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私写真超個人総括(2023水無月展)

 ここでは、私が所属している写真部の展覧会、水無月展に出した写真について書きます。私写真超個人総括です。これを書く上で守ることを最初に自分で決めておきました。以下の通り。

・正直に書きましょう、プライドとか体裁とかは一旦置いて書きましょう。
・私が思ったこと考えたことと、人が言ったことはしっかり分けて考えましょう。混ぜて捉えない。
・人に自分を説明するように書きましょう。なるべく多くの人に伝わる構成、表現、文章で書きましょう。他者に向けた文であることを自覚しましょう。
・改善点をあげましょう。次に生かさないと意味ない。

 この展覧会では、「鉄骨-1」「鉄骨-2」「鉄骨-a」の計3作品を展示しました。「鉄骨-1」「鉄骨-2」は去年(2022年)の今頃開催された薫風展に出展したもので、再度出展する形になりました。今回のnoteでは主に、今回初めて出展した「鉄骨-a」についてその作った工程やそれができた経緯、などについて言及し、またこの3作品を同時に出展した理由についても説明します。
 このnoteでは、私が制作時、制作前後に考えていたこと、作品に込めようとした意味内容がほぼ全て記載されています。それは、言って終えば受け取り手の解釈を極端に狭めてしまうことに他なりません。そこで、「工作の様子」では「鉄骨-a」の制作過程のみを記しています。作品の意図や意味についてあまり知りたくない、という方は、その部分だけ読まれることをおすすめします。
 読んだ後、感想や指摘など、ご意見があればとても嬉しい限りです。

工作の様子

 この写真を展示する方法として、切り分けて展示する、ってのがぼんやりと決まった(その理由については後述)。この時点ではまだ頭のなかでぼんやりと決めてただけで、実際に綺麗に切れるのか、作ってみておもしろいものになるんか、がわかってなかった。一回写真をphotoshopの選択ツールで切り分けてみて、いけそうな雰囲気と、本当に実際にやってみなわからんな、と思ったから、実際に発注してみることにした。
 店舗に発注に行くタイミングがなくて、AmazonでA4で200円ぐらいののりパネを頼んだ。プリントはPHOTOPRIを利用。ものは試しで利用したけど、印刷届いて、色の出の綺麗さに驚いた。紙は【EPSON】PXプレミアムマット紙。価格はネコポス送料入れて1535円。マットにした理由は、箱額にいれることは決まりかけてて、反射するガラスの中も反射してるのは見にくいので。あとは直感で光沢がある感じではないな、と思ったから。

 のりパネに貼ったところ
切ってる途中
途中

 写真の中に線が無数にあったので、どこで切ればいいのか、どこまで切ればいいのか悩んだ。どの線を除いてどの線で切るかに、バランス感が試されてる気がした。

切り終えた

 ひとまず切り終えたけど額がまだ届いてなかったので、家の中にあった画用紙をA2のサイズに切って配置とかサイズ感を確認した。

額に配置したところ

 これはまだ貼りつける前。配置は各々がある程度の余白を取りつつ、元の写真の繋がってたところから大きくズレないように。けど余白の関係で大きくズレるところもあったので、そこはバランスを見て調整した。ここから、この配置に瞬間接着剤を使って貼り付けていった。途中でなくなったのでスティックのりでやってたけど普通にくっついた。
 額はここで買った。A2サイズで9135円。値段が値段だったので、買うのをめちゃくちゃ躊躇った。ピンを刺すことを決めてたので、それなりに厚みのある額が必要で、ウンウン唸った末に、買った。

歯ブラシケース なぜ

 虫ピンを刺した。1000本入り26mm、Amazonで770円。数の塩梅が難しかった。

 額の中に用意したキャプションは1年の時の展示で使ったキャプションの裏に学校のプリンタで印刷したコピー用紙を切って貼った。

展示



作ってる時に思ってたこと考えたこと

 その時の考えてたことの記録、なぜこの形態になったかの記録。改善点を炙り出すためにも当初の考えを極力抜け漏れのないように。

写真をバラバラにする

 写真をバラバラにしてみたい、って思ってた。その一つとして、自分の中に定住する破壊衝動的なもの、そのイメージ化であるというのがある。それは自分の幼稚で短絡的な部分として感じているが、同時に無視できない自分の側面として認識する必要があると感じている。もう一つとして、写真というものの物質的な枠組みは、四角形であることなんだろうかと思ってこと。展示される写真は四角形であって、額に飾られていたりパネル加工されていたりする。どこまでバラせば写真なんやろうかと思ってた。

そういえば1月ぐらいに写真をプリントしてこんなことをやってた。

紙ノートへの出力の習慣が結構自分にとって大事だった気がする

外枠と中身

 2022年の写真総括noteを書いた時に言った「外枠と中身」という言葉。詳しい内容についてはこちらを読んでもらえると嬉しいです。

 ざっくりとまとめると、「外枠と中身」というのは去年写真を撮る上でずっとぼんやりと頭にあった、テーマ的な言葉。

外枠…外に見えるもの。知れるもの、わかるもの、目に見えるもの、表面上のもの、外見、特徴、偏見、先入観、言語、(構造)。
中身…中にあるもの。そう簡単には見えないもの、抽象的なもの、実体がないもの、非言語のもの、人格、本物。

そうらしい

 私の中でこのような解釈をして、去年はこの言葉に近づいたり遠ざかったりしながら、写真を撮っていた。

 それを考え始めるきっかけとなったのが、去年の今頃に薫風展で出したこの二つ、鉄骨-1、鉄骨-2。

 大学に入学し、写真部に入りたての6月にこれを出してから、丁度1年が経った。その一年で学部や写真部を通じて、高校の極狭なコミュニティ(それも中高一貫校なのでなおさら)に比べて多くの人に会って、様々な意見や価値基準やあり方と干渉する機会があった。それは私が高校のころから切望していたことであったけど、同時にこれまで他の存在と大きく干渉しなかった、もしくは少数の個人に依拠して存在していたからかろうじて形を保っていた「私」が、分解されて離散していくような感覚があった。
 そのように今、この一年を通じて解体された私の姿がある。しかし今の私は、その解体された私でも、過去の高校生であったころの私やそれ以前の私を受け継いでいる「私」だと認識している。解体されてもその様を俯瞰した状態は「私」であること、それを「からっぽの自分しかないよ〜〜」と頭を抱えていた私への現段階の答えとして、自分に示す意味でも、これを作りたいと思った。

 「解体される自分」「一枚の写真をバラバラにして展示する」ということは別々のトピックスとして自分の中に存在していたけど、それがもやっとした頭のなかで徐々に繋がっていって、形になっていった感覚があった。

見世物にすること

 写真には被写体を見世物にするような暴力的な側面があると感じていた。それはスナップをやっていた去年を通じて強く思ったことでもあるし、いろんな言説を読んで思うことでもあるし、日々いろんな写真を見て思うことでもある。写真に写っているそれってそんな多くに見せていいんだろうかと思うこと、そして私もその風潮に呑まれてそれに加担しているなと感じることがあった。世界を切り取って、静止させて、見世物にすること、それに無自覚でいていいんだろうかと思う。そんなことを考えず気にせずにどんどん撮り続けたほうが写真は上手くなるし、そんなことを考えるのはもっと写真上手くなってからでいい、とどっかの誰かが言うような気がする。しかしその思いはふとした時に浮かび上がってくる。

 作品にピンを刺そうと思ったきっかけとタイミングは、これ!ここ!というのが明確でない。それでも額を発注したタイミングには既にそれが決まっていた。
 切り分けた写真を私の内面の状態に見立てて展示すること、それは自分を見世物にすることでもある。切り分けた写真をピンで止める形に見せることで、それを表そうとした。ボックスフレームに入れられてピンで固定されて展示される様は、さながら昆虫標本のようで、身の回りの写真の多くはそういう構造を持っているような気がする。昆虫標本みたいに、綺麗で目を引くがそれと表裏一体の一抹の残酷さを潜めている。そう思ったことから、額の中にタイトルと撮影地(撮影地=採集地)を記したキャプションを配置した。

「鉄骨-1」「鉄骨-2」と一緒に出した理由

 完成が近づくにつれて、不安になってきた。ここまでひたすら自己中心的にやってきたけど、これ、ただ私の自己満足で終わって、評価の場にもあげてもらえずに終わるのではないかと思った。友人、知人、友達と話したこともあって、既存のやり方を脱した方法を取るなら、それへの説明と鑑賞者への寄り添いが必要だと強く感じた。そのために「鉄骨-a」というタイトルで「鉄骨」という単語を用いることによって「鉄骨-1」「鉄骨-2」との関連性を示唆しようとしたけど、見る人のほとんどが去年の作品なんか知らん。だったらいっそ一緒に出展したれ。そう思って出展した。写っているものがすべて建築物であるので、「鉄骨-1」「鉄骨-2」と「鉄骨-a」の展示形態の違いがみえるようにすると、あえてそのような手法を取ったことが意識しやすいのではと思った。
 タイトルの「-a」は、「1, 2」の単なる次ではないってことを示したかったのが一つ。「3」にしてしまったら私はまた「4」を作ってしまいそうな気がした。だらだらと引きずり過ぎないために区切りをつけようとした意味で「a」とした。また、「a」は「answer」と「adaptation」という単語の頭文字でもある。正直、adaptationはanswerからの後付け感がすごい。けど、「改作」という意味にずいぶんしっくり来たので、そのようにした。



もらったご意見一覧

「新たな展示方法として面白い」という声

 来場者アンケートでもらった意見が多かった。写真を切り分け、ピンで留めて額に入れるという展示方法の斬新さが良いという声をいくつか頂いた。

「芸術だね」という声

 芸術という言葉について、「芸術 = 展示されているけどよくわからない何か」という認識がある一定広く根付いているのかな、と思っている。何か価値があるかのように、何かを内包しているかのようにうやうやしく展示されているけど、パッと見たところ見る側からしてそこに何の意味も見いだせないもの。それを呼ぶもの・指し示すものとして「芸術」または「アート」という言葉が用いられることが多いと感じている。
 感想が「芸術だね」のみなら、そのわからないものについて追求する気も起きなかったということである。だから、感想として出るこれらの声は、私にとってあまり喜ばしいものでなく、迎合すべきものではない。それはあまりに伝わっていないということであるので。

「わからない」という声

 ちらっと見た限りの部員アンケートや、直接部員の方から聞いた感想で多くいただいた。「わからない」ともらった意見は次のように。

・何を伝えたいのかわからない

・どう見ていいのかわからない

・ヒント(情報)が少なすぎ

・虫ピンを刺した理由がわからない

 これらには、個人的に込めた意味内容が伝わっていないことがある。それについては反省が多めにあるので、下の「反省会」の章で振り返る。

鉄骨じゃなくて鉄筋

 鉄骨-aに写っているものは鉄骨ではなく鉄筋コンクリート造りであるが、なぜ鉄骨なのか?という意見があった。正直言うと知らなかった。そうなんだ…とただただ感心してしまった。「鉄骨-a」に鉄骨とつけたのは、「鉄骨-1、2」との関連性を示唆するためだったので、全然考慮してなかった。

熱カッター使ってみてもいいかもって声

 カッターで切り分けた切り口は、確かに汚い。熱カッター(スチロールカッター)ってものがあるんですね、なるほど。四辺と並行な線は比較的スパッと綺麗に切り分けられたけど、横断する辺はスチレンがぼろぼろとこぼれるような切り口になってしまった。あと普通のカッターだと、細かいところがとんでもなく切りにくかった。デザインカッターを使ってもよかったかもしれない。



反省会

説明が足りない

 あまりにも説明が足りてない。基本の手法を脱したやり方には丁寧な説明が必要やし、手法の逸脱にだけ目が行ってしまいがち、ということを痛感したし、それを考慮できてなかった。
 展覧会期中、「その写真に写るものがその人の内面の描写であると解釈するのって、そこに写真があるだけでは困難」ということを考えていた。たとえばチューリップが咲き乱れるチューリップ畑を撮影した写真作品とそれを賛美するタイトルキャプションがある時、それを見て読んだ鑑賞者は「こんな景色があるんだ」または「撮影者はこのような視点でチューリップを見たんだ」と受け取り、その視点へ共感したり、そのチューリップの美しさを楽しんだりするだろう。あくまで、作品を見る際、鑑賞者が想定しているのは「撮影者が目を止めた”被写体”」であり、そこでの主体は「被写体」にある。多くの人は、そのチューリップの写真を見ただけで「撮影者はチューリップが人工的に整列された様子のこの畑を、体制に呑まれながらもそれにあらがえず、むしろそれが美しい姿であると言い聞かせている自分の在り方と重ね合わせて見ているのだな」とは読み取らないだろう。レタッチや、タイトルとキャプションによってそれに近づけることをしないのであれば。写真に写っているものを撮影者の内面の描写であると解釈させたい今回の場合であれば、それについての言及が、もう少しわかりやすく必要だったのかもしれない。

要素を詰めすぎ

 「写真をバラバラにする」「外枠と中身の話」「見世物にすることへの批判的・自戒的な態度」など、それらをまとまって一つの形として出力したことは、”自分の中では”合理性がある。それを鑑賞者にわかりやすいものにするなら、もう少し要素を絞った方が良かったかな、と思った。

見せ方、作品の在り方

 キャプションに一言あったら良かったと今更思う。それによって、作品が私の内面を表したものであることをわかりやすく説明できたかもしれない。
 けど、キャプションに何を書くかギリギリまで決まらなかったことを思えば、見せ方をほんとに決めきれてなかったんやと思う。それこそ要素を詰めすぎ、だということもある。先輩から言われたことですが、「どう見られるかへの意識が弱い」というのは本当にそうだと思った。



改善点

見られ方を気にしてみよう

 自分の中に樹立した理屈はあっても、それをどこまでわからせたかったのか、それともわからせたくなかったのかがはっきりしてなかった。人がこれを見たらどのような感情を想起するだろうか、どのように「価値ある作品」として解釈するだろうか、それを考えてみようかな。面白い視点が価値になることもあれば、雄大な自然風景が価値となることもあり、日常の一コマが価値になることもある。さまざまな価値の捉え方を意識してみるなど。既存の価値で判断されない作品・それを脱した作品を作りたい!となっても、そもそも既存の価値自体を知らないとそれ以外がわからない(かもしれない)。この改善についてあまりにも消極的なのは、見られ方を気にすることに割合が裂かれると、自分のやりたいことがどんどん狭まっていく感覚があるので。それでもやっぱり「見られる」という前提をベースに置いておくことは、必要というか逃れられない。

作品の規模感

 1作品の規模感を考えたほうがいいかも。それは作品として中に込める意味・内容の量の多い少ないが、その写真のイメージにそぐうかどうかでもある。
 また、その写真が展示される環境も影響する。この水無月展は、それほど1つの作品が注視する形で見られる空間ではない。それも検討に入れるべきかもしれないと思った。

前提知識が必要すぎる

 この作品を理解しようとするなら、前提として私について知ってることが必要すぎる。「外枠と中身」という語の意味とか、私の作品に対するアプローチの傾向とか。この作品を見る場合なら、内面について示唆したものであるって説明が必要。
 キャプションで作品を鑑賞する方向性を指し示すことを怠らない方がいい。その光景に関する内面について言おうとするなら。写ったままのものをそのまま見る、というのが普遍的な写真の鑑賞方法であるらしいので。

 今回だったら、「鉄骨とは」や「外枠と中身とは」っていう簡易的なコンセプト解説ボードがあっても良いぐらいだったかも。QRコードか何かを設置しての誘導も検討すべきでは。



良かったところも

新しい展示方法を試せた

 写真を印刷して出すだけじゃない方法を試せたのはよかった。これまで、写真の印刷という工程では、業者に任せていてあまり自分の手が入り込む余地がないな、という感じがしてたので。材料の考案、検討、発注、制作、という工程を期日を意識しつつ自らの手でできたことは、かなり良い経験になって良かった。

意見してくれる人がいて嬉しかった

 写真に意見をくれる人がいて嬉しかった。特に今回、否定的な意見をくれた人が結構いて、それがかなり嬉しかった。これまでわからないという意見をもらっても、それがどうわからないのかを説明した意見は少なかったように感じる。今回はそこに突っ込んだ意見が多くて楽しかった。それによって、自分の写真に対する改善点が浮き彫りになった感じがするので。
 基本から外れたことをすると、それは奇抜なものとして切り捨てられてしまい意見すらされないのでは、と怖がっていたけど、ちゃんと意見がもらえたことがとても嬉しかった。ありがとうございました。



まとめ

 大変長々と書きましたが、ここまで読んで頂いてありがとうございました。いろんな気づきがあり、有意義な展覧会〜!!!!!という感想です。精進します。そしてもっといろんな人と写真の話したい!!の気が高まりました。

 多少落ち着きを持って作ることや、なぜ見せるのか、何を見せるのか明確にしとくことが必要かな、という気付きを得ました。バランスとかいう言葉で片付けないで自分レシピをある程度明確にしてみるべきかも。やってみよう。

 ご意見ご感想、どんなものでも構いませんので、ぜひぜひお待ちしてます。大歓迎です。コメントでも、DMでも、リプライでもぜひに。写真のお話もさせてください。ぜひに〜!

おわり。

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