘘がない言葉になるように心がけたいと思っていました。特に人と話すとき。

人と話すときはちゃんと目をみて、相手の言葉も感情も含めてしっかりと聞き、自分が出せる最大限の返答をしたいと、ここ1、2年は考えていました。


でも書くときもそうだよなと思って。

私は何かものを書いたり特にSNSを投稿するときは「こうみられたい」という願望しかなくて、誰かの真似をしているだけだった。私の要素はほとんどなくて真似をしていたら自分も特別だと思ってもらえると思ってた。

特別な人に特別だと思ってほしかった。

皆がそれぞれ特別だと言うことには気付いていなかった。

誰かの真似をしている私は多分とても痛々しい。だって多分誰かの借り物なんだなってことは誰にでも分かるだろうから。

私が読んだり聞いたりしていいなと思っただけの借り物の言葉を並べただけではそれは嘘をいっていることになると思う。

何も伝わらない、もしくは少ししか伝わらないだろうし、むしろそれを本当に自分が伝えたいと考えているかどうかも曖昧だろう。

そんな曖昧は自分を損なってしまうのではないか。

自分を認めてほしかったはずなのに誰かの真似をしているいうのは今考えると確かに大きな矛盾だな。

でも本当の自分でぶつかることが出来なかった。自分に価値があるとは考えたこともなかったし、本当の自分であるということにのみ生まれる価値があるということに全く気付いていなかった。

何かお手本があってそれっぽくやった方がよほど安心する。それらの価値は既に認められてるわけだし。

でもそれをやっても結局楽しくないし生きてない。ただビクビクしてるだけだ。これでいいんですよね?こういうのが良いんですよね?ってビクビクしてるだけ、楽しくない。

今の私は他人に自分の根本的な価値を委ねてはいけないと思っている。自分の価値は自分にしか判断できないもので良い。

また、最近、もう誰にどう思われてもええわ!ってなってきてるのは自分で自分を認められてきたからではないだろうか。自分には価値があると私は分かってきている。

それは今まで私が経験してきた全てがそう働きかけているんだろう。

なんでもそうだけれど、真似したいと思ったことや素敵だと感じたことは自分のなかで、それがどうして良いと感じたのかをきちんと噛み砕いて消化して身になって初めて自分の言葉や行動として発することが出来るんじゃないのかなと思う。

どうしてそう感じるのか考える時間が自分らしさというものを形成していって、まだまだこれから私はどんどん変化していって、もっと良くなれる。小さな判断でもすべて自分で納得して生きていけるなら、絶対もっとすごくなれる。

だから、これから表現をするときは出来る限り、自分であることの価値、自分だからこそ出来る表現であるかというところに焦点を当てていければいいな。

生活環境、趣味、親、周りの大人と子供、出会った人や物、身体や心。同じ蓄積をしてきた人間はこの世に一人たりともいないから、一人一人特別なんだと思う。

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