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ドラマ「だが、情熱はある」を、僭越ながら自分に重ねる。

この記事は、標記ドラマ1話のネタバレを含みます。また、敬称略してます。ほんとは全部敬称つけたいくらい尊敬してます。

このドラマ、コンビ「たりないふたり」のファンとしては、絶対に見る必要があるだろう!と思い、毎週楽しみにみている。

〜ドラマのあらすじ〜
若林正恭(オードリー)と山里亮太(南海キャンディーズ)の半生を描いたサバイバルストリー。

申し訳ないが、ほんの少しだけ自分語りをさせてもらおう。いや、noteは自分語りを思う存分する場所だから、わざわざ前置く必要はないけど。

学生時代、顔もぱっとせず、成績も悪くて運動神経も良くない。そんな僕がハマったのが"お笑い"だった。

父親が生粋もお笑い好きというのもあり、幼少期から「ごっつええ感じ」や父親お気に入りの「ダンディ坂野単独ライブ」を見せられ続け、"お笑い"は近くにあった。
でも、ハマったのは別の理由がある。

僭越ながら、自分のお笑いに対する原点を、つまり人生における原点を、このドラマに重ねながら視聴している。

ドラマ「だが、情熱はある」で、こんなワンシーンがある。
山里は、好きな女の子のタイプが面白い人、ということを聞き、友達の後押しもあってお笑い芸人を目指す。やがて、その好きな女の子はクラスのイケメン秀才くんと付き合うことになり、山里はそれを眺めることしかできない。せっかくお笑い芸人を目指したのに・・・と落ち込む山里。ある日、好きな子とイケメン秀才くんが二人で喫茶店に入っていくところを目撃し、友達と一緒に追いかけるように喫茶店に入店、近くの席に座る。
すると山里は、好きな女の子に聞こえるように、渾身のエピソードトークを話す。女の子はトークのオチに笑ったあと、「山里くんって、面白いね」と声を掛け、店を出る。
一緒にいた友達に、「かっこ悪い姿を見せる山ちゃん、かっこよかったよ」と言われ、山里はこれをきっかけにお笑い芸人を本格的に目指し始める。

このシーン、僕はめっっっっちゃくちゃ共感できる。顔も良くない、勉強もできない。運動神経も良くない、ついでにモテない僕の武器は、笑いだった。
笑いという土俵に、顔も、勉強も運動も関係ない。全く別に土俵で勝負ができる。笑わせる瞬間は、その人の意識を掌握し、その場を支配できる。

中学時代、その快感を覚え、病みつきになった。

高校では価値観をゆがませて、「面白くない奴は生きる価値なし」と思いながらお笑いに身を捧げて過ごし、大学で自分より笑いの才能ある人達が星の数ほど居ることに絶望することとなるが、それはまた別の話。

しかも、友達が最後に言ったセリフ、お笑いの本質をつかんでいる。

かっこいい、にも色んな種類がある。スタイリッシュに良い結果を出すのも、もちろんかっこいい。
でも、笑いという自分の理想の姿を目指すために、自分のダサくて泥臭いところを曝け出すのも厭わない。それってかっこよすぎないか。

お笑いが、ダサいものと親和性が高いのもある。スタイリッシュなものより、ダサいものの方が笑いやすい。たとえるなら、イケメンがするエピソードトークより、根暗でモテない奴がするエピソードトークの方が笑いやすい。
これは、妬み嫉みもあるだろうが、後者の方が共感を得やすく、笑いを阻害するものが少ないからだ。顔が良いとそっちに価値が生まれてしまい、笑いが薄くなる(面白い話が、イケメンがする面白い話、と別の価値がついてしまう)。詳しく書くときりがないが、笑いにおいてさまざまな弊害をもたらす。

あと、総じて人間ってダサいし。それを認める生き方が自然ですきだ。

自分を認める手段の一つが、お笑いだったのは間違いない。今は、その手段だけではないので、昔ほどお笑いジャンキーではない。
でも、未だに「面白い」は僕の中で尊いことだし、ダサい=かっこいい、だ。お笑いが僕にもたらした価値観は根深い。

このドラマは、お笑いに並々ならぬ情熱を捧げた男たちの話。

つまり、「だが、情熱はある」めちゃくちゃ面白いのでお勧めです。

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