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雅号

生け花をしばらく習い続けて、ある段階から花展への参加やお免状の話が出て、それで雅号を付けられることになりました。その時までは、「雅号」というものについてほとんど何も知らずにいました。「芸名」だと思っていたので、どう見ても素人の自分がどうして雅号を持つ必要があるかはよく理解できず、花展などで使う「ニックネーム」として捉えようとしました。しかし雅号を与えられて初めて分かったのですが、これは芸名でもニックネームでもなく、名前なのです。

伝統芸術の分野で独立して活動されている方の中に、自分の雅号を自分で決める方もいますが、一般的に師匠に付けられることが多いようです。これこそが「名前」に一番近い要素だと思います。個人である自分の「外」から与えられていること。「外」と言っても、師匠から教えをいただいている以上、弟子としての自分と師匠の間には切っても切れない関係があります。何かを習う過程では師匠の知恵と意識の一部が弟子へ伝わり、その人の中へ流れ込んでいくからです。それで師匠の名前の一部が弟子の雅号の一部になることも昔からよくあります。

数年前のことですが、年が明けて初めてお稽古に行ったら、雅号が決まったと知らされました。「桜香」と書いて「おうか」と読む名前で、先生が嬉しそうにその由来を説明してくれました。自分に合う雅号を探して色々調べていただいていたちょうどその時期に、テレビの朝番組で『西行桜』という能が放送されました。それを観て私のことを思い出されてその場で「これだ!」と考えられたそうです。なので「桜」の部分は『西行桜』からのもので、「香」の文字は先生ご自身の雅号の一部でした。

『西行桜』はめでたい能で、自分もとても好きな作品です。内容としては、桜が満開の夜に老木の桜の精が現れ、西行と言葉を交わした後に舞を舞うという、妙に明るい雰囲気の中で起こる一連の出来事です。夜中に見る桜のイメージを観客の意識に蘇らせようと心がけるこの能は、いかにも世阿弥らしい作品。(後になって何回も思ったのですが、あの時の放送がほかならない『西行桜』で、とても運がよかったです私。(笑)大好きな世阿弥の能で本当によかったです。)

それにしても、雅号の由来を知っているにも関わらず実はしばらくはあまりしっくりこなかったところがありました。桜はもちろん好きでしたが、好きな花は何かと聞かれたら、真冬に咲く椿とか、ヨーロッパにはないコスモスとかのほうが先に浮かびます。桜はとてもきれいな花ですが、すぐに散ってしまう性質は自分から見れば恐ろしい特徴です。桜と一緒にされたくないという気持ちさえありました。

しかし時間が経つにつれて、徐々に新しい名前に慣れてきて、自分のものとして認識するようになりました。「あなたによく合う名前だ」と、先生を含め色々な方に言われて、みなさんの言葉の温かさに励まされて、好きになりました。桜の花の見方自体がそれで変わってきました。以前は「無常の象徴」として見ていた桜は今「毎年楽しみにして再会できる親友」に近い存在になってきました。

雅号がきっかけで「名前を付ける」ことや「名前を与えられる」ことについて色々考えさせられました。生まれた時に付けられた名前もそうですが、自分で選ぶものではないというところが面白いです。名前は、だれかが色々考えて、色々な思いをこめて付けてくれるものです。名前を持つことは、一人ではないという証拠です。

これで思い出したのは、子供のころ母親に一度自分の名前がどうやって決められたかについて聞いてみた時のことです。いきなり真剣な表情になった母が、数ヶ月間悩んだと言ってくれました。その答えに驚いて、笑ってしまったことを覚えています。こちらが笑うのに、いつまでも真剣な表情のままでいる母親は、あの時どれだけ調べたか、「これから」のことを考えてどれくらいの人の意見を聞いたかを教えてくれました。話を聞いているうちに寒気を感じたのを覚えています。人に名前を付けることの重さをまだ完全に実感できず、この話に触れただけで気が引き締まる思いをしました。

雅号もそうですが、名前は自分が自分をどう見ているかとは関係なく、自分が意識している自分の好みとは関係なく、自分をよく見ている人が色々な思いと願いをこめて与えてくれるものです。名前は人のアイデンティティに直結する大切な贈り物なのです。初めて踏み入れる世界との最初のつながりでもあります。

いうまでもないが、自分と桜の関係を結びなおした名前がとても好きで、一生大切にします。自分自身との関係も、そして世界との関係をも結びなおしてくれたような気がします。

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