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孤独実験2

元来、私は本を友としていた。
発声よりも先に読書を覚えた。
それは私を心地の良い世界へ誘ってくれる。
母親が読み聞かせをして寝かしつけようとすることもあったが、私は無言で横たわっていた。
一人でなければ本の中に深く潜れない。
人間に興味がないわけではない。
友達も年齢相応にいたが、一緒に遊ぶことに違和感を感じていた。
友達の家に行っては、その家の本を読んでいた。
最初の私の遊びの世界は、兄と弟と、彼らと一緒に見たテレビや映画の世界をまねすることに尽きた。
雨の日に夢中になっていたのが「トップガンごっこ」という、一緒に見た映画をまねした遊びだった。
布団を丸めて戦闘機の操縦席を二つ作り、もう一人は管制官役。
空母を飛び立って敵を撃墜するが、必ずやられて、ベイルアウトの時に後ろの操縦席に座っていた方は必ず死ぬ。
そんな遊びや、スーパー戦隊の超合金で戦い、負けたら爆発する、
そんなかりそめにでもストーリーを持った遊びを私は好んだ。
しかし、兄弟以外の友達ときたら。
男の子は一つも私が楽しくない野球やスポーツに興じていた。あれは、打つことや投げることを練習したものでないと加われない遊び。加わらないからうまくもならない。スポーツを始めた男を私は見放した。まだ鬼ごっこやアニメ・特撮のごっこ遊びをしている方がルールがわかりやすく良かった。
それでは女の子はというと、女の子の方がひどい。
人形遊びに関しては、人形同士で、男の子のようなごっこ遊びをするのかと期待していた。人形同士で「今からパーティーしようよ」と話が上がると、私の期待もいや増したが、「じゃあパーティーの準備をしようね」と全員が後ろを向いた。
仕方なく私も人形に服を着せ、「じゃあ始めようよ」と声をかけても、女子たちは人形を服やリボンで飾り立てたり、人形の髪をとかし、結うことに躍起になり、私が「ねえ、さっきパーティーするっていってなかった?」と聞くと「まだ準備できてない」と言うのだった。
私は人形を捨てた。

もう一つ、苦痛なことがあった。ピアノだ。
母は私が生まれる前から、「指の長い女の子が生まれたら、ピアノを習わせる」と決めていた。当時、ちょうど同じぐらいの年頃の子どもたちが習い事を始めたので、私もやってみたいとその時は思い、素直に習っていた。
ところが、ピアノというのは初歩はリズムや練習曲といった、同じことの繰り返しやテクニックを学ぶものだった。最初、音楽の美しさにひかれていた私は、繰り返しの動きの多い、また曲として美しいと感じられない練習曲にすぐうんざりしてしまった。
母親は喜び勇んで一台ピアノを購入してしまい、「ピアノ買っちゃったし、あなたがやりたがったんだからやりなさい」という無茶な理由で私はピアノを習わされ続けていた。
それは人生で私が初めて転校したときに、よりつらいものとなった。
忘れもしない小2の時だ。転勤する運びとなった私の家族。
当然それを機にピアノを辞められるものと期待していた私は、最後のピアノ教室から帰るとき、うきうきとしていた。やっとピアノが辞められる。
しかし迎えに来た母親に、ピアノ教師が恐ろしいことを吹き込んだ。
「娘さんには才能があります。もっといい教師につくべきです」
転校してから分かったことだが、私は新しい、日本で五本の指に入るというピアニストに弟子入りさせられていた。
その教師の家は車で毎週数時間かかっていたと思う。「いたと思う」というのは、私が車酔いをする人間なので、毎週吐しゃ物にまみれながら、好きでもないピアノに通うという苦痛にさいなまれていたので、車に何時間乗っていたのか正確に思い出せないからだ。
私はピアノに怒りを感じていた。余計なことを吹き込んだ前の教師にも。
当然練習はしない。上達もしない。新しい教師には練習をしないと怒られる。
このことはひどい怒りとなって、ずっと私の中でくすぶり続けた。
私は親に、武道を習わせてほしいと願い出た。親は不満そうだったが、剣道教室に行けることとなった。私は喜んで車で親に連れて行ってもらっていたが、剣道教室を4回ほどやった後、親から予想だにしない言葉が発せられた。
「もう十分でしょう。」
十分ではない、剣道を続けたいと泣きさけんだら、この剣道教室はどうやら数回限定の体験会だったとのことで、防具などなく竹刀一つで、体験的に行うものだったとのことだった。私は落胆した。
このことは、私がのちに武道にのめりこむ要因となったのだろう。

 

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