ボクの中のキミ、キミの中のボク
昔から思っていたことがある。それは簡単に言うと
わたしの中にあるタマシイとあなたの中にあるタマシイは同じものだ。
ということだ。
わたし、あるいはあなたというハードとしての個体は個別性をもっているが、その中のソフトとしての「タマシイ」は同じだということ。
ここで「同じ」とは、区別がつかない、という意味だ。
ここで「タマシイ」と書いたものがなんなのかが問題だが、それがなんであるかということは一度置いておいて、まずここで注目したいのは、その構造だ。
何かの中に何かが入っているというこの構造って、どこかで見たことあるんじゃないだろうか。
例えば、機動戦士ガンダム、新世紀エヴァンゲリオン、進撃の巨人、攻殻機動隊など。
これらのアニメに共通して見られるのが、ある「モノ」の中に「人間」や「ゴースト」が入っていてその「モノ」を操っているという構造だ。
だからひょっとすると多くの人がこうした構造のものとして人間がある、という認識をもっているのかもしれない。
ただ、例として挙げたアニメでは「モノ」の中に入っている「人間」や「ゴースト」は固有のものとして、つまり個別性をもった独特のものとして設定されているように思う。
だが、わたしの思っていることは、その「モノ」の中に入っている「タマシイ」は同じものじゃなかろうか、ということだ。
この「同じもの」というのは、最初にも書いたけど、これとあれとでその区別がつかない、ということだ。
ある者が他の者とは違う、わたしはわたし、あなたはあなた、という考えを心理学や社会学では「自己同一性(identity)」と言うらしいけれど、このことばを使えば、わたしの言う「タマシイ」は自己同一性をもっていない、ということになる。
こういう性質をもっているものとして有名なのが素粒子だ。
図の電光板で、Cの光点はもとAにあったのがやって来たのか(A→E→C)、それとも Bにあったのがやって来たのか(B→E→C)を問うとしよう。明らかに、そのような問いには何の意味もない。何故なら、そもそも「何か」が動いた訳ではないのだから。素粒子とは場に起る状態の変化であった。上記のことは、素粒子が「自己同一性」を持たないことを示している。自己同一性を有しないとは、名前をつけて区別することが出来ないということである。米粒が二つある場合には、それらは互いに区別出来るから、例えば一方に a、もう一方に b と名前を付けることが可能である。それで、二つの箇所AとBに二つの米粒を置くには二通り の仕方が存在する。即ち、(Aに a、Bに b)と(Aに b、Bに a)とである。一方、状態の変化として、AとBの二つの場所を光らせる仕方に何通りあるかを考えて見る。これは明らかに一通りしかない。ということは、素粒子はどれもみな同じであり、互いに区別出来ないのである。
『量子論と仏教』(後藤蔚《しげる》)
だけど、「タマシイ」が自己同一性をもたない、とわたしが考えるのはなぜだろう?
それはそうすると色んなことが簡単になると思うからだ。
「タマシイ」が乗っかっている「カラダ」にはそれぞれで違いがあるけれど、それは池田清彦さんが言うところの「布置」であって、そうした違いのある「カラダ」に乗って、それをどうドライブしていくのか、という手腕が「タマシイ」に問われているのだ、とわたしは考えている。
てんとう虫という「カラダ」を与えられて、あまり遠くまでドライブできないでいる「タマシイ」もあるだろうし、イーロン・マスクという「カラダ」の中でどこまでも遠くに行ける感覚を楽しんでいる「タマシイ」もあるだろう。
そう考えると、世俗の色々な諸事情が、もっとうまく回っていくように思うんだけど。
だってそうでしょ。
そうなると、ボクの中のキミと、キミの中のボクは実は同じものなのだから、お互い、バッチリ愛せちゃうんじゃない?
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