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NHKハートネットTV「浮きこぼれの子どもたち」を見終えて。

いつのまにか2021年も終わりですね。

家族の体調不良が重なっており、いろいろご無沙汰してしまっています。

先日放送された「NHKハートネットTV△"浮きこぼれ"の子どもたち(1)(2)」がとても良かったので、感想を少しずつ書いていました。

少しずつ書きためていたら、とんでもない長文になってしまいました。

看病疲れもあり、ちょっとまとまりに欠けていますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

なんか浮いていたひと

番組は、短時間ながらもとても充実した内容でした。「浮きこぼれ」にもいろいろなタイプの子がいますし、ましてや(2)は生放送でしたから、ざっと紹介してぎゅっとまとめるのも非常に難しかっただろうと思います。

出演されていた当事者の皆さんとはまた違うタイプの浮きこぼれであろう息子は、学校の勉強はささっとやって高成績を残すタイプではありませんでした。何かしらの能力が高いから浮きこぼれたことは一度もなく、でも落ちこぼれたこともなく、勉強・運動・社交などなど何においても「ひたすら目立たない子」で、それは大学に進んだ今でもとくに変わっていません。

ただ何かどこかがちょっと変わっていて、どこの場にいても居心地悪そうな顔をしながら「なんとなく」そこにいて、そこでやらなきゃいけないことを「なんとなく」やって、家に帰ってきたら安堵&大喜びで自分の好きなことに向かい、何時間も集中している・・・

と、そういう子でした。

なので優等生だと思われたこともなく、賢いと言われたこともなく、きっと平凡で印象も薄く、みんなとサッカーしない子だよね、なんかいつも校庭の隅のほうで自分の世界に入ってる子だよね、という意味合いにおいて「浮いていた」のだろうなと思います。

クラブ活動を含めた学校の活動で本人が興味を持てることはほぼなく、興味関心ごとは流動的かつ常に学校の外にあり、きらりと輝くものがあったとしても、それは知的好奇心が刺激されたとき限定で、本当に瞬間的で、故にその場に偶然居合わせた人にしか目撃されませんでした。もしかして校庭の隅で毎日そっと発光していたかもしれません。でも都会の夜空の四等星のように、おそらく誰にも気づかれてなかったと思います。

こぼれるほど浮いてはいない、とか、本人の感覚としては浮いてはいる、とか、きらりと輝くものはないけど浮いている、など、そういう子たちも今回の「浮きこぼれ」のなかに入っていたのだろうと思いました。

つまり画一的な学校では居場所がない子、苦しい子、つらくてつらくて体調を崩してしまう子、定められた型を柔軟にさえしてもらえれば元気に楽しくのびのびと「その子らしさ」を発揮できる子、そういう子たちがじつは沢山いるよ、「不登校」「ひきこもり」「わがまま」「発達障害」「ギフテッド」などといった言葉で語られているかもしれないけれど、そんな言葉で片付けてしまわないで、もっと一人ひとりを見てよ、というメッセージがこめられてるのかなと思いました。

当事者の親御さんが(1)で思わず涙されていたとき、私もまったく同じような気持ちで泣けてきてしまいました。学校に行かなくたって勉強はできるし、個人の「好き」も才能もきっと伸ばせる、本人も「べつにいい」と言っている。でも本当はずっとさみしかったんだ、今でもさみしいんだ、自分はきっと誰ともわかり合えないんだろうね、などと突然漏らされると、親としてはたまらない気持ちになってしまいます。

どうしたら居場所が見つかるのか。
どうしたら仲間と出会えるのか。

親としての私は、居場所も仲間も「好き」を通して絶対に見つかるし、そこからwebのように繋がっていくから絶対に大丈夫、ただあきらめることだけは絶対にしないで、と「絶対」を執拗に繰り返しています。

違和感を抱えていたひと

私自身、はじめの30数年間「居場所」というものがなく、浮きこぼれではないけど浮いていました。

幼稚園や学校、大学でもいつも孤独でした。園児のとき、私にとっては「ふつう」で「あたりまえ」のことを話したり表現したりすると、周りの子たちや先生が「え?」とかたまってしまうことがよくありました。そのリアクションに「え?」と驚き、そのうち、自分はまた何かやらかしてしまったのかもしれない、と思うようになりました。当然ながらいじられやすく、私のことをあからさまに毛嫌いする先生もいました。

学校では転校もあっていじめの対象となりました。10歳になる頃にはすでに本当の自分は出さないよう気をつけるようになっていました。でも存在を消すのは上手じゃなかったかもしれません。希望を持って進んだ高校や大学では、いじめはありませんでしたが居場所もありませんでした。「真面目」「暗い」「考え過ぎ」「もっと楽しんだら」「現実の世界に戻ってこい」と言われては落ち込み、失望し、自分から孤立していきました。

20歳頃、自分は老成してるのだ、と思いました。話が合う人たちは40や50を過ぎた人ばかりでした。「若い子」の感覚についていけず、話も表面的に感じて死ぬほどつまらなく、自分は若い皮をかぶったおばあちゃんなんだなと感じていました。もっと本質的な何かを誰かと共有したいと渇望していましたが、その「本質的」なことがなんだったのか、そもそも本質的なことってなんなんだろうと、今同じようなことに葛藤している息子を目の前に胸を痛めています。(正確には胸と脳)

私には高い能力も才能もなく、相対評価の学校では努力した分もなかなか成績に反映されないふつうの生徒でした。勉強やスポーツや何かしらで輝いてる同級生や、なぜか常に人気があるカリスマ性のかたまりのような同級生とは縁もない学生生活でした。家にも学校にも居場所がなくて、本や空想の世界に安住の地を求めていました。現実の世界と自分の世界がやっと少し繋がったと実感できたのは子育てを始めてからです。もしかして人生って楽しくもあるのかも、と思えるようになったのは本当に最近で、気づけば同世代もすっかり「老成」していました。

私にはなんのラベルもありません。

もし今の時代に就園・就学していたら、何かしらのラベルがついたんだろうか、と息子と過ごしながら思ったりしています。あるいは「グレーですね」と言われ、とくに何もされず、変わらず悶々としていたかもしれません。落ちこぼれてもおらず、浮きこぼれてる感じでもなく、でも違和感を抱えながら静かに、でも確実にその場から若干浮いていて、仲間に入りたくても入れない。「窓際のトットちゃん」のトモエ学園だったら私もきっと楽しくできたのに、と当時よく思っていた自分を番組を見て思い出しました。

よくわからないけど生きづらい子たち、学校はぎりぎり通えてるけど毎日心が削られている子たち、才能云々とかじゃなくて居場所をとにかく欲してる子たちが、きっと沢山いるんだろうなと思います。そういう子たちにもスポットライトがあたり始めてきたのかな。当事者や保護者の皆さんの声が届き始めたのでしょうね。これから一気に変わりそうな気もしますよね。

すべての子にそれぞれの学びを

どの子も満足する学校というのは、確かに存在しえないかもしれません。どの子もそれぞれ違うのだから、すべての子にしっくりくるものって、学校でも家でも服でも食べ物でもテーマパークでも、ありえませんよね。

そう断言してしまうと、レンズーリ先生のSEM「Gifted education for all students: すべての生徒のための才能教育」は、いったいどういうことかと疑問に思われる方もいるでしょう。今さらながら、この訳し方はニュアンスが若干違い、先生の意に沿えていません。私の訳し方が良くありませんでした。実際は

すべての生徒に才能教育を

です。SEMは個別最適化された才能教育を実現するカリキュラムモデルなので、すべての生徒に、それぞれに合った早修と探究の機会を設けることができます。

番組で紹介されていた山形県の天童中部小学校では素晴らしい取り組みがなされていました。SEMを学校に導入すると、天童中部小学校のように、「すべての生徒」に「それぞれの能力やペース、興味関心ごとに合った学習機会」を設けることができます。フリースタイルプロジェクトはSEMでいうところのType 2かなと思います。もしかしたらType 3を行っている生徒もいるかもしれません。

天童中部小学校のマイプラン学習は、教室内個別最適化で、学びたい教科を、自分のペースで、自分のレベルで、学びやすい場所で、学びたいように学ぶものでした。フリースタイルプロジェクトでは、生徒自身が学びたいものを選び、意欲的に探求していましたね。先生はティーチャーではなくファシリテーターに徹し、こまっていたりヘルプが必要な生徒をサポートしていました。先生も、生徒たちが探求するかたわらで、ご自身のプロジェクトに、一緒に、でも個別に取り組まれていたのがとても素敵だと思いました。日本の公立小学校で個別最適な(才能)教育があそこまで可能なんだ、とわくわくしました。

皆が同じペースで、同じ方法で、同じものを、となると、取りこぼされる子たちが必ず出てきてしまいます。しかし天童中部小学校のように、同じ空間(=インクルーシブ)で、それぞれに合った学び(=個別最適化)をすれば、より多くの子が救われます。学校ですから、同じ空間で、同じことを学んだり楽しんだりする時間もあったほうが良いでしょう。学校という場で共に成長していく経験をわかち合うことは貴重だと思います。(これに関しては一切あてはまらない個人的な例外はあると思います)

才能とはその子らしさ

ギフテッドの特性、生きづらさや困り感を理解し、寄り添い、そのときどきで必要な支援や配慮をしてくれるギフテッドのための学校教育、私がアメリカに求めていたギフテッド教育は、アメリカでは2e教育だったのかもしれない、と最近になって気づきました。

2eのもう一つの「e」は、学習障害や発達障害だけでなく、気分障害や全般性不安障害なども含みます。学校から浮きこぼれ、心を削がれ、2eになってしまう子たちも日本には多いかもしれません。わが家はそうです。松村暢隆先生が2e教育をまず推進されていたのも、じつはこういうことからだったのかもしれない、と今さらながら思いました。(まちがっていたら申し訳ありません。)「GDF」をアメリカで聞いたことがなかったのも、今さらながら納得でした。

才能とは、その子の強みや得意、「好き」、苦ではないこと、楽なこと、知らず知らずに続けていること、つまるところは「その子らしさ」で、その子を生きやすくする「救い」や「希望」になったりします。ときには「命綱」にもなります。とても大事なものだと私は思っています。

何かを突き詰めるのが好きというわかりやすい才能もあれば、他者を助けながらじつは自分をも支えてるという一見わかりづらい才能もあります。才能のカタチはいろいろで、その子らしさが出ますよね。なので才能を、「その子らしさ」「その人らしさ」と言い換えてみてもいいのかなと思います。

元気がなくなると、好きなことをする気力までなくなってしまいます。たっぷり休んで、少し元気になったらまずは好きなことから少しずつ始めていきましょうと医師からは言われます。ここでの好きなことにも「その人らしさ」が出るはずです。息子だったら写真かな。私だったらドライブかな。筋トレの人もいるでしょう。謎解きの人もいるでしょう。断捨離の人もいるかもしれません。

そういう「好き」をベースに、それぞれ広げていこうね、「その子らしさ」を豊かにしていこうね、というのが おうちSEMです。学校にカリキュラムモデルとして導入されるレンズーリ先生のSEMも、松村先生が有識者会議で提示されている才能教育も、根底では同じです。従来のギフテッド教育との違いは、すべての子が受けられることと、主体的な学びであること。学校という場でそれを可能にしているのがdifferentiation(個別化・個性化)という指導方法です。

ギフテッド教育のようにセレクティブな教育ではなく、一人ひとりの学びと「らしさ」を大切にするインクルーシブな才能教育が、公立校でどんどん実現するといいのになぁと思っています。

それでいて脳は多様であることへの理解や、心理面のサポートも充実していたら、より多くの子が救われるでしょう。個人的には、多様な学び場が増え、選択肢があることが「当然」になればいいのにと思っています。どんなに素晴らしい学校でも、やはり「学校」という場にはどうしても合わない子がいると思うので。

オルタナティブ教育もあたりまえに広まればいいですね。学習指導要領で決められている教育内容の枠に限定されない、多様で豊かな教育を提供しているフリースクールや、創造的にホームスクールされているご家庭も見聞きしています。オルタナティブ教育が日本でどういう位置づけになっているのか、又、これからどうなっていくのか、(日本の教育制度から離れているわが家ですから)わかりませんが、日本中に広まり、誰もが「ふつうに」選択できるよう整えられたら、「本当に誰も取りこぼされなくなる」と思います。

「自分が望む教育」を、すべての子が受けられたら、すべての子の「その子らしさ」があちこちに伸び、それぞれのカタチになります。息苦しさから解放された世の中になりそうだと想像して、私はわくわくしています。

(みんなが自分らしく生きられるといいなぁ・・)

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