今日もお休み日和です
Norikoです。
今日は…いや、今日も娘が休んでいる。
娘が週に5日毎日は学校に行けなくなって久しい。
もう最後に毎日行ったのがいつか、正直思い出せない。
いや、先月少しあったか…。1回くらい…。
娘が学校を休み始めた時、どうにもこうにもそれが私には許容出来なかった。
このまま行けなくなったらどうしよう
そんなことで学校休むなんて甘えじゃないだろうか
なんで私がこんな目にあわないといけないんだ、やりたいこと何も出来ない
学校を休むなら家でそれ以上に勉強して欲しい
という未来への不安やら黒い感情やらべき論と
少しくらい行けなかったからってなんなんだ
子どもに寄り添って甘えさせてあげるのは親の努めだ
教育に携わるものとして娘の気持ちを優先してあげねば
みたいな、一見聖母マリアに見えるような感情とで闘っていた。
まだまだ100%他人軸で生きている時代に起き始めたことなので、結局は「私の時間が奪われる」「世間からどう思われるか」「親に知られたら何を言われるか」みたいな考えで頭が覆い尽くされていた。
「私がどうしたいか」
なんて1ミリも思いつかなったのだ。
「だって、行って欲しいと思ったって行ってくれないんだから仕方ないじゃない」と諦めてイライラして神経をすり減らしていた。
表向きは行かないことに理解を示す、マリアみたいな母親ですという顔をしておきながら、内心はどす黒い感情で、癇癪が起これば私も泣き叫び、正直家の中はカオスだった。
私はずっと「ない」に注目していたのだ。
娘が学校に行かないとやりたいことが出来ない
娘がこんな事で休んでいては将来がろくなことにならない
学校を休んだら家で楽しい事をしてはいけない
教育に携わるものとして理解を示せないと言ってることに説得力がない
こんな自分に気づき始めてまずは
娘が学校に行かないとやりたいことが出来ない
という前提と
学校を休まれたら嫌という感情さえ抱いてはいけない
を書き換えることにした。
娘が休んでも出来ることはたくさんあるのだ。
出来る事を探したら、結構あるな…と思った。
娘が休むの嫌に決まっているんだから、まぁそりゃ嫌だわなと自分にその感情を抱くことを許した。
一緒に手帳やノートを書いたり、娘のやりたがる事をやる横で本を読んだりした。
それが出来るようになったら、学校を休んだら家の中にいなくてはならないという前提も自然と書き換えられた。
堂々とお昼を食べに外に出たり、図書館へ行ったり、少し遠い公園で遊んだり出来るようになっていった。
段々と娘も私も呼吸が出来る感覚が湧いて、家でお互いが泣き叫ぶ回数は格段に減った。
今は、娘が倒れるくらいなら学校行かなくて良いやと心の底から思えている。
私にとって大事なことは学校にきちんと行く娘ではなくて、娘そのものだからだ。
心を折ってまで続けないといけないことなんて、この世に一つもない。
そして、子どもの笑顔を犠牲にしてまでやらなくてはいけないこともこの世に一つもない。
それは誰よりも私がわかっている。
私がなりたかった親になるために、私は今日も娘を休ませる。
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