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精神衛星軌道論

とにかく地元から出たい、その一心で母の反対を振り切って一人暮らしを始めたあの日からおよそ5年が経った。それで得たものは自由とよく似た形をした孤独だったが、それでも毎日悪夢に魘されていた頃よりは、随分と呼吸がしやすいように思う。古本屋の100円均一の棚に並べられてそうな自己啓発本に、●年前の苦しみなんて覚えていない、とかって書いてあるけど、本当に苦しくて思い悩んだことを完全に忘れられるわけがなくて、しっかりと熱を帯びた傷が古傷になるだけだ。“こんなはずじゃなかった”の連続の人生。嘘をつくことで成り立つ表面上だけ穏やかな生活は、年々私に罪悪感を駆り立て、得体の知れない何かが喉元に刃物を突き立ててくる感覚はずっと拭えない。それでもあまり後悔がないのは、不正解だらけの私を正解だよって言ってくれる人や作品との出会いが、本当に愛おしいから。 思い出だけは替えが効かないことが、呪いであり救いであるから。

この前一緒に飲んでた友達が、好きだった人と離れる決心がついたらしく、見返りとかそういうのじゃなくて勝手に言葉が溢れてくるねん(意訳)って泣いてて、本当にそうだと思った。心の底から湧き出るものを言葉にせざるを得なくなってからが本番。そう気づいた19歳の秋。その頃から良くも悪くもあまり変わってないけど、それが私の原動力になって、今私はこうして生きている。

言葉に傷ついたけど言葉に救われてもきた。 死に損なったと立ち竦んでいるうちに季節が無情に過ぎたとしても、言葉という即効性のない暴力装置は抱擁よりもずっと無力だという事実に打ちひしがれたとしても、伝え損ねた言葉が蒸発していくのを見届けるだけなんて、絶対に嫌だ。諦めたくない。誰にも死にたくなって欲しくない。たかが他人だけど、他人だからこそ、言葉を掛けられるし、一人だったら発狂するくらい腹立つことも一緒に怒れるし、そういうのもなんか人とおったら笑えてくるし、乾杯の相手もできる。言葉に出来なくたっていい、死にたくなったっていい、汚い言葉で何かを罵ったっていい、そんなことで別に私は人のことを嫌いにならないから。言葉を吐けるのは生きてる人間の特権だから。

切り傷は治してあげられないけど塗り薬を渡すことはできるし、首を吊りたくなる衝動の在処を突き止めることはできないけど寄り添うことはできる。そうやって誤魔化しながら鬱屈とした夜を生き延びられたなら十分だし、日が昇るまで隣でただ手を握らせて欲しい。生きる意味なんてこの世のどこにもない。だけど生きる理由ならきっと見つけられる。真夜中に優しく光る一等星みたいな、そんな希望を見つけてみたい。これから先、何十年後のあなたに降り掛かる苦痛が、できるだけ少なくあってくれたら嬉しい。

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