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「外の世界」は鏡像

「外の世界」は「内なる世界」の鏡像だという考え方があります。

これは決して自分のオリジナルの考え方ではありません。この考え方が身に付いてしまったのは、ヨーロッパの文学と哲学を読んで育ったからかもしれません。この考え方は理性やロジック、または「正しいものの見方」とは関係なく、完全に無意識的に身に付いていてしまっています。そのルーツをたどると、キリスト教や古典主義以外の世界観や神話に憧れていたロマン主義という文芸運動までさかのぼるかと思います。(詳しい背景は、調べれば出てくるはずですが、それがこの文章の目的ではありません。)

この考え方によると、「人間の外の世界にあるもの」と「人間の心の中にあるもの」すべてが繋がっているのです。なので、外の世界で何か面白いものや、インスピレーションを与えてくれるものを見つけたなら、それは自分の「心の中の世界」にあるものの影で、その「内なる世界」ではそれの10倍くらいの強さですでに存在しています。
「影」というより「跡」という単語のほうが適切かもしれません。筆の跡が「筆」の存在を示しているような意味で。

この考え方によれば、「外の世界」で可愛いものを見つけたら、それは自分の心の中に可愛いものがあるからです。自分の外で光を見つけたら、それは自分の中に光があるからです。逆に、暗いものや絶望を見つけたら、それは自分の中に暗いものや絶望があるからです。
世界を「知る」ことは、「無意識的にすでに知っていることに再び出合う」ことです。

「外の世界」は「内なる世界」に刺激を与えながら、中にあるものを眠りから覚めたり、忘却から引っ張り出したりしていて、つまり心の中にある大事なことを思い出させてくれるのです。それは「外の世界」の役割。

「心の中の世界」のものの存在感やパワーがあまりにも強烈で、それについて普通の言葉では語れないのだが、「外の世界」にある影くらいのものについてなら、普通の言葉を使って話せます。私たちは普段「形のあるもの」ばかりについて話しているのは、こちらのほうについて話しやすいからです。

「心の中の世界」のものについては、「詩」くらいの言葉がないとなかなか話せません。
詩はまさに「内なる世界」について語れるためにあると言えます。詩にはやはり特別感があり、特別なシチュエーションで登場します。日常的に詩を使うことになると、その特別感も少し失われる恐れがあります。できれば、日常的に「非日常」的な時間を作って、そこで詩に触れるようにすればいいと思いますね。

一方で、普通の言葉を使うなら、「外の世界」のものについての話になりますが、それはそもそも「心の中の世界」の鏡像だから、完全に無関係ではないわけです。一見無関係のように見える「外の世界」のものに「内なるもの」を見つけるという手もあります。

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