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写真2023

今年の写真まとめ、やるか〜
自身のための制作振り返りとしての側面が強いので、あまりにも読ませる気がありません。例によって超長いです けども、後々の自分のためにもわかりやすく最低限整えようと試みる。


作った写真(展示)

水無月展「鉄骨-a」

この写真おもしろい

 6月にあった水無月展で出展したもの。実験的な作品を作ろうとした起点になった。
 作品の見た目的な発想に大きく関わったのは、KYOTOGRAPHIEで見たマベル・ポブレットの展示と、写真研究会の新歓展で見たみわさんの「曖昧な形」「曖昧な私」。あと精華大学の卒業制作展に行った時、紙の四隅をピン指しただけで展示しているのがあって、それも印象に残っている。
 作品の内容として考えていたことは、「写真は標本のように撮ったものを見世物にする暴力性を持つこと」「写真を展示することで自身をも見世物として提示することになること」「写真の"枠組み"を問うこと」、「作品性は額縁によって担保されると考えられていること」「写真に写る"それ"、またその写真が意味するものには決して触れられないということ」。
 さらに、数々の面を持つさまざまな自分を、俯瞰する「私」がいることを知れた、という自身の変化への言及も含まれる。

 今思い返してみて、写真を物質とし、それを加工することって呪術的である、と思う。それは、ドライマウントに貼って厚みを出したり、それを切り刻んだり、また釘を打ち付けることからの連想である。一個人の主観の手が何度も重ねられて完成するもの、それによる呪術性や神秘性。何度も言っている気がしますが、それって絵みたいですね…


Mirror, mirrors展「鉄骨-a」「surround」「外枠」

 9月半ば、堀川御池ギャラリーでグループ展を行った。「自己中心」をテーマにしたこの展示のタイトル「Mirror, mirrors」とは、「鏡よ、鏡たちよ」という意。他者に見せる自分でなく、自分自身にしか知ることができない「自己」、創作物なら「鏡」としてその「自己」をぼんやりと外に示すことができるのでは、というコンセプトの展示だった。
 名刺、もとい自己紹介カードも作りました。サイズ感が良good。

 この展示では、鉄骨-aからと絡めて、これまで実はこんなことやってました、みたいなことも提示しようとした。


「外枠」

これは配置順を決めているところ

 セルフポートレート?を撮りためていたので、それを展示した。自身の断片を写した写真を円形に並べることで真ん中に空白を生み出し、その「中身」を表す、という。今思えば発想も手法も既にやり尽くされてるだろうけど、まぁ自身でつくることに意味があったのです
 夏休み元気なさすぎて新しく作品を撮れず・作れず・という状態だったので、過去のノートにあったアイデアを引っ張って来て作った。

「surround」

 壺は高校の授業で作った。言語化してなかったけど、「surround」「外枠」ってどちらもも構造が全く一緒ですね 視覚的なイメージに囲まれた"実体を持たない実態のような何か"、という構造。視覚的なイメージとしての外枠に縁取られた中身は実態がない、ていう…
 展示では、見る人が触れるようにしたかったので、触ってください!にした(その理由は下に)。
 高校の時作ったコンセプトボードが出て来たので、貼ります。

 これを作った当時思ってたことは、「海の記憶を保存し、感覚を伴って追憶したい」だった。さまざまな方法で海を現そうとしており、表面にニスを塗らず、少しやすりをかけてザラザラとした砂っぽい質感を出したり、海の箇所を切り取った海の写真を貼ったり、壺の形は貝の形を模し、表面に貝の模様を描いたりしてる(下手)。壺中の天・壺の中から海の音、というところから、壺の中に海があるのだ、という。触覚、視覚、聴覚、嗅覚とかに関心があり、コロナ禍でのマスク生活で匂いの情報は減っている、だからそれ以外の感覚でそれを補おう、というのがあった。
 コンセプトボードの下半分のうにょうにょしたものは、掃除機のホースと部屋に落ちた髪の毛。コロナ禍に行った3月の天橋立の海を、夢想の現実逃避的な空間として捉えてて、この頃すげー鬱そう。コンセプトボートを作ったのは壺完成前だったので、ブレンダーでプロトタイプを作ってその画像を印刷している(下手) 心意気は誉めたい

学祭展「grid」

 「鉄骨-a」をつくってた時の自室を撮ったもの。それを、Lightroomのゆがみツールでさまざま異なる数値で歪ませる。Illustratorでそれぞれの写真を12分割して配置しただけ…

わかりにくすぎる説明

 ぱっと見の印象は違和感ないけど、よくみたらズレてる、というのを作りたかった。作ってくうちに、京都駅や梅田スカイビルの格子状になってる鏡面の壁みたいだなと思った。
 いつものように作っていたが、出来上がりつつあったイメージに「人からのさまざまな見方によって構成される自身が微妙にズレてる」みたいな言語化を当てはめた時、急に何かが急速に冷めていくのを感じた。その違和感が冬季展に引き継がれることになった。

 展示に同時に配置したQRコードには、ChatGPTとの会話文を載せた。

コンセプトの説明、こんなあり方はどうだろう、という提示の仕方を考えた結果だった。あとタイトルが普通に決められなかったので。けども結局、最終的な作品タイトルは、ChatGPTから出されたタイトル案の中から選ばなかった…

冬季展「それだけ」

 同時代ギャラリーでの展示。あのギャラリー好きなので嬉しかった。
 合成?と聞かれたが、実際はこの写真を反転して横に並べただけです。

 1枚の画像とこのプロセスだけでこんなイメージが!という感動があったのだけど、それって鑑賞者には伝わらないことを、あんまりわかってなかったねぇ…と思う。それは前の「grid」などにも言えることで、自身の傾向として結構ある。反省

 キャプションに書いた「Photography in Perspective」は、「遠近法に基づいた写真」という意味。写真とは、という探究がかなり学問的な方向に近づいてきていた。ここでは写真についてかなり普遍的(だと思う)な大きな問い、「単なる機械による記録であるはずの写真が、なぜ人々に『真実である』と受け止められるのか」ということに言及している。その一つの答えとして、写真のイメージを私たちが「自身の視界と似ているものだ」とまなざしているからではないか、と。写真が遠近法によって作られているから、そして私たちは「遠近法によって表されたイメージ」を実際の視界と似ているものだとと感じているから、写真は私たちの視界で見たものと同じ、真実だと感じるのだと。
 写真は単に似ている、"それだけ"なんじゃないか、と思ってしまったところがあり、ここではそれを示しておこう、と思った。それをちゃんと認めることによって、それを踏まえた上で、何かをやっていけるのではないか、と。


作った写真(捏ねる)

デジタル画像配置 / 「Subliminal wave」

 インスタとか、Twitter(現:X)で写真をみた時に、やっぱり弱いなということを感じて、平面画面上での写真のあり方ってどんなのがあるかな、と画像をいろいろいじっていた。

「Subliminal wave」
 グラフィックデザインに無知のままなんとなく興味があり、文字と画像の構成をやって見ていた 4つしか続かなかった。

 正方形に思いを馳せてたので、横にを二つ並べた長方形、という形式にしていた。画面が真ん中でちょうど2分割できたりできなかったりする。
 写真と文字による画面全体への視線誘導〜みたいなことしか考えてなかったような。でも色と文字と形による目のひきつけられ方の量については、画面構成の際に考えざるをえないことではある〜…

画像構成っ
 色や形などの心地よさを追い求めて1画面に画像を置いたり、関連のない画像と画像を組み合わせることで新たなものが見えてきたり、というのをポロポロやってた。イラレはたのしい


プログラミング「ぐにゃ音」

 春学期の課題で制作、ジャンキャリに出したら展示部門のアワードをとってしまい、ヒェ…となった。
 自分が何かを作ったら、中身のクオリティアップより、見せ方に労力割きがちだなということを改めて実感した。つくったものの中身に自信がなかったので、展示に力を入れたこと、それがこの結果なら…という罪悪感があった。見せ方という点なら多少はポテンシャルあるのか、という自信は得た。
 写真と学部のつながりを見つけられたのはよかった。けども、コンセプトはまだ弱く、まだまだだな…というところ。写真の形を崩す、というところは展示でのアプローチと共通してるのかな、と思った

写真冊子「inner piece」

 「インターネットの片隅に蓄積させときたい写真」というツイートをした覚えがある。そのスマホで撮った写真をそのまま時系列順にひたすら張っていったもの。しまうまプリントで作った。
 
・時系列に並べる(同一日付は組み換えOK)
・見てて私しか楽しくない写真、私にしかわからない写真冊子を志す(日記的な性質の写真)
・人に見せない前提で作る

 自分の中の無意識を探りだすようで面白かった。読んでても自分しかおもしろくないので、良い。

 

頓挫プログラム「バラバラ写真」

 「鉄骨-a」の後、写真をバラバラにしたから、今度は被写体をバラバラにしよう、という。イメージがあまりに面白くなく、頓挫



総評

 去年と今年を境にやることがガラッと変わったわけではないけど、作品の形式として実験的なものが多かったことは、主観的に見ても客観的に見てもそう思われると思う。
 去年の後半期から今年にかけて、グワっと写真の話をする機会ができた。ありがたい… 写真とは、写真を展示するとは、作品を作るとは、などのことを、意識的に考えることが増えたので、ただ写真を撮り、印刷して何かしらの意味を込めたものです!と提示するだけでは、物足りなくなったというのもあると思う。また、これまでは「自身の内面」を主に取り扱うことへ、限界や飽きを感じていたのかもしれない。それは明確に批判的調子で写真をやるで!といった感じになったわけではなく、自然な移行だったように感じる。

 移行という側面があるので、「自身の内面を中心に作る」、「写真という媒体について問いかける実験的作品」のどちらにも寄り切れなかったところは実感している。また、各作品によって、その配分や比重にも度合いがある。
 しかし極端にどちらかに寄り切ればいいというわけでもないし、どちらかに寄せようとしても寄せ切れるものではない。最初から、文章化できる明確なコンセプトを持って作品に取り組むわけではないため、そのプロセスには自身の内面への志向があるし、自身の内面を語ろうとしても実験的作品に対する志向があったりする
(脱線:絵はそのプロセスにおいて作者の意図が筆跡として含まれるというものだった、ということを考えるとそれと似ている気がする。ジャクソンポロックの絵が「壁紙のようだ」と批判されたことを思い出して考えてみると、絵の魅力の一つはそこに製作者の意図が膨大な量含まれていることによってある種の神秘性が付与されることにあると言えるかもしれない、と最近ぼんやり思っています)
 その理由として、自身は、コンセプトから写真を作るのではなく、写真を撮る・捏ねる過程でコンセプトを発見する、抽象的だったものが具体性を帯び、そこからまた抽象的な思考が生まれる、という繰り返しで作っているからだろうと思う。

最後に

 なんか、全体的に肩肘張った言語化が増えました。自身の立場を人に伝えて、それを発展させていく、という習慣があったからだと思います。その枠組みは、今年得たものであり、気づいたら染み付いてしまったものでもあります。気がついたら言葉が遠くに行ってしまっていて、それを自身に引き寄せる、を繰り返して過ごした年だったかもしれません。
 今は新しいカメラを買おうとしており、そして撮りたい写真があります。撮らないといけない写真もあります。いろいろ方向性やら考え方やらが固まって来たような気がしますが、それでもまだ自身が過渡期の人間であることは、忘れてはならないな、と思います。今年作ったものたちが、写真をただこねこねいじってるとこから発生してるので、偶発的なものも大切にしていきたい。自身の探究を、誠実にやりましょう…

 来年も引き続き、さまざまな人とお話できることを願っています。もっと成長せねば、します。
 おわり。

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