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【かごしま選手名鑑】#005 下園薩男商店 下園正博さん

三代目下園薩男。イワシビルや、旅する丸干し、クラフトコーラ・パーティタイム、ジビエブランドFORKなど次々と新しい”何か”を仕掛けている阿久根の下園正博さんにインタビューをしました。

(インタビュー:ふるかわりさ)

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このままでは日本はダメになっていくという危機感

先日マレーシアの商社の人と話す機会があって。SNSとかのデータを駆使して20カ国ぐらいと取引してたんですけど、日本の商社のやり方とはもう全然違うというか、世界はもうだいぶ変わってるのに日本はまだまだ通り一辺の販売手法しかできてない。友達から台湾の商社についても聞いたりしたんですけど、もういろんな部分で日本は取り残されちゃってるなと感じますね。

政府の動きとか、国家レベルのイベントの意思決定とかを見ていても大丈夫かなと思ったりしちゃいますね。それはどうしてなんだろうと考えてみたんですが、平和なのかもしれないですよね。平和だからこそ危機感がないというか。

それが瀬戸際になって、もうヤバイとなったら変わってくるのかもしれない。海外見てると若者がデモしたり、声をあげたりしてるけど今の日本ってあんまりそういうことってないですからね。

家業を継ぐ気は全くなかった

高校時代まで、家業(下園薩男商店)を継ぐ気は全くなかったですね。父も継がせる気は全然なくて、阿久根市役所に入れと言われていました。公務員は生活が安定するからいいと思ってたんでしょうね。

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でも僕としては、将来自分がサラリーマンをしてるイメージは全くなくて。本当に高校まで全然勉強してなくてですね。僕があまりにも勉強しないから、先生は「阿久根にはKSKという会社があって、メジャーリーガーのグローブとかも作ってるんだ。お前も勉強頑張ればそこに入れるかもしれないぞ」なんて言って、なんとか頑張らせようとしてたと思うんですが、そんなこと言われながらも「俺がグローブ工場で働くわけないだろう」なんて思ったりしてました(笑)

学校の先生からしたら、人生の脱落者に見えてたでしょうね。英語の授業の最中に教室の後ろでみんなで三国志の漫画を回し読みしてるようなメンバーだったんで。

何もできなかったくせに、なぜか「俺はおっきいことしてやる、サラリーマンなんてやってられない」と思ってたんですよね。最初から、何かしら自分でやりたいと思ってたんでしょうね

IT会社を立ち上げて億万長者になろう

大学受験をどうしようかなぁと考えていたんですが、高校時代全然勉強しなかったくせに、将来はIT会社を立ち上げて億万長者になって30歳で仕事辞めようと思ってたんですよ(笑)

ITに興味があって。そしたら友達が福岡工業大学ってところが情報系の専門のところだって教えてくれて、試験科目見たら数学と物理だけで。

数学と物理は公式さえ覚えればなんとかなるんで。これだったら受けられると思って受験したら合格できたんですが父親は大反対で。父は本当に勉強のできた人だったんだけど、受験当日に緊張しすぎちゃって結局 日大に行ったんです。働き始めたら周りが東大とかばっかりだったようで「浪人してでも、もっといい大学に行け」と僕に言っていました。

でも、それまで中高6年間ずっと勉強してこなかったのに、1年やって東大いけるんだったら とっくの昔に勉強してるわと反論して福岡のその大学に進学しました(笑)。全然言うこと聞かない息子だったんです。

大学行ってからは、小学校以来はじめてちゃんと勉強するようになりました。自分でパソコンの勉強したいと言ってその大学に行ったのにちゃんとやらないのはかっこ悪いなと思ったのと、ゴールデンウィークに家に帰った時、父親が一言も話をしてくれなくて。目線すら合わせてくれないんですよ。長男が1ヶ月以上家をあけて久しぶりに帰ってきたのに目も合わせないので、これは、父親の反対を押し切って大学に行かせてもらったのに勉強しないなんて、本当にちゃんとやらないとやばいなと思ってちゃんと勉強するようになりました。

大学ではやはりパソコンを一番勉強しました。情報系の大学ってオタクの巣窟みたいなところなんですよ。クラスに3〜4人しか女子はいないし、頭にバンダナかけてる人とか、授業中に食パン一斤をむしりながら食べてる人がいたりとか。その中でも情報技術研究部っていうオタクの中のオタクが集まるようなパソコンのクラブに入ったんですよ

自分は高校までパソコン触ったことがなかったので、大学入ってからその遅れを取り戻そうと思ってそういう部活に入ったりして勉強しました。その頃すごく中の良い友達ができて。そいつはパソコンめちゃくちゃできて。パソコンのことめちゃくちゃ詳しくて、どんなことを質問しても大体わかるし。

お互いゲーム好きで、海外の面白いオンラインゲームを教えてもらったりして。でもその当時インターネット使い放題ってなかったんですよね。ちょうど大学1年生の時に夜10時から朝方までは使い放題っていうサービスができたんです。だから1年生の時は、学校から帰ってきたら5時に寝て夜の10時に起きて朝までゲームやるという生活をしていました。たまに10時になるのが待ちきれなくて、インターネット繋いでやっちゃうんですけど、そしたら電話代が5万円くらい請求きて「やばい!」って友達に言ったらそいつは10万円くらい請求されていました(笑)。

その1年でだいたいパソコンのこと覚えたので部活は辞めて、その友達と一緒に自分たちでパソコン作ったりしていました。2年生くらいになると、1年生の時ほど授業が詰まってなくて空いてる暇な時間が増えたんですよ。その時間がすごくつまらなかったんです。無駄な時間を過ごしてるなって感覚。遊びに行こうと思っても友達とタイミングが合わないし、やりたいこともないので家でぼーっとしてたりで。

その時の夢が「億万長者になって30歳になったら仕事辞める」だったんですけど、結局それって、成功して仕事辞めても今と同じ状況じゃないかなって気づいたんです。お金と時間があっても、行きたいところとか やりたいことがないと今のこの状況と同じだなって。それでその時に「じゃあ自分は何をしたら良いんだろう」って考えるようになりました。

楽しく生きるためにはどうしたらいいかなって考えて、自分にしかできないことをするのが一番良いんじゃないかなって。そう考えた時、実家は干物屋をやってて、自分は長男だし、父は自分の代で会社を畳むと言ってたんですけどそれはもったいないなと思って。祖父は僕が小学生のころ「ゆくゆくはお前が(会社を)継げばいい」と言ってくれてたんですけど、そういうことがすごく頭に残ってて。やっぱり家業を継ぐために自分の存在があるんじゃないかなって思ったんです。

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2年で辞めると決めてITの会社に入社

大学在学中にITの国家資格を2つ取りました。当時その大学では他にその資格を取れたのは自分一人だけだったんですけど、偶然取れて。それだけパソコンをやってたからとりあえず2年間は好きなIT系に行きたいなと思って、ゲームが好きだったのでゲーム会社を受けたんですけど書類選考で落とされました。その時点で「ゲーム会社なんか」ってふて腐れちゃって(笑)。

卒業研究はオンラインゲームを作ったんですよ。先生にもそんなのすぐには絶対できないと言われたんですけど、パソコンが得意な奴らを誘って、自分はグラフィックだけ担当してそいつらに「お前らならできる」って言ってシステムは彼らに任せて。で、できたんですよ。オンラインゲーム。あとは、大学時代のサッカー部のHPも自分が作ったりしてて。そういうのもあったりして、自分は「作る」って好きだなって思って、ウェブのデザイン会社を何社か受けたら4年生になる前に内定をもらったんです。そこに決めて入社してきっちり2年で辞めました

その後はいよいよ水産の会社。そこで5年働きました。実家が取引している会社もたくさんあったので、父が話をしてくれるとも言ったんですが、将来的に実家に戻ると知られた状態で入社してもあまり深い部分は学べないだろうなと思って、自分でハローワークに行って会社を探しました。ハローワークのアドバイザーが、実家が丸干し屋だってことを言わない方がいいって言うから、面接の時そのことは黙ってたんですが、「鹿児島」の「下園」って言ったら「そういえば鹿児島に下園薩男商店ってあるよな」って(笑)。あ、それは親戚ですって嘘ついて入社しました。でもどうせすぐバレると思ったので、入社してすぐに正直に話しましたけどね。

入ってすぐ営業に配属されたんですけど、その当時の営業ってお客さんに媚を売るというか接待して商品を買ってもらうみたいなスタイルで、僕はそういうのが全く向いていなくて。でも、築地の市場とかってどういうものが売れているかとかそういう資料作って持っていっても全然見てもらえないんですよ。「こんなの見てられるか」って投げ捨てられたり。

当時スーパーの寿司って1パック500円とか600円とかしてたんですけど、ハンバーガーチェーンとか牛丼チェーンがものすごく安い商品売り出してヒットしたりしてたんですよ。だから、安いネタ集めて10貫298円の商品を提案したり、トレーもそれまで黒ばっかりだったんですが、赤いトレーとか使ったりして。一社でそれが流行ると、競合もそういうこと始めるからどんどん売上増えていって。自分はやはりデータ分析したりして、これからはこういうものが流行るんじゃないかとか考えてまとめたりするのがすごく好きだって実感しました。苦手な接待して媚売って買ってもらうより、こっちのスタイルがいいなと分かったのが入社3年目くらいですね。

昔、餃子事件ってあったの覚えていますか?
中国の工場で作られた冷凍餃子に薬物が入っていた事件。そこから日本のスーパーは中国で加工されたものを入れなくなったんです。でも当時勤めてたその会社は中国加工の 甘海老と樺太シシャモの丸干しで売り上げの半分くらいを占めてたので、すごく困ったんです。

その話を父にしたら「うちで作る」と言ってくれて。そんな加工をすぐに対応できる日本のメーカーってなかったので、いろんなスーパーから引き合いが来てすごく売れたんですよ。当時実家は従業員40人くらいだったんですが、max120人まで人を増やして、夜の11時くらいまでずっと作業してたりしたみたいです。

そうこうしているうちに、他の日本のメーカーも加工に対応できるようになってきて、利益があんまり取れなくなったり、日本人ってすぐに忘れるからまた中国加工品が入ってくるようになったりしたんですが、その商社の社長は漢気のある人で、それでも心配するなと言ってくれてたんですがその方が病気で亡くなってしまって。

その後からその会社はおかしくなってきて、私もケンカをして辞めて実家の下園薩男商店に帰ってきました。当時下園薩男商店の売り上げの4割ぐらいがその会社だったのですが、帰ってきて1年半くらいでその会社は倒産してしまいました。大きな赤字を出しながらもなんとかやりくりしたり、当時の(商社の)先輩たちがいろいろ尽力してくださって、売り上げは下がらずに済んで助かりました。それはとてもありがたかったですね。

三代目下園薩男

東京から帰ってすぐは、肩書きをつけないでくれと頼んで平社員をしていたんですが、仕事は好き放題やらせてもらっていました。

当時うちはイワシの丸干ししか作ってなかったんですが、ちょうど工場を閉鎖するからみりん干しをお宅で作って卸してくれないかという相談がきて工場長と2人でサバのみりん干しの作り方を習いにいったり、旅する丸干しを開発したり、値段設定を見直したり。

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あとは、当時在庫管理が全てノートに手書きだったんですが、それをパソコンで管理するようにしたり。

2010年に鹿児島に帰ってきて、2019年に社長になりました。やってることはあんまり変わらないですけどね。お金の勘定だけ、それまでよりさらに見るようになったくらいですね。

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イワシビルはですね、ある日父が勝手にビルを買ったんですよ(笑)。「あのビル売りに出されてるけど安いぞ、どうだ?」って言ってきて、でもそんなビル買ってどうするの?って聞いたら「おまえがなんかすればいいじゃないか」って言うんです。当時僕は商品開発のリーダーと、海が見える丘の上にレストラン併設のお店作りたいと思ってたんですが、それなのに1週間くらいしたら父はそのビルを買っちゃって。

で、どうするの?って聞いたら「おまえが考えろ」って(笑)。それで、もうここでお店やるしかないなってなって、もともと工場併設型のショップカフェやりたいねって話してたので1階・2階はすぐに決まったんですが、3階をどうしようかなと。そしたら何人かから今ゲストハウスとかホステル流行ってますよって言われて、ホステルだったら「旅する丸干し」とも相性がいいんじゃないかなと思って。それまでゲストハウスなんて1回も泊まったことなかったし、イメージではどんなパーティーピーポーが泊まってるの?って感じだったんですが、出張の度にいろんなゲストハウスに泊まるようになって、当時加工場とカフェ・ショップが併設されてるところなんてなかったし、メディア受けもいいかなと思って最終的に今の形にしました。

イワシビルをオープンしてから魚以外のこともいろいろやるようになりました。アパレルやったり、ジャム作ったり。

新しいジビエブランドFORK(フォーク)

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阿久根はジビエが盛んで。2018年ごろにジビエのソーセージ作ったりしてたんですが、環境活動家の大岩根尚さんに出会って、畜産関係のメタンガスの話を聞いたりして、ジビエなら環境にもいいんじゃないかなと思ってブランドを立ち上げようと決めました。

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阿久根のジビエ、鹿肉のジャーキー。特産品である柑橘を食べているので臭みが少ない。ブランド名「FORK」には、カトラリーのフォークという意味に加えて「分岐点」という意味が。
今日の食卓に何を選ぶかという判断ひとつひとつが、未来を創る。

今は鹿肉のジャーキーだけですが、ソーセージなども出来上がっているので今後作り手が見つかったらそれを展開していったり、来年キッチンカーを作る予定なので、それでジビエのタコスかソーセージホットドックなのかを作ってコーラと一緒に販売できたらいいなと考えています。

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海をイメージさせる塩と甘酸っぱい柑橘で、飲むだけで気分が晴れやかになる、コーラシロップ・パーティータイム

今後は阿久根にFORKというブランドを体現するような、見ただけで「おいしそう」と思えるようなお店を作りたいと思っています。今ジビエってだけで反応する子たちって環境意識が高いことが多いんですが、その子たちが希望するような働き場所がまだすごく少ないんですよね。そういうものが地元にあるといいなと思っています。

あとは、アンチョビですね。工場を作りたいと思って自分もすごく期待してるんですが、発酵がすごく難しくて。発酵学も勉強したいと思ってるんですが、まだなかなかできていません。

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アンチョビも焼酎のように空中の菌とかすごく大事みたいなので、加工場を作んなきゃいけないなと思っています。阿久根産のウルメイワシを使って阿久根で作りたいです。1回うまくいったんですけどね、その時は20キロくらいしか作らなかったんですが、次の年は100キロくらい作ったのに全部腐敗しちゃって。いまいろいろ試してるんですが、結果が出るのは1年後なんですよね。そこからまた繰り返しいろんなことを試そうと思うとけっこう時間がかかります。本当はアンチョビの仕事だけをしていきたいです。

他人事だと思っていた環境問題

イタリアのシチリアの水産工場に行った時に、アンチョビを作るなら魚は大きい方がいいと言われて。それは生産効率が上がるからなんですが、水産資源ってどんどん減ってる中で(小さいイワシではなくて)30cmくらいに成長したイワシを使えるなら資源管理もできるし。そういう意味もあってこれはうちが今後やらないといけないことでもあるなと思っています

丸干し事業も少し前まではあと30年は持つと思っていたんですが、最近は思った以上に凹みが激しくて、もしかしたら10年でかなり危なくなるかもしれないとも思っています。

丸干し自体がけっこう売れ残って値引きされたり破棄されたりということがある商品なんですが、2年前に全然イワシが取れないことがあったんですよ。その時に一度スーパーの棚から消えちゃって。それでもスーパー側からしたらあんまり売り上げ変わらないじゃんと。そうなるとなかなか戻すの難しかったり、食品ロスの観点から冷蔵じゃなくて冷凍やレトルトでの商品開発が必要になってきたり。そういうのも柔軟に対応するようにはしていますが、それだけじゃなくて、近い将来ぱったり魚が獲れなくなる日が来るかもなと思っています。そういうこともあってイワシビルやったり、いろんな商品を作ったりして準備はしてるつもりなんですが、徐々に魚が減るんじゃなくて、突然獲れなくなるってことはありえるなと思っています。

地球環境とか、環境問題とかって他人事だと思ってたんですが、大岩根さんの話聞いてから、これもそうか、これも環境の問題かとすごくリアルに伝わってくるというか。でも僕らの業界でそれを分かってる人ってまだほとんどいないと思います。これは本当にちゃんと考えていかないとまずい。

少し前までのエコの話って、それでもまだビジネス寄りな感じを受けていたんですが、でも今の環境問題に関しては本当にしっかり考えないと自分たちの事業に直結することになっているし、うわべだけの慈善事業的な話じゃないよということを実感として持たないといけないなと思っています。

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阿久根の子どもたちの中にも、川で遊んだことないとかそう言う子けっこういるんですよ。うちの子どもたちが同級生とか連れてきても「初めて川に入った」とか「魚がいるよ!」とか。こんな田舎に住んでるのに川で遊んだことないの?って聞いたりするんですけど、自然の楽しさを体験したことのない子たちは環境問題とか言われてもピンとこないと思うので、そういうことを感じられるような人を育てるってことも大事になってくるのかもしれないですね。

下園薩男商店オンラインショップ
https://maruboshi.thebase.in/
イワシビル
https://iwashibldg.jp/


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