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「自分で自分の名前を選ぶ権利」がないなんて……

わたしたちは、自分の名前を自分で選ぶ権利を持っていない

わたしたちは、自分の名前を自分で選ぶことができません。
選べるとしても、その選択肢は極めて限られています。

生まれたときに自分で名前をつけることができないのは当然です。そこで、子供の名前をつける権利と義務は(原則として)両親にあります。しかし、成長しても、この「親に付けられた名前」を変えることは原則としてできません。

結婚するときには、夫か妻の一方が姓(名字)を変える必要があります。しかし、「変えたいのに変えられない」または「変えたくないのに変えなければならない」ということもあります。

ほかに養子縁組などの場合はありますが、自分の名前を変えることができる機会は実質的にほとんどありません。裁判で変えることはできますが、非常に難しいです。

つまり、私たちは、自分で自分自身の名前を選ぶ権利、機会を奪われてしまっているのです。それなのに、この重大な事実がほとんど見過ごされています。自分の名前を自分で選ぶ権利がないことを、どういうわけか「当たり前」だと考えています。

しかし、よく考えてみてください。自分の名前というのは、自分をあらわす重要なものです。それなのに、自分で選ぶことがほとんどできないというのは、とても大切な権利を捨ててしまっているということにならないでしょうか。

自己決定権としての自己命名権

現代において、「自己決定権」は非常に重視されています。
自己決定権とは、自分自身の人生において、自分自身で意思決定を行い、自分自身の価値観や信念に基づいて生きることができる権利のことを指します。つまり、「自分自身がどのような人生を生きるかを決める権利」であり、個人の自由と尊厳を尊重する上で重要な考え方です。

たとえば、「人がどのように生き、どのように死ぬのか」といったことを、医者ではなく患者が選べるということです。治療法を選んだり、医者に提示された治療法を拒否したり、死後の臓器の提供をするかどうかを決めたり、さらには安楽死を選ぶかどうかというような、まさに生死にかかわることについても自分で決められる権利を尊重することが重要視されています。

また、性的マイノリティーの自己決定権、つまり自分の性別を(身体的な機能にかかわらず)自分で決めることができる権利も議論されています。

その中で、自分自身が何者であるかを示す「名前」だけが、なぜか無視されてきました。名前は他人や社会によって決められて当然とされてきました。

でもそれはおかしなことではないでしょうか?

「名は体を表す」と言います。名前は自分自身を表す、極めて重要なものであることは言うまでもないでしょう。それなのに、わたしたちは自分自身の名前を自分で選ぶことのできる「自己命名権」を奪われています。それだけでなく、自己命名権が奪われていることについて誰も話さず、当たり前だと思い込まされ続けてきたのです。

名前をつける人は、つけられた人を支配する

名づけには非常に強力な力があります。「名前をつけた者が、名前をつけられた者を支配する」ということは、実はよく知られていることです。

たとえば戦国時代、自分の名前の一部を与えること、つまり「偏諱(へんき)を与える」という行為がありました。たとえば徳川家康はもともと松平元康という名前でしたが、この名前の「元」の字は今川義元から与えられたものです。これにより、松平元康は今川義元の強い支配下に置かれているということを示していたわけです。

そして、最大の支配者は「親」です。親が子に名前を与え、それが一生使われるということは、子は親に支配され続けるということでもあります。それが良好な関係であればいいかもしれませんが、「親がよかれと思ってつけた名前がキラキラネームで本人は苦しんでいる」とか、「親が男らしく/女らしく生きるようにと願ってつけた名前が、本人の性自認と異なっていて苦痛だ」とかいった事例も多く存在します。

名字については、血筋というものの支配権を示しています。あるいは、結婚の際に相手の家の名字に変えなければならないということは、個人と個人の結婚ではなく、結婚相手の家の支配下に入るということになってしまいます。いや、確かにかつてはそうでした。でも、今はそんな時代ではありません。

名前の強制力、名前の支配力を野放しにするということは、人が自分らしく生きる現代において、完全に逆行しているといえます。ですから、わたしたちは、自己命名権(=自分の名前を自分で選ぶ権利)を積極的に取り戻す必要があるのです。

自己命名権は行使しなくてもよいが、行使したい人ができなければならない

公園や建築物の「ネーミングライツ」が販売されていますが、「命名する権利」がそれほど価値のあるものだということについての共通認識は、社会的に合意が得られているといえます。ところが、わたしたちは、自分自身に対するネーミングライツを奪われています。

わたしたちは、自分の名前を自分で選ぶ権利を取り戻す(あるいは新たに獲得する)必要があります。これは、「改名しなければならない」ということではありません。「親につけてもらった名前を変えたくない」という人は「変えない」という選択をしてよい(あるいは、「親に付けてもらった名前を選ぶ」選択をしてもよい)ということも意味しています。

ですから、自己命名権ムーブメントは、選択的夫婦別姓に完全に賛成します。これは、「名前を変えたくない人が、変えないことを選ぶ権利」です。

変えたい人は変えてよい。変えたくない人は変えなくてよい。

この単純な考え方が、なぜ拒まれなければならないのでしょうか。なぜ「結婚する場合は必ず一方の姓に変えなければならない」という、伝統ですらないしきたりに縛られ続けなければならないのでしょうか。

同様に、「親に付けられた名前はよほどのことがない限り変えることができない」というのも、なぜみんな不思議に思わないのでしょうか。

キラキラネームを捨てたい人、自分の性自認に合った名前をつけたい人は確かにマイノリティー(少数者)かもしれません。しかし、マイノリティーにとっても幸せな社会を作っていくのが民主主義です。名前を変えたい人が変え、変えたくない人が変えなかったところで、マジョリティー(多数者)が困ることはないとしたら、それを受け入れるのが本当の民主主義です。そうでなければ、多数決は伝統という武器を振りかざした多数派による暴力と化してしまいます。

もしあなたが、自己命名権ということに興味がなければ、それは別にかまいません。しかし、自己命名権を必要だという意見を封殺するなら、それは決して許される行為ではないと考えます。

自己命名権が必要だと社会が認める時代へ

自己命名権をどのような形で実現していくかということについては、議論が必要になっていくでしょう。しかし、現在はまだその段階ではありません。

現状では、まず

  • わたしたちには自己命名権がないという現実に気付く

  • 自己命名権が奪われている状態は、自己決定権という考え方からすると決してよくない状態であると理解する

  • 自己命名権を認めることで多くの人が救われることを知る

  • 自己命名権を認めた場合の混乱よりもメリットの方が大きいことを理解する

といった内容が社会的に認知され、社会的合意となっていくように努力する段階であると考えます。

結論

自己決定権、すなわち「わたしたち自身のあり方を自分で決定する権利」が重要だという認識が広まっています。

それならばわたしたちは、自己決定権の1つとして、自分の名前を自分で選ぶ権利を取り戻そうではありませんか。


[なまえる] 御名部ミライ(みなべ みらい)
2023年4月17日===417(よい名)の日に


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