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虎穴芸術

その日は朝から雨が降っていた。

そのせいか夕刻近くになっても客足は伸びず、そのシマにいる客はわたしひとりだった。通路から3番目の台で静かに玉を弾いていた。

そもそもわたしにパチンコを教えてくれたのは高校の美術部の先輩だった。目の前で100円が500円に化けたのを見てわたしのこころは大きく動いたのだ。それから

「パチンコを芸術にまで高める!」

そう意気込んでここに通い始めるまで時間は要しなかった。

同じ頃からここに通い始めた同じ高校の同じ美術部の連中も今日は誰一人来ていなかった。連中といってもわたしを含め3人ほどだったが。

こうしてひとりで台を前に淡々と右手親指を中心とする作業をしていると、キャンバスを前に絵筆を動かしている感覚とダブって、これも部活だ、と自分で自分に言い訳をしていた。

ぶっこみ弱めを狙って玉を打つと玉は天釘の方へ動き、4本の天釘がつくる3つの隙間のうち、ちょうど真ん中の隙間から玉が落下し、玉は天穴に入って姿を消した。

天穴に入った玉は役物奥から顔を出し、役物内のちょっとした飾りをほんの少し動かすと手前左の穴に入った。すると盤面左のチューリップが、そして役物直下の上下2連チューリップがそれにやや遅れて開いた。わたしの顔に喜びと不安が混ざった光が灯る。

いや、徐々に玉は増えている。

思わずほころぶ唇が盤面ガラスに映って見えた。と同時にみたことのない初老の男の顔がそこに映っていることに気がついた。決してわたしの顔ではない。その男の顔は動くことなくじっとわたしの台を見ている。今まで気がつかなかったが、いつからああしてこの台を見ていたのだろう。男の視線はわたしの後頭部ではなく、盤面に固定されていた。

外ではまだ雨が降っているのか、その男のグレーのジャッケットは肩のあたりからこのところのカープ打線のように湿っているのだろう、そこだけ黒くなっているのがわかった。男の白いものが目立つ頭髪は丁寧にすかしつけられていて、しっかりして見える顔の造りと相まって、その顔は往年のフランスの俳優ジャン・ギャバンを思い出させた。

それからしばらく男はそのままわたしの背後に立っていた。

わたしは盤面の玉の行方と盤面に映る男の顔を交互に気にしながら、少しずつ緊張していった。見知らぬ誰かが後ろにじっと立っているのはいやなものだ。

そんなわたしのきもちに気がついたのか、突然男は思いもかけない素早い動きでわたしに近づいてきた。そして腰をかがめ、そのギャバンのような顔をわたしの顔に近づけ、盤面を見つめたまま、渋い声を出した。

「村へ来るか?」

そのことばを聞いて、わたしは目を瞠《みは》り卒然と理解した。

ああ、これはスカウトだ!

噂にも聞いたことはないけれど、きっとどこかに虎の穴のようなパチプロ養成所があるのだ!やっぱりあったのだ!そこのことをこのスカウトマンは「村」と言っているのだ!渋い!実にカッコいい!パチンコを芸術にまで、至高の高みにまで追求しようという団体が、そういう思想をもつ人々がわたし以外にも、やっぱりいたのだ!そこのスカウトマンが今日というこの日、ようやくこのわたしに目をつけ誘っている!そこにわたしが入れる!

「もちろんです!」

その養成所はどこにあるのか、費用とか必要なのか、などなどのもろもろの質問を押し殺し、わたしは間髪入れずそう答えた。同時にわたしは玉を打つ手を止め、あこがれと感謝のきもちを精一杯ためた目をつくってスカウトマンの方を振り返った。

しかしスカウトマンは腰を伸ばし、のんびりとした調子で言った。

「そうは見えんがのう。さっきから見とったが、よう入りよる。斑《むら》なんかなかろう。ええ台じゃのう」

男はそう言うと通路をゆっくり歩いて左へ曲がって姿が見えなくなった。

わたしは黙ってその背中を見ていた。

そう言えば、とわたしは思い出した。盤面越しにじゃなく見た男の顔はジャン・ギャバンというより左卜全だったな、と。その声は渋いというより痰でも絡んでたみたいだったな、と。

なーんだ。

パチンコから芸術に至る道は思いの外険しかった。

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