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フィンセント・ファン・ゴッホ / メトロポリタン美術館
【随想】何にでもなれた男
哲学科時代の友人とこんな話をしたことがあった。
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哲学は全ての学問の源だ。
つまり知識は汎用で、俺たちは何にでもなれる、と。
しかしある友人がこう返した。
「何にでもなれるっていうことは、何にもなれないのと同じことだよ。」
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この言葉はその後の私の人生において、呪縛のようにまとわり続けることになった。
ことあるごとに、「私は今何者なのか、何者かになり得たのか」と疑問が浮かび、一度その疑問を思い出すと、しばらく抜け出せない日々を送ることになるのだ。
まったく迷惑な話で、お陰で2回も転職する羽目になった。
そして、今も、私の頭の中はこの「何者か問題」でいっぱいになっている。
むしろ「何者かであらねばならない」ということが、すでになんらかの呪縛であることは承知している。
しかし、自分のことを未だ定義できていない状況に、不安と焦燥を感じてしまうのである。
いっそ、何者でもないことを楽しんでしまえればどんなに楽だろうかとも思うが、これは「性(さが)」のようなものなのだと、半ば諦めの境地である。
妻にも友人にもいうほどのことでもないが、こんなことを考えている。
孔子先生、不惑は遠いです。
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