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歴史 x Transformation:現代における明治維新とは何か。~歴史から未来を見つめ、真の社会変容を問う~

薩摩会議2023のDAY1は、薩摩島津家別邸の仙巌園という歴史深い場所で開催された。基調セッションの1つ目のテーマは「歴史」。翌日から始まる12のセッションの文字通り基調となるセッションとなった。

登壇者は、木戸寛孝さん、坂口修一郎さん、高木新平さんの3名。

木戸 寛孝
世界連邦運動協会 理事長
1969年生まれ。慶応大学法学部卒後、(株)電通に入社。電通を退社後、1999年10月から2003年3月まで千葉県香取市で農業に従事。2003年11月から、国際NGO世界連邦運動協会の事務局長として、2002年オランダ・ハーグに常設された国際刑事裁判所(ICC)に日本政府が加盟するためのロビー活動において中心的役割を果たす。2022年10月より理事長に就任。明治維新の元勲・木戸孝允の直系6代目。

坂口 修一郎
BAGN Inc. 代表
GOOD NEIGHBORS JAMBOREE 代表
NPO法人SELF 監事
1971年鹿児島生まれ。無国籍楽団ダブルフェイマスのオリジナルメンバー。2010年より鹿児島でクロスカルチャーな野外イベント〈グッドネイバーズ・ジャンボリー〉を主宰。BAGN(BE A GOOD NEIGHBOR) Inc.代表として現在は東京と鹿児島の2つの拠点を中心に、日本各地でオープンスペースの空間プロデュースやイベント、フェスティバルなど、ジャンルや地域を越境しながら数多くのプレイスメイキングを手掛けている。

高木 新平
NEWPEACE Inc. 代表取締役CEO
富山県 クリエイティブ・ディレクター
1987年富山県出身。早稲田大学卒業後、(株)博報堂に入社。2014年独立し、(株)NEWPEACEを創業。未来志向のブランディング方法論「VISIONING®︎」を提唱し、数多くのスタートアップの非連続成長に携わる。現在は、コミュニティマネジメント事業を展開。その他、富山県成長戦略委員、(株)ワンキャリア社外取締役など。 ■Discord/Slack分析ツール「comcom analytics」、起業家の人生ストーリーPodcast番組「インサイドビジョン」、子育て夫婦の生会話「妻のパンチライン」など、全て無料公開なので要チェック🔥


基調講演「歴史」セッションの登壇者

木戸氏による明治維新のレクチャー

歴史に学ぶということ

 歴史とは、時間の流れにおける「記憶の集積」です。通常は、いつ・どこで・何の出来事があったかを事実として突き詰めていくのが歴史ですが、薩摩会議では、歴史的な事象をアナロジーとして取り出して、それが現実を生きる上でどのようなヒントになるのかという観点から一緒に明治維新について考えてみたいと思います。人は共同体の中で個として生かされていて、レジーム(体制)に「適応」しながら同時に「変化」も与えていく存在です。国、地域、コミュニティといった、それぞれのスケールの共同体がありますが、同心円上に同様なアナロジーが働いているかもしれません。

 歴史の流れには2種類あります。それは「円環」するものと「直線」的なもの。前者はその時その時の時代性(時間と空間)を越えて、パターンもしくはある種の「理」(ことわり)として立ち顕れてくるもので、そのことが生きるためのヒントや洞察を与えてくれます。後者の直線的な時間とは、常に過ぎ去っていく二度とない瞬間の連なりです。だからこそ、私たちは歴史から円環する理を学び、直線的な時間の中で具体的な選択と行動を通じて未来を創造していかねばなりません。

 明治維新のアナロジーは無数に存在するでしょうが、その中でも薩摩会議のテーマになっている「不可逆的な変容」というアナロジーが明治維新ではどのような形で顕れてくるのかを見ていきたいと思います。

幕末における「不可逆的な変容」とは

 通常はまず価値規範となる「基軸」があって、その基軸にそぐわないものを問題として扱い課題を解決をしていくので、そのことは従来の基軸をより強化していく方向へと繋がっていきます。一方で「不可逆的な変容」とは基軸そのものを揺らがせ、そこから脱していくことを意味していると考えます。

 基本的に共同体とは、その内部と外部を保証する仕組みがあって機能するのですが、幕藩体制の時代は、内部(現在でいう社会保障制度)は「身分」制度、外部(現在でいう安全保障制度)は「鎖国」体制、この両輪があってレジームが成立していました。その幕藩体制に「不可逆的な変容」が起こったということは、当時の身分制度や鎖国体制を成り立たせていた価値規範が揺らいだことを意味しており、とくに薩摩藩は下級武士たちの台頭による下剋上が生じ、また薩英戦争の敗北により攘夷(=鎖国)の不可能性を身をもって自覚することとなり、藩の政策的基軸は攘夷から倒幕へと「不可逆的変容」が生じ、そのことにより薩摩藩は明治維新を成し遂げていく舞台に立つことになったのだと思います。

 ところで、いまSDGsという言葉を通じて社会の持続可能性が問われていますが、それは今まで依って立ってきた仕組みが「持続不可能」になりつつあるからです。その不可能性は先ずはある種の「違和感」として受け取られ、それがさらに身体化されると「危機感」になります。それは決してネガティブなものではなく、違和感や危機感から変革のインスピレーションが生じ、新たな可能性を生み出す創造の力へと転化されます。変にポジティブであろうとする現在の風潮はむしろ創造の発露を阻害する一面もあるように思います。むしろ、自分の内から湧き上がる違和感や危機感を契機に、それを己の気付きや変容に繋げて創造の力にしていけたとき、本当の意味での自己肯定感が醸成されるのではないかと思います。

個人的レベルの「不可逆的な変容」が社会に変化を生み出す土台となる

 薩摩藩のリーダーである西郷隆盛は、二度の「島流し」という経験を通じて、目上の身分の者に対する絶対服従という武士の価値規範を捨て去ります。特に二度目の島流しは島津久光に物申すことによる流罪であり、斉彬に忠誠を誓っていた西郷とは別な、鬼の西郷へと変容を遂げた姿が伺えます。江戸城無血開城やその後の続く廃藩置県などもこうした変容過程がなければ罪悪感からリーダーとしての役目を全うできなかったかもしれません。また自分の先祖の木戸孝允も、蛤御門の変をきっかけに幕府による激しい残党狩りにあい、出石へ「潜伏」した際に、西郷と同様の、既存の価値規範を脱するプロセスがあったと思います。坂本龍馬の場合は、それが「脱藩」でした。

 人生において依って立ってきた基軸を手放し、誰でもない、どこでもない空間に晒されるという「個人的レベル」の不可逆的変容の経験が、社会に対しても不可逆的な変容を起こしていく上での土台になっているのだと思います。

 職業選択の自由、移動の自由、さらには物質的豊かさもある現代における「不可逆的な変容」は、必ずしも当時の西郷や木戸のようなレベルのエキセントリックな経験をしなければならないということではないと思いますが、それでもこの時代における自分が依って立ってきたものを揺らがし手放していく経験は必要であり「21世紀における島流し・脱藩・潜伏」とは一体何なのかを問うことは意味のあることだと思います。決してそれは、現象としての大きな物語である必要はありませんが、日々の日常(小さな物語)の中で常識や、時に正義とされる事に対しても違和感や危機感を感じとることのできる鋭い感性は求められます。また、既存の価値規範を脱していくリアルな体験は、安全圏に身をおいたままあれこれ考えるのとは全く違う次元で、自分たちの置かれている社会の限界を真に受け止めることに繋がっていくことから、変革者へと変容を遂げていくためには避けて通れない通過儀礼といえるでしょう。

社会的レベルの「不可逆的な変容」=黒船との遭遇

 明治維新のようなレジームチェンジが起きるには、個人レベルの不可逆的な変容だけでなく、合わせて「社会的なレベル」で不可逆的な変容を引き起こす出来事との遭遇が条件として求められます。明治維新の場合、それが「黒船」でした。薩摩藩の場合は薩英戦争、長州藩では下関戦争です。両藩とも尊王攘夷を掲げているからこそ黒船に闘いを挑むわけですが圧倒的な敗北を期します。そのことにより「攘夷の不可能性」を身をもって実感し、方針を攘夷から討幕へと変えていきます。その認識の変化こそが明治維新における「社会的レベルの不可逆的変容」といえるでしょう。明治維新を先導することになる薩摩と長州の両藩が完全なる敗北という身体的な危機を経験しなければ、明治維新への流れは起こらなかったかもしれません。

 黒船とはたしかに危機を象徴するものですが、同時に次の世界の方向性を指し示すものでもあります。同じ危機でも疫病(江戸のコレラ蔓延)や天災(安政の大地震)や経済危機(金の海外流出)も明治維新の背景にはありましたが、黒船はそうした危機とは本質的に違うものです。何故なら、明治維新による日本の近代化とは「社会を黒船化した」ともいえ、その意味では単に危機ではなく、次に目指すべき方向性(思想や技術)をもたらした存在ともいえるからです。だからこそ、吉田松陰や坂本龍馬や福沢諭吉などの鋭い感性の持ち主は黒船を見たときに危機感より好奇心の方が上回ったのかもしれません。だとしたら、私たちは「現代の脱藩」と合わせて「現代における黒船」とは何かも両輪で考えていく必要があるでしょう。

 円環する時間の歴史として明治維新を見ていくとき、その背景に変革する際に求められる理(ことわり)の様なものが浮かび上がってきます。その理を現代に生きる私たちに当てはめてみたとき、一体それはどのようなことなのかを、次は対話のセッションを通じて皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

ということで、これまでの話を踏まえて、3つのテーマを用意しました。

1.現代の「島流し、脱藩」とは何か?
2.現代の「黒船」とは何か?
3.現代の「尊王討幕」(今までの常識とは違う新たなビジョン)とは何か?


セッション

高木:歴史とは何だろうか、社会構造の中にある理を捉えることで現代に適用可能になる点は興味深いですね。内部の逸脱と外圧の両輪がそれぞれ回ってゆくものとは何でしょう。

坂口:打ち合わせで聞ける話も面白かったですけど、歴史スポットを目前に、仙巌園で聞く歴史の話はインパクトが全然違いますね。
共同体の中に個が立っているという点で、先ほどの話は現代の人にも響く気がしています。島流しや脱藩が個の変容に大きな意味を持つということですが、僕は学生の時に「このまま鹿児島にいたらまずいのではないか」と違和感があって18歳で上京しました。あれは脱藩だったんだなと木戸さんに指摘されて気付きました。

違和感:自分が依って立つものから逸脱する

高木:木戸さんのお話で小さな物語が大切だと言われました。薩摩会議に集まっているメンバーも小さな逸脱を乗り越えてこの場にいると思うのですが、どう捉えたらいいですか?

木戸:自分のことで言えば、非常に恵まれた環境に生まれてきて、慶應大学を卒業して大手の広告代理店に入社したわけですが、学歴や職歴も説明のしやすい選択の中でステレオタイプな自分がそこにはいたと思います。そこまでは全くもって島流しや脱藩といった状況からはほど遠い自分がいて、むしろ高い身分にあぐらをかいている旗本みたいな感じといえるでしょう。でも、入社して3〜4年という時が過ぎる中で矛盾が無自覚なまま増大して、その「違和感」に耐えられなくなり退社してしまいました。自分の中で何が起こっているのかもよく分からず、これまで順調にやってきたのに、急にスイッチが入ったかのように葛藤が始まります。その時に純粋に感じたのは、これ以上「時間を搾取されたくない」という思いでした。

 鬱や自律神経失調と安易に括られがちですが、むしろ体や心の微細な反応に対して素直に自分を開き、その声に恐れず耳を傾け導かれるとき、自分が真に求めていることに気づけるような気がします。自律神経系は、本来は自分の意志で簡単にコントロールできる様なものではないのですが、体内時計ともいうべき「生命の時間の律動」を取り戻したいとするなら、何を優先し、どのような環境設定にしなければならないのかを、目を背けずにちゃんと考えていかなければならないと思いました。

 会社組織で働いていた時に自分が依って立っていたものはサラリーと、人に説明のつく世界の中にいるという安心感でしたが、それらを逸脱してでも確保したい「時間」や「神経の持続可能性」はどこにあるのか。個人レベルではだいぶ解決しましたが、それが社会レベルで解決されるにはどうしたらよいのか、今も問い続けています。

高木:「自分が何者であるか説明できる状態でありたい」ということと「サラリーの安定」は、今起きている問題と関係があると思っています。明治維新までの内側の社会保障に当てはまるのだと思うけれど、その構造を逸脱して、ここにいる方々もいくつも肩書きがあったり、何者かわからない人々が集っていると思うんですが、そういう人たちが何かしようとしている。

坂口:

肩書きと言えば、自分もよく怪しまれます。会社も音楽も本格的にやっているからインタビュアーが不安そうな顔をするんですよね。「この人はシステムから逸脱した人間だ」と感じているのかもしれません。僕らがやってきた音楽もいろんなジャンルのオルタナティブだけど、結局ジャンルの外側でやっている活動なので、「無国籍」なのでしょうね。でも、だからこそ見えるものもある。


虚無感:近代自我から脱却するための契機

坂口:木戸さんが由緒正しい家系から出てきたのに、そこから逸脱したことに強いモチベーションを感じます。何か違和感を感じていたのか、そして、その違和感とは何だったのでしょうか?

木戸:そう言っていただけると有り難いのですが、自分が会社を辞めた時に志を持って辞めたのかというと、全くそうではないんです。むしろ、無気力で。でも、この「虚無感」というものが、普通に生きていた時には外側ばかりに目が向いていたのですが、なかば強制的に「自分の内に目を向けさせられる」機会となり、28歳の時に慣れ親しんだ都会の生活を離れて、千葉で隠遁的な土へと回帰する生活が始まることになります。

 千葉で過ごした4年間、晴耕雨読する中で、先祖らが明治維新によって築き上げた「近代」というものをいかに乗り越えていくのかが自分の為すべきテーマだという思いに至ります。その近代が生み出した最たるものが「近代国家」というシステムと「近代自我」(人間中心主義)という人間観で、それは私たちの思考パターンの前提として、まるでOSのように組み込まれています。近代化の流れはヨーロッパにおける市民革命に由来し、中世キリスト教世界による搾取からの解放は人間性を取り戻していく上で重要な歴史的プロセスでしたが、一方で世界の中心には神にかわって「人の自我意識」が君臨することとなり、その様な人間中心主義の価値観が現代社会のあらゆる階層において、例えばマクロには人と自然、ミクロには自分の心と身体といった具合に、深刻な「分離」を引き起こしています。そうした分離状態に「再結合」を試みようとするとき、私たち日本人は自国が育んできた文化や美意識を土台にしてアプローチすることが可能だと思っています。

坂口:虚無感から始まったという点が興味深いですね。自己肯定のために自己否定から始めたと。僕は、昭和の学び場での固定観念が息苦しくて東京に出ていってしまったところもあります。虚無感とは、人の人生を変えてしまうほど大きな存在なのではないかと思いました。近代を乗り越えようとする小さき者の小さき物語、その集合が一つの大きな流れになってゆくのがポストモダンかもしれませんね。木戸さんの農業には、天然の島流しのような感想を持ちました。

武士、軍人、企業戦士という社会的ペルソナ

高木:難しい話になってきたね。日本の失われた30年について、何が失われたのかを誰も教えてくれないけど、僕なりには手本となる国家を失って、方向性がわからなくなってしまったのかなと思っていて。日本のシステムから逸脱する人は増えている気がするけれど、これまでのやり方ではない、日本ならではの文化のつくり方とはどんなものでしょうか。

坂口:かつてよりシステムは弱くなっているけど、システムから逸脱するというのは、ものすごい覚悟がいるよね。

木戸:社会的なレベル、つまりシステムの不可逆的な変容に先立って、先に述べた個的な内なる変容は、各人それぞれ違った環境の中でオリジナルな経験を通じて起きていくものだと思いますが、それは決してゴールではなく、変容によって純化した自分を再び社会に接続していかなければなりません。その時に元の状態に戻ることなく、変容した自分のままでいられる様に外側の環境を整えていこうとするとき、社会変革が「自分ごと」になっていきます。すると悩むことはあっても、迷うことはなくなります。

 歴史的プロセスを俯瞰してみると、明治維新以前の封建制度において社会に秩序を担保するものが「身分制度」であり、その中で最も力を持つ存在が社会のペルソナ(人格)を形成するわけですが、それが「武士」でした。明治維新の近代化により身分制度が解かれるかわりに社会秩序は「軍事力」(近代兵器)によって担保される時代となり、その社会のペルソナは「軍人」へと移り変わっていきます。ところが、核(物理科学)という戦前・戦後を切り替える黒船的な存在の出現により、秩序は「経済力」と「技術力」を担保しなければ生き残れない世界へと変容します。それが高度経済成長を目指す戦後のパラダイムであり、その中で社会的ペルソナを演じたのが「企業戦士」でしたが、時を経て21世紀となり、その構造も限界を迎えています。たしかにお金は必要でしょうが、そのお金と引き換えに時間や神経系のバランスが搾取されるとき、それでも経済、お金が大事だと言えるのか?そのようなジレンマにさいなまれているのが現代人の姿かもしれません。

生命力という新たな基軸と神経の持続可能性

木戸:だとしたら軍事力や経済力の次にくる新たな社会の基軸は、どのような力を担保していけばよいのでしょうか?おそらく、それは「生命力」だと自分は考えます。生命力を担保する暮らしや働き方から生まれてくる「新しい社会のペルソナ」の設定はこれから起きてきますが、まさに先行して様々な社会的実験に取り組む薩摩会議に参加している皆さんたちこそが創り上げていくのだと思います。

高木:グローバル標準的な流れの中で、核による安全保障機能も企業の力も、95年頃を起点に弱体化していると思います。豊かさの価値基準が経済力だけではないとされてきた一方、転換はどこかで起こるのでしょうか。

木戸:仮に江戸末期の社会変革がレジーム(身分制度)はそのまま残した形で、江戸の三大改革に続く四つめの改革と位置づけられるようなレベルに終わっていたら、西郷も木戸も龍馬も脱藩はしたかもしれませんが、社会に不可逆的な変容ももたらすような舞台には残念ながら立てなかったと思います。やはり内部の逸脱と、黒船に象徴されるような外圧の両輪からの変容が起きないと根本的な構造変化は引き起こせないと思います。

 でも、これは間違いなく起きますよ。今の社会保障制度も安全保障制度も限界で、ちょっとした出来事を契機にして崩れていくのは時間の問題と思いますが、そのことは個人的な不可逆的変容は済ませ新たな仕組みを作ろうと動き出している側にとっては大きなチャンス到来と言えます。その過程で「生命力」を基軸とする「新しい社会のペルソナ」が設定されることとなり、全てがお金に還元されるやり方とは違う形で社会保障制度の枠組みも作られていくのだと思います。

 日本は戦後世界の勝ち組の側にいますが、戦後を築き上げた従来の考え方や知見に縛られたまま問題に対処してみても、結局は同じ事が繰り返されることになりかねません。同じ事とは戦前・戦後の切り替わりとなる原体験であり、それは太平洋戦争であり、東京大空襲、原爆投下で、つまり多少形は違ったとしても結局は21世紀版の「戦争」が起きると言うことです。

坂口:不可逆的な変容で違和感の話が出ていましたけど、違和感では強い行動が生まれにくいと思います。違和感より、強い危機感。これは本当にまずい!というレベルにならないと行動は生まれにくいのではないでしょうか。

木戸:戦争は嫌だと思える感覚は「身体」レベルによって担保されるべきもので、思考や経済偏重に陥ることで身体感覚から離れると痛みを忘れて暴走するのが人間の常です。話が飛躍するように感じるかもしれませんが、深く呼吸ができること、きちんと立って歩けること(背骨の重心バランス)、落ち着いて座れること(マインドフルネス)、ぐっすりと寝れるといった、ものすごくプリミティブな身体感覚が研ぎ澄まされると人は間違わない。でも今の都市で暮らす人々は、その次元で壊れていて、だからこそ様々な角度から「神経レベルでの持続可能性」が社会の要請として立ち上がり、それにより「生命力」を基軸とする「新たな社会的なペルソナ」が生み出されていくきっかけになっていくのだと思います。

近代自我の卒業と日本文化

高木:個人レベルで変革は起きはじめているし、自立性を持って動こうとしている人や地域は現れていると思うのですが、皆、黒船のような外圧を求めている気がしていて。さきほどの話では黒船は核や戦争を指しますが、外側と内側の構造で歴史が変わる時代を乗り越えなければならないのかと。つまり、外側の何かではなく、自分たちの意思や観念を変えてゆくことで、最終的には新しい歴史をつくらないといけない。だから難しいチャレンジになっているのかなと思いました。

木戸:新平さんの考えに同意します。あらゆる社会の階層で分離を引き起こす根源的な原因は「近代自我」にあると考えています。その人間中心・自己中心的な思考回路から卒業するには、心の中心にある自我を周縁化する。近代自我は、自我を鍛えて理性を獲得していくことにありますが、自我の周縁化とは「自我を滅していく」ことであり、人間としての「あり方」(being)が根本的に違うことが理解できるかと思います。Well-beingという言葉が当たり前に使われる時代になりましたが、何がWellなのかをよく吟味する必要があるでしょう。

 また、こうした次の人間のあり方を考えていくとき、実は日本文化は非常に成熟した文脈を積み重ねてきた歴史的背景があります。それは「道」として表現されますが、様々な芸事をしていくなかで、芸の技術を磨くことで自己表現することが一義的な目的ではなく、芸を通じて人間(魂)を完成させることが「道」の本質であり、芸を媒介にして向き合っている世界と自己とが溶け合い、対象と「ひとつ」になっていく、つまり自分を消していくところに芸(美)の完成、人としての完成をみます。

 仏教だと無や空と表現したりもしますが、それは何も無いとか空っぽのことではなく、自我を滅し自我を周縁化すると、心の中心に自ずと自我を超えたもの(大我)が立ち上がってきて、それがhumanity(人間性)であり、慈悲や愛と言われるものです。日本はこうした文脈を宗教的なものとしてではなく「芸道」を切り口にして「文化」として語っていける可能性を秘めており、更にそれを21世紀に相応しいかたちでナラティブ(物語)を編集していく際には哲学や科学的な知見も重ね合わせていく必要があるでしょう。

坂口:黒船というキーワードがありました。かつての黒船は外から来るものだったけれど、今の黒船はすでに自分たちの中にあるというか、自分たちで生み出してしまったものという感じがします。

木戸:最近よく語られる「人新世」も同様な文脈ですよね。さまざまな問題が複雑に絡みあっているとはいえ、それを言い訳にせず、人間の関与が問題の根にあることを受け入れ、自然を思い通りに制御して解決しようとするのではなく、人間(自分)のあり方そのものに変化を与えていく。自分自身の自我をほどき、自我の奥にあるトランスパーソナル(超自我)的な意識の領域(humanity)を目覚めさせ、地球や自然の声といったものにも同調していけるような微細な感覚を体得していくことが、この時代における変革の最前線だと自分は思っています。この薩摩会議を主催するチームが「SELF」という名を掲げていることもきっと偶然ではないでしょう。

人間自身の省エネ

ゲスト(井上):お話を聞いていて、先ほど登場した「虚無感」が気になっています。一方で、僕たちは今、虚無感だけでなく、希望として「抜け感」を感じてもいると思うんです。今、気候変動やパンデミックが世界中で起きて、良くも悪くも、地球の声が聞こえ始めている。以前は、おかしなことを続けていても、結果が見えるのはずっと先だった。でも、私たちの世代は日常の振る舞いの一つひとつが、どうもちゃんと返ってくるらしいと、体感できるようなところまで来てしまった。150年前に比べても、実は、より絶対的な正義というか、おかしいと感じることにNOと言い、正しいことが通りやすい状況にもなっていると思うんです。
人新世となり、個人のwell-beingと社会のwell-being、そこに地球のwell-beingが加わってきた。より体感をもって、個々が「私」を主語にして、本当に感じていることや違和感に気づいて、自分たちが欲しい未来を意図し動かしていく必要がある。とても難しい状況であると同時に、すごいチャンスでもあり、岐路であり、希望でもあるというのが、今の私たちの世界ではないかと思っています。

坂口:虚無感というキーワードについて、人間もひとつの自然だから、自分のリズムと合わないものに対しての反応が虚無感なのかもしれないと思います。
自然とは偶然と必然の集合体のようなものだと考えていて、そのリズムに共鳴してゆくイメージがwell-beingなのだと思います。そう捉えると、明治維新以降の体制に限界が来ていることは明らかに感じます。経済合理性を無理やり押し進めることで、最前線に立つ人たちが苦しんでいる姿も多々、目にしますから。現代版の島流し・脱藩を経験したからといって、人やシステムは簡単には変わらないし、黒船的な存在もない中で、人類が自分の身から出た錆に気づくことは可能なのでしょうか?

木戸:例えばエネルギー問題を考えた時に、省エネすべきものは資源としてのエネルギー以前に、それを使っている「人間自身の省エネ」がなければ根本的な解決には至らないと思っています。その場合のエネルギーとは自我(欲望)のことで、今の人間は自我が強すぎ(自分本位)であり、そのため感覚も粗野といえます。でも、そのことが教条的なものとして受け取られるのではなく、省エネされた人のあり方、つまり省エネなライフスタイルや働き方、またそこから生まれる間合いの「気持ちよさ」が「ハッピー」だという価値観が浸透し共鳴していけば、社会にそうした方向性が無理なく受け入れられていくような気がしています。また自我が滅することで興奮度が下がることは、ストレスや疲れからも解放されることに繋がり、そもそも人は疲れると他の誰かに対して「思いやり」をもてなくなると思います。

異常な世界と心の進化

坂口:木戸さんは、自分の自然な気の流れを見つめ、機微に感じ取られているのだと思います。そして、世界で多くの人が同時多発的に共鳴しているのでしょうね。そこで、目に見える形ではなく、自分たちがつくり出してしまった過去の不自然なシステムをもう一度捉え直そうと時間が回り出している印象があります。一度歴史に戻って、過去から現在、未来と一直線に進んでゆくという近代的な時間の流れより、円環している時間の流れがあると、人々は気付き始めているのではないでしょうか。

木戸:腹切りは日本人の美意識の一つと言われたりもしますが、本当に今やれって言われたらどう思いますか?それと同じ感覚で、赤紙が来てお国のために戦争へ行くことも、自衛隊の方には感謝しますがやはり普通は嫌ですよね。でも、切腹は6〜7世代、赤紙は3〜4世代ほど遡ると当たり前、むしろ正義だったりするわけです。でも現代は切腹したり、強制的に戦場に送り込まれることはなくなりましたので、円環する時間のなかで人間は確実に「進化」しているとも言えます。今の社会の当たり前は、生きていくためには働いてお金を稼ぐことといえます。でもこの当たり前も150年先のNHK『映像の世紀』で見たら、人生においてお金を優先順位の一番に置き、大切な時間を切り刻むことで心の余白を失い、心と体をつないでいる神経をすり減らしてまでもお金に翻弄される人の姿は、異常な世界として目に映るかもしれません。私たちが取り戻したいものは「時間」であり、その時間を自分本位に使うのではなく関係性(愛・humanity)を育むためのものにしていきたいというのが、この時代が真に求めていることではないのでしょうか。このような「意識の変化」が今度の社会変革の基調になっていくと思います。

高木:この大きな問題を自分の日常に置き換えて考えてみます。自分もなるべくいつもご機嫌でいたいなと思う中で、一番ご機嫌でいるのが難しい時間が子ども3人といる時間なんです。今日もワンオペで連れてきているわけですが。(笑)子どもって身体や地球環境くらい自然なもので、身体的だから意識では制御しづらい。だから、はっきり言うと、今、近代自我の中にある日本では、子供は邪魔者で、コストとも言えます。自然の中で子どもとしゃべることはできても、このようなフォーマルな場では子どもを連れてくることさえ難しい。こんな状況をどう扱うか考えなければいけないと思っています。

木戸:新平さんと子ども達が薩摩会議の場で時間を共にしている姿に、本当に良い感じだなと思って見ていました。というのも、新平さんが一人の人間として子どもと接している姿を垣間見たからです。近代自我であれば自己中心的な意識であるが故に、また時間にも余裕なく生きていることから、躾と称しながら大人の都合で子供を制御しようとします。また無意識的であれ責任と称して子供の存在を親の所有物の様にして扱う傾向があります。でも決して悪気はなく、それが近代自我の(利己的な)心から生じる愛のかたちなのです。ご縁があって父と母から生まれてきたとしても、子どもは親の所有物ではありませんよね。親である人間がもしも自我を周縁化すると、子どもを愛することは何も変わりませんが、愛し方、接し方は大きく変わることでしょう。

高木:僕が子供に優しくできないのは、僕の能力の問題ではなく、人類の難しい問題にぶち当たっているからなんですね。この近代自我を終焉化できれば、優しく接してあげられるかもしれない。その輪が広がれば、近代自我の対立上、戦争みたいなもので自己否定するのではなくて、平和的に変えてゆけるということですね。というわけで皆さん、我が子をカオスでも優しく接してあげてくださいね!これでご機嫌に薩摩会議を楽しめます。(笑)

それではこのあたりで。今日は、どうもありがとうございました!

(ライター:友安麻里亜  校正:SELF編集部)



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