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サヨナライツカ②:なぜ愛されたことよりも、愛したことを思い出したほうがいいのか

2020年2月17日㈪

まだ昨日読んだサヨナライツカの余韻に浸っていた。婚約して結婚式を控えるバンコク駐在アラサー男子・東垣内豊、バンコクで突然あらわれた魅惑の美女・沓子と、彼らの25年後のお話。誰かを好きになって、好きすぎて胸が苦しくなった思いを忘れていない人は、この本を読むことで感情を浄化できるかもしれない。あと、人生の最後を考えたい人にもおすすめしたい一冊だと思った。

第一部『好青年』で描かれるバンコクの若き日の思い出は、いってみれば甘酸っぱい。欲に身を浸して、楽しくて、青くて、痛々しい描写に胸が熱くなった。

第二部『サヨナライツカ』は25年後の再会について描かれている。バンコクで偶然に再会した後、沓子の手紙と豊の気持ちの揺れ動きが綴られる。終盤の、沓子と豊のやりとりを読んで強く感じたことがある。

人が自分をどう思っているのか、完全に知ることはほとんど不可能である。

私たちが思っている以上に、人間は抱いている感情とは不一致まま言動を起こしてしまう生き物である。豊の場合は、結婚は自分の親との問題であり、出世がかかっていて、恋愛感情を最優先にすることはできない状況下にいた。感情は好きで愛している。でも自分の立場上、相手に愛していることを伝えられない。嫌いじゃないけど、ひどい態度をとるしかない。一緒にいることができない。感情と言葉と行動がちくはぐなのは、むしろヒトである限り仕方ない特性としかいいようがない。

相手から自分が受け取ることができるのは言葉と行動であって、それらは感情とは別物だ。そう考えると、自分が人からどう思われているのか、相手の感情をありのまま知る方法は残念ながら解明されていないのである。

相手の気持ちは本当のところはほとんど分からない。だとしたら、人に好かれたいとか愛されたいと思うことにはほとんど意味がない。分かるのは、自分の気持ちだけだ。自分が想い、抱く感情はときには複雑で混じり合って分かりにくいものであったとしても、読み解くことはできる。そう考えると、冒頭の詩に意味を添えることができるように思う。

”人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと 愛したことを思い出すヒトにかわれる 私はきっと愛したことを思い出す”

言葉や行動から、誰かの気持ちを完全に知るすべはない。愛されたかどうかは、本当は誰にも分からないことである。

確かなのは、自分が愛した記憶だけ。

誰に何を思われてるかなんて、自分の人生にとっては考えてもほとんど意味がない。自分が何を思い、どう感じるかを大切にしていくべきなのかと、この本から考えることができた。

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