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『太陽の塔 (森見登美彦)』【読書ログ#8】

さっぽろ雪まつりの事を思い出した。

季節外れな話で恐縮だが、さっぽろ雪まつりとは、札幌の中央区大通り公園を中心に、街中のいたるところに雪像が現れる奇祭だ。

特に有名なのが、地元の陸上自衛隊が野戦築城訓練の名目で作り上げる雪像で。史跡や流行りのアニメキャラなどの超巨大な雪像をつくる。とにかく見事な作品を作る。

あまりにも見事なので、雪まつりの季節になると、今年の自衛隊は何を作るのかと地元のニュースで報じられ、途中経過などが克明に紹介される。

STVラジオで明石英一郎が進捗を伝えると、小学生のときハガキ職人に憧れていた私は、ペンを持つ手を止め聞き入った(ハガキを出したことは無い)。祖父も「今年の陸軍さんは何を作るのかね」とテレビにかじりついていた。

そんなこともあり、道民の9割は、陸上自衛隊第11師団(現在は旅団)のことを雪像作りのために作られた部隊だと勘違いしている(もしかしたら勘違いではないかもしれない)。

当然ながら自衛隊の作る雪像は大人気だ。雪まつりでは雪像目当てに日本全国から観光客が集まり、自衛隊の雪像の周りにむらがる。熱量も気合も中途半端な地元民は、そうやすやすと自衛隊作品には近づくことが出来ない。

地元民は、どちらかというと、十把一絡げに並ぶ市民制作の雪像を巡るのを楽しみにしていた。

現在はいろいろあって数が減っているそうだが、当時は東西に1.5キロと細長い大通公園に150基を超える市民雪像がならび、私と友人たちは、友人のお父さんが務める会社の有志一同だとか、美術の先生だとかが作った雪像を眺めてあるく。

市民雪像は、素人の制作とはいえ、3坪ほどの区画に高さ3メートル近くの雪像を作るので、見事なものも多い。大抵は、そのときに話題になっているアニメのキャラクタだとか、時事ネタがモチーフとなる。

前田少年も友人と見学にいくのを毎年楽しみにしていた口だが、どんな雪像が並んでいたのか、思い出そうと頑張ってみても、ほとんど記憶に無い。

雪まつりで記憶に残るのは、じゃがバターが美味かっただとか、トウモロコシは『焼き』か『湯で』かで喧嘩しただとか、焼きそばの紅生姜が嫌いなのにサービスで紅生姜大盛りにされただとか、そういった事ばかり覚えている。

紅生姜が嫌いだった私は、立ち小便の痕に紅生姜を投げつけて「血尿!」とやって遊んだら屋台の親父にすごく怒られた。今思えば、あの立ち小便をしたのは屋台の親父ではなかったのか。なんにせよ酷い話だ。今更だが、生姜農家に謝りたい。大変失礼なことをしました、ごめんなさい。

そんな訳で、雪像についての記憶はあまり無いのだけど、克明に覚えている雪像が2つだけある。

一つは巨大な1円玉の雪像で、実に見事な出来栄えだった。だが、見事なだけなら他にも見事な雪像はあったはずなのに、なぜこれを覚えているのか、肝心なところを覚えていない。

もうひとつは、岡本太郎氏が1970年の大阪万博のときに制作した<太陽の塔>を模した雪像だった。

当時<太陽の塔>の存在なんて知る由もない前田少年とその友人たちは、その強烈なインパクトに恐怖した(おおはしゃぎした)。

変な形だし、顔が2つあるし。それに、そのときはちょっと溶け始めていた。

その強烈な雪像を前に、どのように言語化したらよいのかわらない我々は「なんだこれ!」とか、「なまらこわい!」(北海道弁)とか、「カムイ!カムイ!」(アイヌ語)とか、教養もボキャブラリーも知性も感じられない知っているだけの言葉で感嘆を口にし、異質なものをなんとか消化しようとしたが、まったく歯が立たず、最後は少年らしく「へんなの!」「きらい!」「きもい!」といって立ち去った。

森見登美彦デビュー作であるところの『太陽の塔』の主人公の『私』は、<太陽の塔>を「太陽の塔には人間の手を思わせる余地が無かった。異次元宇宙の彼方から突如飛来し、ずうんと大地に降り立って動かなくなり、もう我々人類には手の施しようもなくなってしまったという雰囲気が漂っていた。」と見事に説明をしてくれた。

この一文を読んで、私は脳みその使われない納戸に仕舞われた雪まつりの思い出を突然に思い出した。

じゃがバターやトウモロコシ(だんぜん「湯で」だ)の香り、立ち小便の痕と紅生姜、全てがくっきりと思い出された。人間の脳の素晴らしさと記憶の不思議な仕組み、私のどうしょうもない思い出、森見登美彦の見事な文章力への感心が一気にないまぜになり、ちょっと目眩がした。

さて、前置きが少し長くなった。森見登美彦の『太陽の塔』は、岡本太郎が作った<太陽の塔>の話ではない。ヘボくてモテなくて男子的なリビドーが抑えきれないが妙に過剰化した自意識と自尊心で衝動のベクトルを歪ませ内部に強力なエネルギーを溜め込んだ危うくて崩壊寸前で臨界寸前な学生たちの物語だ。

スポーツに打ち込まない、音楽にも打ち込まない、オタク趣味にも打ち込まない、若く健康な男子ならば通らねばならない「性欲」を他のものに熱交換させる様々な道を巧妙にすり抜け、落ち着く先にマイルドヤンキーを選ばなかった童貞男子が紡ぐ、妄想ネバーエンディングストーリーだ。

最近気に入り始めた森見登美彦のデビュー作が読んでみたいと思い手にとったが、最近の作品に比べ拙いとはいえ完全に森見登美彦であり、森見登美彦でしかない作品だった。この作品がなければ『夜は短し歩けよ乙女』は生まれなかった。そう考えるととても大事な一品だ。

だがしかし、この作品を、女性はどうやって楽しんだら良いのかと思う。森見登美彦は、どうやら女性ファンのほうが多い印象なのだが、森見ファンの女性は、どうやって楽しんでいるのか、一度じっくり話を聞いてみたい。もしよろしければ、あとがきを書いている本上まなみさんに聞いてみたい。会ってみたい。

ぐっと引き込んで、ファンタジックにかきまわされ、ふっと終わってしまう。楽しかった時間が終わり、寂しいけど、また遊びたいなと、次を思いながら電車で帰っていくような読後感。この感じはデビュー作からちゃんとある。

三作読んで、森見登美彦が好きになりました。もっと森見登美彦の作品を読んでみたい。読み続けたい。

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