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思考とそれに対する瞬間的な否定

コンプレックスについての記事を読んだ。

私は多くの場合、自分の中にある刷り込まれた洗脳的な、けれど自分の考え方とは相反する思考をしては、その瞬間に理論をもってして自分で自分を戒めたりなぐさめりと言ったことを最近よく繰り返していた。

例えば、自分の顔は少し大きいなと思ったとする。大きいなということを嫌な感情を抱えながら思うのは、顔は小さい方が良いと前提的に考えているからだ。そしてその瞬間、大きいとか小さいとかどちらがいいと言うわけではなく、顔の大小は美醜には関係せず、まず私の価値は外見的な美醜では判断できない、と自分の思考を否定するところまでが大体セットだ。

この自己の望まない思考を否定する、または自己の思考を疑問に思うという行為は最近読んだ『おもろい以外いらんねん』や読み途中の『正欲』にも書かれていた。 

自分の持っている偏見や差別的な思考についてそれがおかしいと自分では分かっていながらもそう考えてしまうということに私は悩んでいた。

分かってるのに、そういう風に考えたくないのに、どうしてそう思ってしまうんだろうと。

私は親は子供にとって宗教だと思っていて、幼少期から聞かされる親の価値観や考え方はそれを疑う機会もなく「普通」として刷り込まれているものも多いのではないか、そしてその親の考え方を作っているのは親の親、子供時代の周囲の大人、メディア、つまりはその人にとっての社会である思う。

そして、その刷り込みは自分が情報を得て自分にとって正しいと思えることが判断できるようになってきた今でも簡単には失くならないのだ。

高島鈴さんが書かれたコンプレックスについての記事には、コンプレックスを自分の考え方次第でどうにか出来るもしくは素晴らしいと思えるようになる問題であるとされるのは非常に危険であると書かれていて、本当にその通りだと思った。

外見的なコンプレックスは自分自身の思い込みで出来上がっているものではなくて、社会によって産み出された価値基準によって出来上がっているものであって、悩んでいる個人の人がどうこうしなければいけないことではない。

自分が無理矢理考え方を変えるのではなくて、社会全体として考え方が変わっていかなければ、コンプレックスが真に解消されることは難しく、自分で自分を肯定しようとしてもずっと自分に付きまとってくるだろう。

私は記事を読んで最近ずっとモヤモヤしていたこの問題に関して光が差したようでとても嬉しかった。

また、女性は化粧をしなければいけないと言われるのはおかしい、化粧はしてもしなくてもいいはずだ!私はしないぞ!という行動が自分にとって良い方向に働くのは本当にそう感じている場合であり、化粧をするのがめんどくさいからこの自分はそんなに好きじゃないけどという気持ちの言い訳に使うのは違うのではないかと思う。

するしないは完全なる自由だ。でも、自分がきちんとその行動に納得できているかというのはとても大事なのではないかと思う。

しかし、それも社会によって構築された基準を元に判断してすることにはなる気がする…

それでも本心というものは必ずどこかにあるはずで、自分が感じた感覚に最終的には嘘はつけない。

一つ一つ下す判断や思考が、自分が納得できた上に成り立つものであるか自分に問いかけなければいけないと思った。


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