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ポリティカルコレクトネスの曲解

 何で両親は自分を産み落としたのだろうかという根源的な問いから逃れる必要は全くなくてそう思う自分が存在してしまった時点でそれはすべて親の責任であるから、ひとまずそうした人は子供を作るのを止めればいい。子に自分と同じ苦しみを味わって欲しくないし、それを見ているのも辛いのだから。ただし、一見合理的に見えるこの思考過程も視点が不足しているのではないか、と考えるようになったので書く。

 人間というもの悪口が大好きだが、その対象となるのは往々にして前述したようなことを考える弱者だ。強者は集団内での弱者を標的にして悪口の言い合いという「毛づくろい」をすることで集団の結束を高め自らの強者たる所以を確信し邁進する。即ち弱者の存在が結果的にその集団上位層の活力になる。性欲・勝利欲は人間の根底にあって男性性の幹となる。標的はその小さな群れにおける弱者であれば十分なので、対象は相対的に決まる。ある集団からピックアップしたらその中で新たに標的が定まる…みたいな。

 その意味で人類の生存を考えれば、弱者の存在が「必要」なのである。人間が生きる非合理的な根拠=男性性 は周囲と相対性に成立する。だから、人類は必然的に勝者と弱者が生まれる競争社会(資本主義)を自然選択的に作り上げそれを存続させるモーメントに多大なる投資をしている(軍事費、広告費)。(あくまでそうなっているという自然選択的な現象理解であって、誰かがそう仕向けているみたいな陰謀論ではないと念のため補足。)身体及び精神障害者も、低学力層も、異性に声をかけることができず求められもしない非モテも、あらゆる弱者は相対性が生命力そのものである人類という種の生存にとって欠かせないパーツだ。だから、弱者を差別してはいけないし、ある種を集団虐殺したりしてはいけない、というPCミームには無自覚で潜在的な合理的理由が付けられる。多様性を尊重する姿勢がかっこよく、平和主義的倫理観に沿っているから、そうしたミームが生まれたという理由はもちろんある。が、それが退廃せず継続してきたのには、それによって社会が上手く回るという実利が背景にある。加えて遺伝的多様性が種の進化に不可欠であるのは言わずもがなだ。弱者の側は「俺らのおかげで勝者がいるんだ、フフフ」と心の中で高笑いしてればよい。それでもそれが嫌なら、一生懸命になればいいし、それで何か勝てれば儲けもんである。

 人間、見つめることで人生の活力になる部分と、目を瞑ったほうが楽な部分がある。世の中、誰もが弱者に目を瞑り、自らの利己心を隠す自己欺瞞を無意識に行って生活している。自分の遺伝子を後世に残すことの合理性は、目を瞑るのが”自然である”部分だ。遺伝による適応がどうこうと人類が“意識下で”考えるようになったのはここ数十年であって(皇族や名家はもっと長い間考えていたかもしれないが…)そうした思考の下に生きることをゲノムは想定していない。

 と、推論を進めて始めの書き出しに戻ると、子供を作るのを止めようという合理的根拠は無くなる。どんな子が生まれようともその存在そのものが人類にとって価値であるから、子を作りたければ作ればいいし思いがけずできそうになったら産めばよいのだ。この思考過程によって個人的苦しみが少しでも軽減すれば幸いである。


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