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きっしょい散らかり文と今年の写真超個人総括2022


書け!と強い押しをいただいたからという理由を借りて書きます。勢いは大事にしていきたい。内容は目次の通り。
深掘りしたくない人は、「今年の写真」だけ見るのおすすめです。


今年の写真

 今年の写真。「外枠と中身」というのを一応ポケットにくしゃっと丸めていれつつ、たまに取り出してみる感じでやってた。それに沿っている感じもするし、遠ざかったり近づいたりしてた。写真を自分からその言葉に近づけようとかはあんまりしなかったし、しないほうがいいなと思ってた。でも心の隅で引っかかり続けるワードではあったので、いろんな写真の節々にこれがあるかも。

外枠…外に見えるもの。知れるもの、わかるもの、目に見えるもの、表面上のもの、外見、特徴、偏見、先入観、言語、(構造)。
中身…中にあるもの。そう簡単には見えないもの、抽象的なもの、実体がないもの、非言語のもの、人格、本物。

ざっくりとこう

 そもそも、私は外枠しか見てないよな、って話から始まった。人のことを、外見や他人からの評判、先入観で見てるところ、一人一人に目を向けられてないなって思ったことがベースにある。それはずっとそう。特定の人々に依存して息をしていた(いる?いた?)のに、その他周囲からの目はしっかり気になる感じで。

薫風展

鉄骨1、鉄骨2


「鉄骨1、2」は寂れてる地元に立つ建設途中高速道路、と町内の建物を撮った。それらは力強いけど、どこか空虚感ある こんな寂れた町に高速道路を通すんやなぁと思っていた。田んぼの周りにズシンズシンとそびえ立ち始めた巨大でカラフルな塔の群は、ちゃんと魅力的だった。大きいものはそれだけで惹かれるから。大きさに圧倒されるのは、安心と快楽。そこに含まれる少しの不安も楽しい方向に消費される。
 「自然の大きさに爪を立てる人々の意志(思)が鉄骨やコンクリート、廃材として見える。抗う時に形作るフレームは、強く、脆く、空洞がある。」
って書いた(インスタの投稿キャプションに)。主に言いたかったのは、2文目。私は外枠に対してあまり良い見方をしてないていう前提が見え隠れしてる。強いけど、誰か何かの一撃で崩落してしまう脆さがあり、加えて中身は空っぽだね、けど変に強いのでなかなか崩れてくれないーて感じやったかと。
 カーテンと文字影の写真の方もそんなん。カーテンに映る文字の影は綺麗で、けどカーテンが閉まったこの工務店はもうやってないんかなとか。この、綺麗な枠はしっかりあるのにちゃんと中身は空洞で…それが鉄骨みたいて思った どっちもちゃんと鉄骨使われてるし そんなネーミングでした。
 その無意識的なところから出てきた「空洞」とか「外枠」に自分のあり方に対する気づきが含まれていると知ったのが、展覧会後の総括とか、その辺りだったような。総括で「みなさんもうちょっと考えて作品作れるといいですね〜」みたいに聞いた気がする。それで結構身に引き締めを食らった気がする。(あとは授業で触れた精神分析の影響も多分にあると思う)


新緑展

40未満の環世界

 新緑展。トリに置いてもらったり、電子ビラにしてもらったのが嬉しかったです。欲を言えばポスカが良かった。強欲
 40未満の環世界、今年の中では一番気に入ってるタイトル。けどマジで色味は普通にきしょいなと思っている。なのであんまり部屋に飾る気が起きない。あと、4:5か5:6にするべきやった。A3てなんか長細くて合ってなかった。

今回の作品は偶然の景色を捉えたスナップなので、主題を考える際、自分が何に惹かれてシャッターを切ったのかを考えた。リフレクションが生み出す視覚的な面白さもその一つだが、「そこに写る人々への興味関心」が大きいのではと思った。最初は「列を成すこども」としてしかみていなかったが、「人個人」として見てみれば、そのそれぞれに自我があることに気づいて面白いなと思った。また、普段「人を一人の人として本当に見れてるだろうか」という自戒があったのでそれも含まれている。 40未満の環世界、というタイトルは、それを思ってつけた。環世界というのは本来、異なる生物間での世界の認知の違いと、それによって各生物が自身の中に構成する世界が異なることを指す言葉だが、人同士でも、結構違いがあるのではと思った。また「40未満」とすることで、鑑賞者に画面内の人それぞれに目を行き渡らせて欲しいと思った。結構数えてくれた人がいて嬉しかった。また、鑑賞者に環世界や自我というものを意識してほしいと思い、鑑賞者の姿が映り込むようにしたかった。そのため、光沢紙と表面のラミネート加工を使った。作品として印刷した際、中央のエスカレーター部分が若干黒くなりすぎてしまい、見えにくくなったり、色味が想像とは違ったものになったため、少し残念だった。

部の総括に書いたこと

私は人々の内面をきっちりしっかり見れてる?て話やった。ここに40未満の人がいて、私はただそれを集合体として認識してちょっと興奮してシャッター切るけど、その人々もちゃんとお前と一緒の人間やけど。(多分)て話。
 めちゃくちゃ非言語コミュニケーション的なものの可能性を感じた。アンケ見ると、なんとなく意思の疎通を図れてる気がして嬉しかった


日記20220723-20220823

 夏休みの自由研究。夏休みやしなんかやりたいなとか、そんなポンと軽い動機でやった。長続きすることってなんか軽い動機で始めたことの方が多い気がする。実はまとめたサイトがあったりする。

インスタから消した画像がいくつかあったり、下の方にその後書いた文があったりする。人に見せない前提で振り返り文書くのも結構大事やね、と思った。恥ずかしいけど、もう程よく現在の自分と離れてるため、エンタメとして楽しめる。読み返して何言ってんねやろと思う部分も多々あるけど、手は加えず残して置きたい。ゆるゆるく始めたことだったので、この1カ月間の自分の蛇行みたいなのが見て取れて面白い。
 全部を印刷して、手元に残している。ちょびちょびファミマで印刷するのも、それが重なって厚みを増してくのも楽しかった。ファミマの写真用紙プリントをお薦めします。色の出がそのままに近くて良い。


学祭展

下層土

 学祭展、下層土。衣笠展でアンケートに書いてくれた人少なくて、それなりに凹んだ。悔しさもある。自分の内心を込めたけど、タイトルとキャプションおざなりすぎるかも、て思てた。
 工事現場の写真って思われたくないって話した。それってエゴでは?みたいに言われた。そうですね、はい…その作品から感じ取ってもらいたいことはあっても、それを押し付けるのは、良くない… なんで押し付けるのは良くないんやろ 一つのイメージが、その人の記憶・経験・感情と呼応するのがメジャーな芸術とかの楽しみ方(楽しまれ方)であるからかな 知らん
 この下層土でも一生「自分ってなに〜〜〜」みたいな話を引きずっていて、これは意見やら感情やら見方がコロコロと変わる自我があるけど、その中でもちゃんと変わらないものがあることを自分で認識して納得するためのものでした。
 工事現場が好き!て言語化してしまうと、どうも冷めてしまう節がある。から多分そういうことではないんだと思う。言葉にしないでほっといた方がいい部分もある。その部分を洗い出すために言葉で書くこともある。

 写真としてはすごい気に入ってる。自分のMacBookのモニタで見た時がいちばんよく見える。この写真が撮れたとき、FUJIFILMとE4にめちゃくちゃ愛着湧いてしまった。逆にいうとこれまでそんなに愛着湧いてなかった。ずっと他人のような気がしていた。ハイライトの滲み方が特に気に入っており、これをどうにかして出したいと思ったりしていた。(ブラックミストを買ったり、自作フィルターを作ってみたり)けどもやっぱり窓ガラスには勝てんなと思った次第でした。大阪中之島美術館のガラス。


冬季展

大阪城公園, 2022年8月

 この写真は家に飾る前提でサイズを決めました。けどほんとにもう一回り大きくしたかったって一生言ってる。
 タイトルを淡白にしたのは、イメージだけ見てもらったらどうなるんかな、と思ったからというのが一つ。撮る時ってあんまり何も考えず、多分結構がむしゃらに撮っていて、いつも作品にする時には「自分がその時何を思っていたのか」とか、「そこにこんなものが反映されている」みたいなものを汲み取る、みたいな感じてやっている。それは後付けの意味じゃんて言われればそれまでになってしまうので、自分の中でどこまで誠実でいられるかみたいなことだったりするのですが。でもそこで紡いだ言葉に自分を納得させていくというか、その言葉に自分が近づいていくこともちゃんとある気はしてる。
 で、そういう感じでやってたけど、タイトルとかキャプションで言葉を用いることは、結構言葉の力で印象を引っ張って方向づけている、言葉の力に頼ってるなぁと思った。借りたアンリ=カルティエの本とか見てると、昔の絵画とか写真とか、タイトルが年と場所だったりすることが多くて、そこに逃げも隠れもしない、ただイメージだけを見ろ、というのを感じて、それをやってみたかったというのもあります。でも肝心の写真の方はそこまでストーリー性を帯びたものではなかったので、そこは見る人によくわからん感じを残させたかも。
 物質的な話で言うと、これを大きな作品にしたい、てなった時に、画素数足りないのでは、となった。この写真も結構トリミングをしています。トリミング後の2080×4888という大きさだと、作品のサイズをこれ以上あんまり大きくできないな、というのがあった。撮影後のトリミングという行為について、トリミングしていいものになるなら、したらいいと思いますというスタンスで生きてる。トリミングしないことでその撮影者自身に何かいい影響があるというのであれば、(その人が納得しているなら)トリミングしないでもまぁいいんではと思ってる。トリミングの話、あんまりまとまりそうにないのでまた別の機会にしたい。もうだいぶんいろんな人があれこれ言ってるし。
 何はともあれこれで高画素機が欲しくなっちゃった。トリミングを前提とし、大きなサイズでも印刷できるようにするのであれば、そう。FUJIの新たなレンズを買おうとするとfp LとX-T5の誘惑がすごい。どうしよ〜


写真冊子作成

 写真冊子を作りました。しまうまプリントで。写真集というほど大掛かりで崇高そうなものでもないし、フォトブックというほど家庭的な?ものでもない気がしているので、写真冊子。名称に対する妙なこだわりがある。いや、結構どうでもいいです。3部発注したので、誰か買ってくださいもらってやってください… 受け取って見られることで完成する気が漠然としているので
 この冊子作成には記録と整理という意味も含まれるけど、「写真の冊子を作る」というのを強く意識してた気はする。自分が強めに思い入れを込めたやつや、うまく撮れたと思ってるやつを集めるのでなく、実験的?な写真や一枚では力を持ちにくい写真とかも入れた。写真一枚一枚を楽しむというよりかは、その構成で、複数枚の連続と配置による響き合いで楽しめるようにしようと思ってた気がする。

5つのタイトルで括ることで、軽めに味付けをしています。一応以下の通り。

Subliminally:無意識に
Subliminal space:無意識下の空間
Subliminal human:意識外の人
Subliminal priming:閾下起爆剤
Subliminal wave:サブリミナル波

サブリミナル波ってなんか良い

サブリミナル波ってずっと言ってる なんか語呂が良くて響きが良くて、その言葉の意味をちゃんとわかりきらないけど、なんとなくそう唱えることで形にならないものを肯定できるような気がしているので。
 写真冊子、自分でもあまり見慣れてない写真を扱うことになって、構成が楽しかった。一人でわからんわからんわめきながら作ってる時が、一番人生輝いてると思います。


フィルム

 今年現像出したフィルムは多分3本。すくな。フィルムになると、金額やら露出やピントあってるかの緊張感やらで、一枚が濃くなり、撮った枚数は少ないのに、すごい密度の様な気がする。Olympus Aceで撮るモノクロフィルムが良すぎて脳みそかっ開いて爆笑する。めっちゃいいです。本体価格2800円でいいのかってなる 露出計は勘で、二重像は極薄やけど。モノクロ現像どこも高くてどうしたら〜〜〜…になる

めっちゃ精緻にうつる

フィルムで撮るモノクロは、良い。そこに焼き付いてしまったら、もうどうにもならんって意味で。デジタルはそっから動くけど、フィルムだとあんまり動かない感じがする。フィルムカメラでシャッターを切ったとき、そこに焼き付いたものを見るのはいっつも結局一ヶ月先とかになるので、その時のことは結構忘れている。データを見た時、忘れてるなと思うと同時に、ちょっとだけ思い出して、でもモノクロだからそれは普段見慣れた景色に近いわけでもない。上がってきた写真は、ひたすらに静かだと感じる。それは単にフィルムで動いてる被写体を撮らんというのもある。


きっしょい自分語り

 なんとなく一年を振り返らなあかんような気がしていて、それは年末が近いと言うのもあり、誕生日という一年周期で来る区切りを迎えたからでもある。全然関係ないけど、誕生日おめでとうのおめでとうってなんなんやろうとずっと思ってる。それは全然否定的な意味でなく、なんかわかりにくいなって思う。すぐ死ぬ時代やったら今年も誕生日迎えられて幸運やったね、おめでとう、なんかなってわかるけど。私は今なら生まれてきてくれてありがとうって言いたい。けど恥ずかしいのでそう思ってるよと思いつつおめでとうって言ってる。
 超個人的に整理と吐き出しのために文をぽつぽつ書いてて、そこで私は人の存在に依存していて、それに頼ることで生存していて、それから逃れたいと散々書いてきた。最近それらから少し、逃れられそうな気がしてる、 まだ遠い気もする。
 人がどう思おうと、それは人の意志で、思いで、感じ方だから、それは俺の存在を否定してる訳でも侵害してる訳でもなんでもないんだと、やっとぼちぼちわかるようになりかけてきた。まだ反射的にビクっとしてしまうから、逐一自分を宥めることが必要なんやけれども。

 この一年の文章を読み返していた。1~4月までは特に詩的?で、結構好き その時の精神のあり方は上で言った依存そのもので、今から思うとあまりよろしくはない(実際よろしくなかった)けど、その時の私を今思い出せないからこそ、その時書いた文を読んで面白いと思う。今は書けないなと思う。精神上良くないけど出るものは良い、みたいな状態への憧れ?執着?を捨てられないので、俺はなかなか精神強くできないところがある 依存を捨て去った上で、どう作るか、それは健康でありつつどう狂うかってことかも

 でもこれまで散々人に価値判断を委ねてきたので、私がそういうものだと認めてしまえば、自分がこれまで生きてきた時間が急に価値のない空虚なものだった気がしてくる。冷静に考えて、全然そんなことないけど 人に尻尾振るのも従属するのも楽しかったし、アトラクション的なものに乗っていたような。
 けどその遊具を降りて、自分で歩かねばなフェーズが来てしまった。ビックサンダーマウンテンでも動く歩道でもなく、スニーカーとか合皮のブーツでも履いて、歩かねば

 5月(6月)の薫風展に出した写真。鉄骨1、2。その写真を出すと決めた時はあんまり何も考えてなかった気がするけど、キャプションには確かに、「懸命に固められた外枠」「空の化粧箱の虚」と書いていた。
 何気なく撮った写真でもそこにちゃんと現れていて、無意識の私は自分の人依存型のあり方の空虚感をしっかりと知っていてわかっていたのでは、という思い。というかちゃんとタイトル検討メモで「外枠だけが丈夫で中身が伴わない様」て言ってた この時はこれが自分の依存と繋がっていることにまで意識が及んでなかったし、そこまで自分で考えようとしてなかったね そこが弱さだと思います もしくは思考能力の低さ

諦められないことを肯定してくれてありがとう 元気は出た 腹の中でぐつぐつするような。人からの肯定をわりかし鵜呑みにする性格のため、逆に最近は6割ぐらいしか飲み込めないようになってきているけど。それでもありがとう。


 これまで結構逃げてきた。立場的に感情的な逃げが許されると思ってる節があった。けど、どんな立場であっても、それに向き合うか向き合わないかは個人の意志だ。ただ泣くだけで解決を待つなら、古傷を愛撫して悦に浸って楽しんでるなら、お前は一生どこにも行けない、って自分に言ってやる 過去を大切にするのは一部正しいけど、し過ぎると現状から進まないのは確か。過去を大切にするというか、参照していかねばなのかも。


 死んだ人のことをなんかずっと思ってる。その人は私が5才のときに死んだ。その死は遠いもののはずなのに、何年も会ってない親戚の死とは何かが違う。思い浮かべようとしても、その人の顔は写真にしか写ってない。声とかはほんとにわからん。
 私はずっと、その人の死自体が悲しいものだと思ってた。その人が死という状態に至ったことが悲しむべき事実だとぼんやり思っていた。けどそうじゃなくて、それはその人のことを知りたくてももう直接知る術がないとか、その人の人格と触れ合えないとか、そういう類のものだと最近気づいた。その人と話がしたい。なんでD300を選んだのかとか聞きたい。なんでもいいからとりあえず意思とか交えたい。でも、どっかで生きてるかもみたいな希望はあって欲しくない。白骨になったのをこの目で見てるから。会って話したいのに、生きてて欲しくないと思う。
 思えば、その人が死んだことは認識してるのに、その人の生きてたことは認識できない。思えば、その人に関する記憶は死後のものばっかりだ。私はその人がいないことだけを知っている。その人が存在していたことは全然知らない。その悲しみは失った悲しみではなくて、そこにないことに対する空しさなんだと。あるものがなくなったのでなくて、いつできたかわからない穴だけがある。その様子はまさしく、私がずっと気付かずに戸惑っていた空虚で、中身のない外枠じゃ〜ん、て。
 私は、無意識にその穴を埋めようとしていて、その手段が短絡的だったがために人依存型の在り方を作ってしまった。多分。その在り方に安住していたけど、それから逃れたいと望んでいたのも確かだ。「そこに本当の自分がいないことを知っていた」とかまとめられたら良いけど、そんな綺麗に行くわけない。


 俺は「死」の周りに渦巻くものにどうしようもなく惹かれていて、それについて思いを馳せる快楽に浸っていた。ってここに書いたらそれと訣別するみたいやけど、これからもそれに惹かれ続けるし、浸り続けるんだろうと思う。
 でもそれが常であっては駄目だなぁとは思う。なんとなく。



 なんか収集がつかなくなってきて、時間経てば経つほど文を直したくなるので、ここらでしめ。最近いろんな人と話せて嬉しいのでもっと喋っていきたい。ここまで散々書いたけど、やっぱり直接言った言葉が大事という姿勢は変わらんなと思ったので。おわり。

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