見出し画像

感情の遷移性 -社会システムは病前傾向になり得る-

 エーリッヒ・フロムが「愛するということ」で述べた「利己主義」と対立した「自己愛」を起点とした論理は極めて明晰だ。「自己愛」は「自分に正直」だとか「自分を大切に」だとか、啓発語として形を変えてありふれているが、そうした「生き様」を意識に刻み、あるいは体で受け止めながら思春期を過ごせる人がこの世にどれだけいるのか。人間環境の話をしている。

 最近よく反復してるフレーズに「自意識の倒錯」がある。伝えたいこと、相手の気持ちを考えた上でも伝えるべきと分かってることがあるのに、肥大した自意識が邪魔をしてしまってなかなか口にできない、とかまあそんな話だ。フロムのように自己愛の問題に帰着させることもできよう。自分を大切に思っていないから、伝えることができないのだ、と。けれど、自意識に邪魔されがちな人間は誰しもが自己愛が弱いのだろうか、あるいは強すぎるのか。

 双極性障害について、セロトニンだとかなんとか色んな仮説があってそれぞれが正しく、いくつか機序が異なれど症候が似通ってるものを総称して双極性障害と呼んでるのが現状であろう、というのを前提に、実体験として私自身の場合は心臓周囲の自律神経が大きく関わっているような気がしてならない。もちろん脳周囲には血管壁くらいにしか感覚受容器が無いので自覚できないのに対し、大動脈周囲に神経系がそこそこ発達していることは解剖学的にそうで、単に様々な変化を自覚しやすいという機序だとは思うが、そこに大きな個人差があるのではないかという話である。内受容感覚というらしい。ただそれと躁鬱病との関連にエビデンスはたぶん全く無い。ちなみに腸内細菌との関連はそこそこエビデンスがある。

 これもまた最近よく考える自分で編み出したキーフレーズで「感情の遷移性」というのがあって、私の感情を客観的経時的に分析するに、全く異なるシチュエーションでも同じ感情だと確信することが偶にあって(ただしこれは本当にすぐ忘れる)、これが「病前性格」なるものの本体であると考える。あまりにも微妙なニュアンスなので本当にすぐ忘れてしまうため、「例えば」がなかなか出てこない。

 根源的な例で言うと、

  • 幼児期の母親が恋しく離れがたい気持ちと、思春期以降の乳頭を刺激したときの性的な気持ち良さは完全に一致する。

  • また、親同士の喧嘩を聞いているときの不快感と、他人に自分が否定されたときの悲しさ、大事なところで失敗したときの落ち込む気持ちもそれぞれ完全に一致する。

  • 私が幼少期から感じる人前に出るときの緊張感と、新しい環境や体験が目前にあるときの不安感もおおむね一致する。

  • 母親が供与する一方的な愛情に対して心がキュンとする感じが、報酬系の土台にある”渇望感”に一致している気がする。

 鬱期の感覚と親同士が喧嘩してるときの不快感は完全に一致しているので、トラウマ的に病前傾向として作用しているという確信がある。気持ちの記憶も記憶であるから忘却曲線に抗う反復が必要で、相当な状況でなければ病的にはならない。

 運動してる時の心地良さ、不快さはそれぞれあるけれど、交感神経を最大限発揮して高負荷な運動をしているときの気持ちいい感覚と、躁期に人と話してドキドキしてる感覚は近しいものがある。中高生の頃の身体負荷が病前傾向として作用している、という仮説は考えられなくもない。

 話しかけようとしたときの周りの目や相手の反応に対するドキドキ感と恋愛感情は表裏の関係だと思っていて、本質的には同じなんだろうなと最近思う。未規定なものに対する期待感と不安感は往々にして区別できない。

 人を好きになるのはある不確かな対象に対して同じ感情を共有できるときだと言うけれど、これは悪い方向にもいくらでも働いて、近しい人間がある現象に対してある感情を抱いている姿を何度も目にしていると、自分もその感情を抱くようになってしまう。姿から感情は分からないはずなのに脳のディープラーニングはすごいもので近しい人間であればノンバーバルにコミュニケートする。感情の遷移性はひとりの内面に留まらず、集団として存在する。

 感情の言語化を習得する過程は様々だ。ただし大人になってもそれに対してセンシティブになることによって言語化能力は向上できると信じている。稀に感情を素直に言葉にするキャラのやつがいて、それは身の回りの友人であり、テレビの中のアイドルだったりして、感情移入できた言動の後のリアクションで、ふと「ああ、この気持ちはこうやって表現できるのか」と理解する。そんな人はただ一人「私」にとっての価値になる。

 持ち出すとややこしくなるのであえて避けてきた「報酬系」であるが、幼少期に一番身近だったのは、食欲物欲を我慢するだとか、テレビでいいところでCMが挟まって続きが気になるだとか、母親に褒められる、だとかが意外と強力な反復だったんじゃないか。発達とともにそれが勉強とテストの成績になったり、野生のポケモンやトレーナーと出会ってしまっていやいや戦うことだったりに遷移する。

 古き良き頃のPUBG/フォートナイトで一番快楽物質が出た瞬間は、1位を取った時ではなく、道中でレアな金武器を拾った瞬間だった。勝利へ1本線の報酬系ループではなく、アイテムガチャというオルタナティブを組み込んだのはこのゲームの歴史的な発明と言える。

 「物欲のために嫌な事でも労働する」をシステム化した資本主義は当然人間の脳を具現化したような仕組みで動いていて、ある欲望が満たされてプラトーに達するとそれでは飽き足らず新たな供給を喚起して、それが需要となる。國分功一郎「暇と退屈の倫理学」で分かりやすく解説されていたが、現代はアダムスミスを超越し、供給が需要よりも先行する。電通は悪くない。

社会システムは病前傾向になり得る。生物学的な欲求の本能を組み込んだシステムで最適解を求めれば、そこにartifactualに強力なループが形成され、それが「感情の遷移性」のおかげで逆輸入的に生物学的な不調が生じ得る。

 「寂しさを感じるのは寂しくない状態を知っているからだ」というのをTwitterで見かけて一発で覚えてしまった。お笑い漫才コントのポイントは「緊張と弛緩」というけれど、あらゆる感情にそれは当てはまると思っていて、脳神経というのは落差に弱い。というか活動電位自体、落差である。落差は報酬系に組み込まれる。ゲームでのアイテムロストの喪失感とそれまで費やしてきた時間の喪失感は、落差を形成する上でかなり重要な要素でこれを上手く組み込んだのもテンセントの発明である。

 身体負荷は落差の形成に最も強力で、簡単に言ってしまえば、疲れているときは些細な安息が快楽に感じる。慢性的な身体負荷は自分のプラトーが分からなくなる。過労死が見つかりづらいのも納得。自分の感情的プラトーは記憶と心臓周囲の自律神経の振れ幅で感覚的に自覚しているのだと思う。自律神経の方はあくまで仮説です。眠気と鬱気はしばしば区別がつかない。

 「なぜ働くのか」という問いに「自己実現のため」と答えた青年がいた。フロム的にも良い答えだ。しかし彼はなにを実現したいのだろう。人の役に立つ、社会システムに組み込まれることは自己愛の現れとして誰しもにとって健全なのだろうか。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?