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記号としての心臓––––なぜ,血液のポンプが,愛の象徴になったのか?

(歴史のなかで、血液のポンプである心臓は、ハートという記号に変貌していきます。その過程を追った旧稿。そんなことを調べた人はいないらしく、2020年、読売新聞が取材に来ました。初出は『コミュニケーション科学』37号・2013年)


目次
はじめに
1.     心臓とハート
2.     聖なる心臓へ
3.     ハートの伝来
4.     恋愛の発見へ
5.     ハートの普及
6.     ハートと恋心
7.     ハートと幸運
8.     ハートフルへ
9.     ハートの構造

はじめに

 現代社会において,ハートの記号を見ないで暮らすことは難しい。朝刊を開けば,ハートを視覚表現に使った広告に出会う。駅に行けば,AED(自動体外式除細動器)の所在を示す心臓に稲妻のシールを見かける。携帯電話には,ハートの絵文字を使ったメールが届く。バレンタインの頃ともなると,百貨店からコンビニエンスストアに至るまで,ハートが氾濫する。神社によっては,ハートの絵馬が奉納されていることもある。

 書店にいけば,店頭に並ぶ女性誌は,どこかにハートのデザインを使っている。例えば,2012年3月末に見ることができた女性誌74誌は,表紙だけでも,27誌にハート形を見いだせた(女性ファッション雑誌ガイド,2012)。ハートの色彩は,赤色・桃色だけでなく,青・緑・黄・黒・金など多様である。モデルが自分の胸の前に,両手でハートマークを形作っている写真を使った表紙も見られた。

 ハートという言葉も多用される。女性向けの商品広告に止まらず,ハートピア,ハートタウン,ハートフル,ハートランド,ハートビルなど,公的な建築物,福祉施設,法律の別称などにハートを冠することが目立つ。その多くは,ハートの図像も伴っている。

 ここまで普及したハート記号とは,何だろうか。西欧で生まれたとされるハート記号が,どのように日本で一般化していったのか。その過程と,記号としてのハートの意味を本稿では検討する。

1.         心臓とハート

いうまでもなく,「ひとの心臓は,一片の肉であり,身体に血液を送るポンプである」(Young,2007:1)。それがなぜ,いまや平面的な「ハート形」の記号として,ここまで普及したのだろうか。

 グーグルの画像検索で,「ハート」と片仮名で入れると,3210万件のハート記号が登場する。「心臓」と入力した場合は,600万件の画像が出る。この場合は,臓器としての心臓のみであり,ハート記号は出現しない。

 一方,英語で「heart」と入れた場合は,31億1000万件であり,ほとんどはハート記号である。臓器としての心臓の画像は各ページにおける構成比から推測して1割程度であろう。ちなみに周囲が焔に包まれる心臓や,天使のような羽が生えている心臓も散見される。後で検討する心臓という臓器からハートという記号に変化する途中の過程が示されている(2012年8月25日現在 セーフサーチオフの場合)。

 日本語においては,「心臓」と「ハート」という検索語によって異なる図像が出現する。「心臓」と「ハート」は,意味する対象が違う。心臓という臓器の概念に対して,後からheartの文化的な概念が伝来し,それは片仮名で表される。

 もっとも,「ふつうハート形として私たちの頭に浮かぶ二次元の意匠は,心臓を表わすようになる前から存在していた」(Young,2002=2005:235)と考えられており,瓶,杯,葉など多様なものを表現していた。ローマ帝国の時代に繁栄したエフェソス(現トルコ領内)には,世界最古の広告として紹介されることも多い石畳に刻まれた模様がある(New at LacusCurtius & Livius,2012)。髪飾りをつけた女性,ハート,足形で構成されており,近くにあった娼館を示す「世界最初の屋外広告」だというが確証はない。

 あるいは,「テッサロニキの聖デメトリス教会にある七世紀に作られたモザイクにハートが逆さまに描かれている」(Young,2002=2005:236)が,当時の織物の柄であり,心臓とは関係がないという。形の類似だけでいえば,日本にも建物,飾り金具などに見られる猪目模様がある。

 心臓は,脊椎動物において,一定の律動によって血液を循環させるポンプの役割を担う。1628年,ハーヴェイは,心臓によって血液は体内を循環するとする血液循環説を唱えた(Harvey,1628=1847=1961)。すでに,血液の流れについては知られていた。だが,心臓から動脈経由で身体の各部に届いた後,静脈経由で心臓に戻ってくるという血液の循環は,ハーヴェイによって明らかになった。彼の発想には,当時進んでいた消防ポンプの開発が影響したともいわれている(Miller,2007:58)。

 心臓が血液を循環させるポンプであるという知見は,17世紀を待たないと生まれなかった。しかし,心臓の搏動によって,動物の生命が維持されていることは,昔から知られていた。動物を追いかけるとき,走る人間の心臓の鼓動は早くなるし,獲物を捕まえると,心臓は早鐘のように打っている。獲物を殺すと鼓動が止まって,息が停止する。心臓と生命との関係は,自然科学が発達する以前においても,人々は理解していたと推測できる(Young, 2002=2005:vii)。

 動物の観察だけでなく,人々は日常的な体験からも,心臓の存在を意識していた。良いことでも悪いことでも,心臓の鼓動は早くなる。興味を抱いた異性が近寄ってきたとき,物陰から突然現れた敵に,心臓は正直に反応する。人類は,自分に対する明瞭な意識を持った時点から,心臓という臓器と,感情や心との関係を感じ取っていたはずである。

 元来,心臓は多様なものを象徴する存在であった。「力,エネルギー,生命原理」(アステカ文明),「寛容と同情」(ケルト文明),「愛,理解,勇気,喜び,悲しみ」(キリスト教),「聖なる中心,ブラフマン(梵)の住居」(ヒンドゥー教),「存在の中心」(イスラム教),「理解力の宿る座」(道教)など,文化を越えて,中心的な存在と認識されており,心の位置するところであると考えられていた(Cooper, 1978= 1992:126-127 )。

 古代エジプトのパピルスに記された『死者の書』には,冥界の神オシリスによる裁きの場面がある。当時,心臓は,生命の宿る座であり,知性や良心の宿るところでもあった。死者の生前の徳不徳を知るために「心臓の秤量」が行われる。心臓と真理の羽をはかりにかけて,羽よりも軽ければ悪事を働いていないことになる。

 「我が母なる心臓よ。おかげで私が存在しえた我が心臓よ。どうか審判の時には私を裏切らないでくれ。・・・秤の番人の前でどうか私から離れないでくれ,お前は私のカー(精霊・パーソナリティ=引用者)であり,私の体の中に住んでいるものではないか」(山下,1985:235-236)と心臓に叫んで,「心臓の秤量」を切り抜けよと『死者の書』では教えている。

 心という漢字は,心臓にもとづく象形文字である(白川,2007:484)。平安時代末期の辞書である『色葉字類抄』には,「心,五臓之一也」(大野他,1974:475)と書かれている。また,13世紀から14世紀初めに成立したとされる『源平盛衰記』には,「黄鐘調」という雅楽の調子について,「心の臓より出づる息の響きなり」という記述が見られる(大野他,1974:682)。

 鎌倉時代(1303年)に完成したと言われる梶原性全の『頓医抄』(50巻)は,「五臓六腑の解剖記事と十二経脈の経路についての記事」があり,「わが国の医書で,はじめて人体の内部について記載したもの」である(富永孝,2003:98)。『頓医抄』には,「心ハ紅ニシテサガレリ・・・心ヨリ血気ヲイダシテ,骨髄ニ注グ,然ルガ故ニ五臓ニ病アルトキ,先ヅ心ヲ侵ス」(富士川,1904:169)という記述も見られる。

 室町時代の御伽草子『大仏供養物語』においては,「心臓みな,きよければ,衆生もとより,仏なり」とある(日本大辞典刊行会,1981:206)。

 江戸時代の『和蘭医方纂要』は,オランダの医書の翻訳だが,「心ノ臓ハ胸ノ中ニアリ,耳ノ様ナル物二ツアリ,是ハ心ノ臓ヲ清シメル風ヲ受取ル役ナリ,心ノ臓ノ袋二ツ,此袋ハ肝ノ臓ヨリ心ノ臓ヘ渡ス血ヲ受取り,善キ血ニナシテ,サテ左ノ方ノ袋ヨリ筋アリテ,血ヲ総身ニ渡スナリ」(富士川,1904:415)と書かれている。

 心臓とともに,胸,肝,胆なども,心の宿るところとして想定されてきた。胸が「物思い,気持ち,気分」などを表すのに対して,腹に相当する肝・胆は,「胆力,思慮」などに比重が置かれた心である(大野他,1974:1256,372)。心に係る枕詞である「群肝の」「肝むかふ」が示すように,「心は,たとえば心臓のような一つの臓器に宿っているのではなく,臓器と臓器の間にある」(佐々木,2007:17)という考え方もあった。

 ちなみに心のありかを胸や腹に想定する傾向は,とくに日本に強かったという見解がある (Young,2002 = 2005 :450 訳者後書き)。だが,必ずしも,日本だけの現象ではないようだ。バビロニアにおいては,肝臓が心臓と並んで,魂に関わる内臓であったし,古代ギリシアでは,肝臓と肺臓が,心臓よりも精神的なものであった。スカンジナビアでも,キリスト教以前には,「肝臓(腹)からの言葉」という表現があり,肝臓は「情念の座」として,身心における「調整役」を担っていると考えられていた(Høystad,2003:58,33,12)。結局,「現世欲の座」としての肝臓というメタファーを,キリスト教が追い払っていったのである(Le Goff and Truong,2003 = 2006 :240-245)。

 中世ヨーロッパにおいて,心臓がそれを保持する人の心という概念を超えて,神の心と結びついていく。キリスト教が心臓のメタファーに影響を与えていくことになる(Høystad,2003:33)。いいかえれば,「中世に心臓は,分割されて,人は二つの心臓を持つようになった・・・象徴としてのハートが,肉体の一部である心臓から少しずつ分離したのである」(Høystad,2003:126)。


2.         聖なる心臓へ

 12世紀から17世紀が,イエスの聖心(Sacred Heart)への崇敬が見られた時代である。聖心への信仰は,「十字架上で刺されたキリストの心臓を聖寵と救済の愛の泉とみる」(柳・中森,1990:346)という考え方が背景にある。

 最初にイエスの心臓への信仰が芽生えるのは,聖ベルナールが「イエスの柔らかなる心臓」と唱えた12世紀といわれている。やがては,「十字架上のキリストの傷口から右脇腹から左脇腹に移される」(Le Goff,2003 = 2006 :242)といったことも起こる。脇腹の傷が,イエスの心臓に至るための「物理的な入口」と考えられたのである(Sargent,2007:105) 。

 1224年には,アッシジの聖フランチェスコが,歴史上初めて聖痕(イエスと同じ傷跡)を受ける。アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂のフラスコ画(ジョット・ディ・ボンドーネの作といわれている)にそのときの状景が描かれている。ラ・ヴェルナ山に登って祈りを捧げるフランチェスコに,「炎の色をした熾天使(セラフィム)に包まれた十字架のキリストがあらわれて,キリストと同じ五つの傷を,聖人の両手と両足,そして脇腹に授けた」(岡田,2009:173)という。そうしたことを契機にして「聖心崇敬が教会に広まった」(柳・中森,1990:346)。

 ル・ゴフは,こうした動きを,「十三世紀から十五世紀にかけて,心臓のイデオロギーが花開き,妄想すれすれの想像世界の助けを借りて増大する」(Le Goff,2003 = 2006:241)と評している。

 この時期,各地の修道院で,とくに修道女たちが,イエスとの心臓交換という幻想的な体験をする(池上, 1992:90-93)。ジョヴァンニ・ディ・パオロが描いたキリストと心臓を交換する聖カトリーヌの絵(メトロポリタン美術館所蔵)が示すような「イエスとの心臓交換」の図像は,精神的であると同時に,性的なものといえるだろう (Slights, 2008:51-52)。

 聖カトリーヌが,右手で握りしめている心臓は,ハート形をしており,血が滴っている。ドミニコ会に属する聖カトリーヌの神秘体験が喧伝されたのは,アッシジの聖フランチェスコのフランシスコ会に対して,ドミニコ会としても,「聖痕の神秘に浴することのできるスター的な存在をぜひとも必要としていた」(岡田,2009:187)という事情もあったようである。

 ところで,聖カトリーヌが右手に持つ心臓は,現代人の目からすると,天上と交信する赤い携帯電話のように見える。あるいは,スペインの画家フランシスコ・デ・スルバランに「聖アロンソ・ロドリゲスの幻視」(王立サン・フェルナンド美術アカデミー所蔵)という作品があるが,そこでは,天上のキリストと聖母マリアが,赤い心臓を手に持って,地上の聖アロンソ・ロドリゲスの心臓に,光線を送っている。まるで,携帯電話で赤外線通信をしているようである。イエズス会士の胸には,イエスとマリアを示す文字が届いている(あるいは聖アロンソ・ロドリゲスの心臓に最初から刻まれていた文字が浮き上がった可能性もある)。

「キリスト教において,心臓は,元々神と人を媒介する場なのであり,天上と人間が出会うところ」(Sargent, 2007:102)といわれているが,こうした図像を見ると,まさに心臓は,メディアであり,通信のためのデバイスであるかのように思える(岡田,2009:262-263; SpanishArts.com,2012)。

 信仰心の篤い女性たちへのイエスの出現としては,17世紀におけるマルグリット・マリー・アラコックの神秘体験が有名である。その聖心信仰は,最初は迫害されたが,やがて「キリスト教の本質であるイエスにおける神の愛に焦点を合わせた信心として,歴代の教皇たちによって承認され,勧められた」(ゴンザレス,1996:372)。

その理由は,「『心』という語の聖書的な理解によれば,イエスの聖心は,イエスの心臓を意味すると同時に,特にイエスの愛を意味している」(ゴンザレス,1996:372)からである。修道女たちの体験ほど,「イエスの愛」を明瞭に語るものはないといえる。

 とはいっても,教会にとっては,微妙な問題も抱えていた。修道会,ペギン会(女性たちの半修道会的集団),一般信徒が,聖心信仰そして神秘体験を通して,イエスとの「直接的な交歓」を進めることは,教会の秩序を乱すものになりかねない。「教会が利用した身体イメージでは,『頭』こそ最重要器官で,いわば身体の司令塔」(池上,2008:223)だったのに対して,聖心信仰を持つ「一般の信徒」は,教会という「頭」を飛ばしてイエスそのものの「心臓」と「直結」する可能性を秘めているからである。

 教会にとってより都合が悪いのは,「それを目にした世俗権力者のイデオローグに,心臓を中心とするミクロコスモス/マクロコスモス論を展開させるきっかけを与えた」(池上,2008:224)ことにあるといえよう。「教皇が頭だとしたら,そこから血を分配する血管が派生する心臓は君主」(池上,2008:223)ということになる。教皇たちが,一般信徒から高まった「心臓」の重視,聖心信仰を取り込もうとした背景には,そうした世俗権力との関係も影響した可能性がある。このように様々な波紋を投げかけながら12世紀から17世紀の聖心崇敬は進展した。

 一方,イエスの心臓と関係なく,心臓を「心」「愛」「人生」の象徴と見る動きも存在した。そこでは,現代と同じようなハート形が表れる。例えば,15世紀から16世紀にかけて,ハート形をした祈祷書や聖歌集・唱歌集が登場する(Jager,2001)。心臓というものを,人の思考,感情,記憶などを内包した「本」であると見立てて,そうした「内なる本」に書き込まれるべき「祈りの言葉」「祈りの歌詞」を,ハート形の本にまとめたものである。

 古いラテン語では,心臓を表すcorが,思考・精神・魂・知性・意思・性格・感情を意味したことを考えると,心臓=本という発想は不自然ではないのだろう(Jager,2001:XV)。心を本に見立てる考え方は,現在でも,「あの人の心が読めない」といった形で残っている。

 ハート形が世界観の表現として使われている例としては,シトー派の修道士ギヨーム・ドゥ・ディギルヴィル (1295- 1358頃)が書いた本も興味深い。フランス語訳Le pèlerinage de vie humaine.(1490)の図版には,ハート形の中に円が描かれており,円の中は,逆さのTによって三分割されている(Slights,2008:45)。

 円の中の三分割は,アジア,ヨーロッパ,アフリカの大陸を示す。円は,その周囲の大洋を表している。逆さのTの縦棒と横棒の交点は,キリスト教,ユダヤ教,イスラム教の聖地であるエルサレムを意味する。こうした現実世界を,ハート形が囲んでいるわけだが,「全体として,この一風変わった図式の木版画は,現実世界のすべてを包含し,内包する神と人間双方の心臓の力を表している」(Slights,2008:44)といえる。

 心臓が地上における男女間などの愛を象徴する例も見られる。「愛のメタファーとしての心臓の交換という神秘体験は,より直接的には,中世の宮廷愛の伝統を抜きにしては考えられないものである」(岡田,2009:226)と指摘されるように,こうした俗世の愛の伝統が,聖心信仰を生む土壌でもあった。

 例えば,貴婦人に愛を誓った騎士の「鍵を掛けられた心臓」(『バラ物語』13世紀),愛の記念として貴婦人に捧げたが,夫の悪巧みで「調理され,貴婦人に食べられてしまう心臓」(『クシーの城主』13世紀から14世紀初頭),ルネ王の胸から飛び出して冒険に赴き,「愛の施療院で生を終える心臓」(『愛に夢中な心臓の書』15世紀)などがある(池上,1992:89)。

 マイスター・カスパーが描いた木版画『ビーナスと恋人』(1485年)は,ひとくせありそうなビーナスが,ひざまずく恋人の心臓を刺す,鋸で切る,押しつぶす,燃やす,責め具にかけるなどの暴力的行為をしている。

 「心臓を踏みつけて立つ彼女の見下したような笑みと色っぽい仕草は,心臓の痛みがひどいほど,自分の性的な尊大さが満足するという変幻自在な彼女のやり口と一体になっている」(Slights,2008:77)と指摘されるように,現代のサディズムの風俗を描いたともいえる大胆さである。画面に描かれた18の心臓は,平面的であり,ハート形となっている。一般的に15世紀以降は,心臓の描写はハート形になる(Kemp, 2012:103)。

 15世紀の後半には,いまのようなハート形を含んだトランプ(ビクトリア・アルバートミュージアム所蔵)が普及した (Kemp,2012:98)。ちなみに赤色のハートは「人間の中心」,ダイヤモンドは「女性原理」を示し,春と夏の季節に対応する。黒色のクラブは「男性原理」,スペードは「樹木と自然」を表し,秋と冬に対応する (水之江, 1986:221)。

 16世紀から17世紀初頭は,シェイクスピアの時代でもあるが,「シェイクスピアの芝居では,『心臓』あるいはその類の言葉は,1400回登場する。それは『手』という単語の3分の1であり,『頭』という単語の2倍の出現頻度である」(Slights,2008:180)という。

 ルター派の神学者ダニエル・クラマーによるエンブレムブック『聖なるエンブレム』(1616年)では,「四十の相互に参照される場面の中に,擬人化された心臓が主役として登場し,人間の心臓が傷つけられるさまざまな状況を提示する」(Young, 2002=2005:236)。エンブレムブックとは,イラストと短い文章からなる寓意画集であり,16世紀から18世紀まで盛んであった(Lyons,2011=2012:92-93)。『聖なるエンブレム』では,パンのような形をしたハートが,様々な試練を受ける。

 さて,17世紀に入り,既述のようにウィリアム・ハーヴェイの『動物における心臓と血液の運動の解剖学的実験』によって,心臓が血液のポンプであることが明らかになる。一方,「冷血な人だ」「心臓に毛の生えたような」など,心臓や血液と心の関係を前提とした表現が,いまでも日常的に使われる。

 医学と感情の歴史についての研究者は,「2世紀から17世紀にかけて,身体の体液理論は,医療や科学の理論で支配的であった。体液主義は,心臓と怒りや悲しみといった経験とを具体的につなぐものであり,心臓が語る言葉といったものを生み出した。それは,喜びで『張り裂ける』とか,恐怖で『凍りつく』といった言い回しの中にいまでも残っている」(Alberti, 2007:126)と分析している。

 臓器の一つである心臓が,それ以上の意味を持つことに対して,キリスト教の影響は大きかった。加えて,ヒポクラテスの流れをくむ紀元2世紀のガレノスによる体液理論も関係している。人間が,血液,粘液,胆汁,黒胆汁の4つの液体的要素から成り立つという体液理論によれば,心臓が送り出す血液を媒介として感情とつながっていることになる。

 

3.   ハートの伝来

ヨーロッパにおいて,記号としての心臓が生成されていく歴史を概観したが,その動きはどのように日本に伝わったのだろうか。以下,その伝来と普及の過程を見ていこう。

 神戸市立博物館にある「聖フランシスコ・ザビエル像」(重要文化財)は,1622年(元和8年)以降の江戸時代初期の作品と考えられている。同博物館は,南蛮美術と題された名品撰を所有する。南蛮美術が生まれた頃は,ヨーロッパのルネサンス終末期にあたる。ルネサンスの流れの中で,イエズス会の精神に合うものが持ち込まれ,南蛮美術と呼ばれるようになった (樺山,1996:379)。

 「聖フランシスコ・ザビエル像」の説明文には,「本図は,光輪をつけ,手に神への燃える愛を象徴する赤い心臓を抱き,キリストの磔刑像を見上げ,口から『満ちたれり,主よ満ちたれり』というラテン語文を発する聖人を描く」(神戸市立博物館,2012)とある。

 ザビエルが鹿児島に上陸したのは,1549年(天文18年)であり,2年余の滞日で2000人に洗礼を授けた(坂井, 2006 :36)。他のイエズス会の宣教師も来日し,その後は、フランシスコ会,ドミニコ会,アウグスチノ会の宣教師もやってきた。局地的迫害などもあったが,ザビエル来日後,50年以上の伝道が続いた (宮永,2004:16)。

 キリスト教美術においては,「炎を上げて燃える心臓を手に持つ場合,神への熱烈な敬愛のエンブレムとなる」(Speake,1994=1997:117)。ザビエルが手に持つ心臓には,ヒゲのように炎がある。心臓の上部からは,斜めに十字架が伸びているが,これは,「所有者のキリストに対する献身」(Speake, 1994=1997:117)を示す。「聖フランシスコ・ザビエル像」には,多様な象徴的付属物(アトリビュート)が関連づけられている (若桑,1999:246)。

 「聖フランシスコ・ザビエル像」は,戦国時代から江戸時代初期を生きたキリシタン大名・高山右近の旧領である千提寺(茨木市)に伝わっていた「開けずの箱」から1920年(大正9年)に発見された(神戸市立博物館,2012)。それは,日本にも聖心信仰がもたらされたことを示している。西洋画の描き方を学習した絵師が描いたもので,「禁教によって破却された聖画のうち,伝世した数少ない江戸初期の洋風画として重要」とされる(神戸市立博物館,2012)。

 1584年(天正12年)に「ルイス・フロイスは、日本には五万点以上の聖画が必要だとイエズス会総長に手紙を書き送った」(宮内,2009:107)といわれる。だが,「実際に西洋からもたらされた絵画は少なく,イエズス会のセミナリオでは西洋絵画を教え,日本人の手による聖画や洋風画が制作されるようになった」(宮内,2009:107)のである。

 恐らく、「聖フランシスコ・ザビエル像」以外にも,禁教によって廃棄された聖画があり,聖心を描いた絵画も存在したと想定される。遅くとも16世紀の日本には,ヨーロッパにおける心臓の図像が伝来していたのだろう。

 16世紀には,ポルトガル伝来のカードゲームを複製した天正カルタが作られた(三池カルタ・歴史資料館,2012)。棍棒,刀剣,聖杯,貨幣の4種類のスート(カードのマーク)で構成されている。先述のように15世紀の後半には,ヨーロッパにおいて,ハート形を含んだトランプが普及していた (Kemp,2012:103)。ただし,ポルトガル・スペイン・イタリアのようなラテン諸国は,地方札(regional card)と呼ばれる伝統的な棍棒,刀剣,聖杯,貨幣のスートを維持した。

 そのカードに見られる聖杯が,「今日私たちが知っているとおりのハートになった」(Young,2002=2005:237)といわれる。といっても,それは心臓と無縁ではない。「血=ワイン=愛が心臓から杯(カリス)へ,杯(カリス)から心臓へと注がれる」(Young,2002=2005:237)という連想が背景にあるからである。

 いずれにしても,16世紀には,日本にトランプが入ってくる。ポルトガルのような地方札が中心であったと思われるが,ハート形に近い図像も渡来した可能性はある。複製された天正カルタは,版木が残っているが,他のカードは,残存していないのでそのあたりの事情は推測に止まる。

 16世紀から17世紀初頭に見られたキリスト教の浸透は,禁教令(1612年・慶長17年/1613年・慶長18年)と鎖国(1639年・寛永16年)を契機に途絶えていく。

 江戸幕府によるキリスト教徒の弾圧は,隠れキリシタンを生みだした。「聖フランシスコ・ザビエル像」が示すような聖心信仰は,果たして隠れキリシタンの間に継承されたのだろうか。歌集『ハートの図像』(桜川,2007)は,福岡市在住の歌人の作品集だが,あとがきに,「隠れキリシタンの墓碑に刻まれていたハートの図像をもって書名としました」(『朝日新聞』2007年・平成19年9月28日)と書かれている。このように隠れキリシタンではないかといわれる墓に,キリスト教を暗示させる記号を発見したという記述は散見されるが,確証はないようである。

 ところで,「二百数十年におよぶ長い潜伏時代において,やむなく仏教や神道をはじめとして,民俗信仰を借用しなければならなかった潜伏キリシタン」(宮崎,1992:33)をカクレキリシタンと呼んで,隠れキリシタンと区別している。カクレキリシタンは,明治時代になって,カソリック信仰が許されても,「復帰」を拒んで,独自の信仰を維持した。彼らの特徴は,「(1)祖先信仰(2)多神教(3)現世利益(4)儀礼中心主義」(宮崎,1992:33)であるとされる。

 カソリックには,聖母マリアがその母アンナの懐妊の瞬間から原罪を免れていたとする「無原罪の御宿り」という考え方がある。カクレキリシタンは, 潜伏期間の間に聖画を「お洗濯」と称して描き直していたが,「無原罪の御宿り」を描いた聖画は,その間に「三日月と雲に乗って現れる安産の母子像に変容している」(宮内, 2009:112)。キリスト教を背景に生まれた図像が,「土着的民間信仰と融合し,日本的な現世利益の神として信仰の対象」となったのである。いいかえれば,「お守りやお札のような現世利益的な崇拝物として受け入れられた」(宮内,2009:112-113)といえる。この現象は,後述するように現代におけるハートの受容を考える際にも参考になる。

 1865年(慶応元年),日仏修好通商条約にもとづいて大浦天主堂が完成する。そして,天主堂のプティジャン司祭に会うために,浦上の隠れキリシタンたちが訪ねてくる。「旧教徒の発見」と呼ばれている。だが,キリスト教は禁教であったから,その後,「浦上四番崩れ」と称される弾圧を受ける。キリシタン禁制の高札が撤廃されるのは,1873年(明治6年)を待たなければならない(坂井,2006:42)。

 明治時代に入った日本は,西欧の技術・制度・生活様式の導入を進める(野口,1978:29)。1868年(明治元年)には,明治政府による最初の大規模西洋建築である大阪造幣寮の建設が着工される。翌年(明治2年)には,電信制度が導入された。肉食が広まり,靴の製造とアイスクリームの販売が始まる。1871年(明治4年)には,岩倉具視を正使とする107人の遣外使節団がアメリカとヨーロッパに派遣された。1872年(明治5年)には,近代的学校制度である学制が始まる。太陽暦の採用も同年である。

 福沢諭吉は『改暦弁』で「時計の見様(みよう)」について説明をしている(中野,2003:3)。懐中時計はステータスシンボルとなり,見るだけでなく見せるためのものになる。牛鍋屋で懐中時計を見せびらかすのは「開けた」人物であることの象徴なのである(中野,2003:5)。1872年(明治4年)に石版印刷(リトグラフ)が始まり,色刷りの大判ポスターを印刷することもできるようになる。

 1873年(明治6年),ウィーン万国博覧会に日本政府が正式に参加する。その後,国内では,1877年(明治10年),第1回内国勧業博覧会が開催され,1881年(明治14年)には第2回,1890年(明治23年)には第3回の博覧会が開かれる。

 不平等条約を改めさせる条約改正を実現させようと,欧化政策も進展する。1883年(明治16年),鹿鳴館が完成し,翌年には鹿鳴館ダンス講習会が始まる。1887年(明治20年)には,首相官邸でのファンシーボール(仮装舞踏会)も開催された(佐々木,1992:241-242)。

 欧風化現象は,ヨーロッパの様々な表象の流入を促した。1886年(明治19年)刊行の『西洋カルタの教師』という本には,トランプにおけるダイヤ,スペード,クラブ,ハートの4つのスートの説明がある。ハートは,赤い心臓形と紹介しているが,そのハート形は現代とは天地が逆になっている(前田,1886:13)。

 1885年(明治18年)の鹿鳴館舞踏会に出席したフランスのピエール・ロティは「江戸の舞踏会」と題した短編小説で,「ヨーロッパ人ぶらうとしてハヴァナ葉巻を燻らしたり,トランプのウヰスト(whist・ブリッジの原形=引用者)遊びをしたりしながら,階下の客間(サロン)にゐる紳士たち」(Loti,1889=1942:70)と描写している。明治10年代半ばから20年代には,少なくともトランプの意匠としてのハート形は知られていたようである。

 

4.   恋愛の発見へ

 記号としての心臓は,「聖フランシスコ・ザビエル像」に代表される聖画によって,日本にもたらされた。ただ,禁教の後,どの程度,その影響が存続しえたかは不明である。もちろん,明治に入って,キリシタン禁制の高札が撤廃されてからは,聖心についての図像や記述を目にする人々は増えただろう。トランプを通してハートを知る機会は,もっと多かったと思われる。

 だが,幅広い人々が,ハートの意味合いを知るのは,近代的な恋愛概念の「輸入」を待ってのことである。恋愛という言葉は,loveの訳語として,愛恋とともに明治初年頃から使われており,1889年(明治22年)頃には,恋愛の方が定着することになった (日本大辞典刊行会,1976:1210)。

1870年(明治3年)に出た『西国立志篇』では,中村正直が,サミュエル・スマイルズの原文を訳して「嘗て村中の少女を見て,深く恋愛し,その家に往きたるに」と訳している(Smiles,1859=1870=1981:122)。

 「近代恋愛の特徴は,それが現実のすべての人間が辿るべき『恋愛––結婚』だと考えるところにある」(小谷野,2005:11)とされる。いいかえれば,「恋愛・結婚・生殖の三位一体からなるロマンチック・ラブ・イデオロギー(恋愛結婚イデオロギー)」(荒木,2006:232)の登場をもって,恋愛の概念は成立した。

 ロマンチック・ラブという考え方が生み出されたのは,18世紀イギリスにおいて「恋愛メディアとしての恋愛小説」(荒木,2006:234)が登場したときといわれる。「恋物語や恋愛小説の全くない社会のなかではおそらく人は恋愛をすることを知らない」(亀井,1991:34)のであり,近代的な意味での恋愛は,社会的に構築されたものといえる。 

 男女間における「プラトニック・ラブ」は,15世紀のヨーロッパで唱えられ,18世紀後半に再び盛んになる。「それが一般庶民にまで広まったのは十九世紀のことで,むしろ『近代市民』の成立が『近代恋愛』を成立させたというべきだろう」(小谷野,2005:9)と推測されている。ということは,「せいぜい西洋との間に一世紀のずれ」(小谷野,2005:13)をもって,恋愛という翻訳語が,明治時代に生まれたことになる。

 国立国会図書館近代デジタルライブラリーによると,明治時代(1868年-1912年)に出版された書物において「恋愛」が書名または目次に含まれているものは,1889年(明治22年)の『青年之友 同窓美談(初編)』(宇田川,1889)など149件ある。ちなみに同書では,第8回に「恋愛の世界」という話が載っており,「恋愛」には「いろ」というルビが振られている。

 同年刊『恋愛哲理色界之燈』では,「第一章色情総論,第二章色情の発育及順序,第三章人類の義務,第四章恋情の起因,第五章恋情の障碍,第六章一夫多妻論,第七章娼妓と芸妓,第八章情死論,第九章婚姻論,第十章交合論,第十一章架空的の恋,第十二章結論」(松の家,1989:目次)と恋愛論が展開される。「此の情あればこそ社会も面白をかしく立ゆくなれとも 若し世に男女恋愛の情なければ 人は木偶と一般 世は乾燥無味 寝と食とで一生をば空しく終りて已まんのみ」(松の家,1989:3-4)とある。

 1891年(明治24年)には,『相思恋愛の現象』が発刊される(布川,1891)。同年の『女学雑誌』第262号で編集者の巌本善治は,撫象子のペンネームで,「宮崎湖處子『日本情交史』,甲田良造氏『色情哲学』の二書ありてより此方,久しく『ラブ』の事を説きたる著書出でず」と前置きをした上で,同書を評している(巌本,1891:18)。

 1901年(明治34年)には,『婦人美観』が出版され,「女性と恋愛」という章がある(寺内子,1901)。「恋愛思想の健全なると,不健全なるとは国民の倫理,道徳の上に大なる影響を及ぼすものにして,文学や美術も時として其根本より揺かさるること無きを保せず,恋愛思想を知るは場合によりては国民の一般傾向を窺知するに足るべきものにして,深重に愼議せざるべからざる問題なり」(寺内子,1901:54)と恋愛の重要性を説いている。

 1902年(明治35年)の『明治式部』には,「女学生と恋愛」という章が登場する(菅野,1902)。「女学生と恋愛との関係は亦た女学生の将来に係るものにして」と恋愛を論ずる必要性を述べる。「而して恋愛の寄宿舎なる女学生てう血塊は,其の恋愛に使役せられて,走り赴く處・・・正邪の二者と別る」とその将来には二つの方向性があるとする。「一は才媛と呼はれ,一は莫連女と呼ばる即ち清浄界と垢汚界なり」(菅野,1902:67-68)と恋愛と幸福との関係を考察している。この論で行くならば,後述する「ハート団」などは,さしずめ「恋愛に使役せられ」た結果の「莫連女」ということになるのだろう。

 1907年(明治40年)になると,堺利彦・森近運平『社会主義綱要』(鶏声堂)といった政治的な書物でも,恋愛が論じられる。「婦人が今日の社会より蒙る害悪は,社会主義の実現に依りて救はるべし・・・婦人解放の直接の結果は,恋愛の自由を得るとなり」(堺・森,1907:106)と,女性の社会的地位と恋愛の自由について正面から切り込んでいる。

 1909年(明治42年)の『美文記事文』は,様々な文章の書き方を説明する。「恋愛を書く法」では,「恋愛を書きて読者に感情を起こさしめんとすれば決して其の恋ひ人に逢はしむる勿れ,逢ふべき場合に至れば忽ち他より邪魔を入れて之を遇せず遇はせざるに至りて恋愛の情益々盛んに読者もアー残念残念と思ふなり」(大畑,1909:20)と恋愛小説の書き方まで伝授する。

 恋愛という概念が,明治20年代から30年代にかけて,一般に浸透していったことがわかる。こうした中で,1901年(明治34年)8月,与謝野(鳳)晶子による『みだれ髪』が発刊される。「夜の帳にささめき盡きし星の今を下界の人の髪のほつれよ」という歌で始まる素直な恋愛感情を詠いあげた歌集は,東京美術学校助教授であった藤島武二によるハートの図像による印象的な表紙もあいまって,世の中に衝撃を与えた。

 1911年から『白樺』で連載が始まり,1919年の『有島武郎著作集』(叢文閣)で完結する『或る女』には,『みだれ髪』についての描写がある。

 「『何? 読んでいらっしたのは』と云って,そこに在る四六細型の美しい表装の書物を取り上げてみた。黒黒髪を乱した妖艶な女の顔,矢で貫かれた心臓,その心臓からぽたぽた落ちる血の滴りが自ずから字になったやうに図案化された『みだれ髪』といふ表題–––文字に親しむ事の大嫌いな葉子も噂で聞いた有名な鳳晶子の詩集だった」(有島,1947: 242 )。

 『みだれ髪』は,与謝野晶子が『明星』(1900年創刊・主宰与謝野鉄幹)に投稿した作品などをもとに制作された。『明星』は,「パリと同時発信でアール・ヌーヴォーを日本に伝える雑誌」(山田,2006:157)であった。『みだれ髪』の表紙は,波打つ女性の髪が生み出す輪郭線がハート形になっており,そこに矢が刺さっている。

有島武郎が描写したように,滴り落ちる三滴の赤い点が,片仮名の「ミ」を形作り,それ以下の「だれ髪」の文字も,血痕のような印象を与える。『みだれ髪』の表紙には,モラヴィア(現在のチェコ東部)出身であるアール・ヌーヴォーのデザイナー,アルフォンス・ミュシャの「ジョブ」(1896年),「桜草」(1899年)などの影響が見られる (大貫,2010)。

 藤島武二が装幀に参加していた『明星』も,ミュシャからデザインのヒントを得た例が多い(斉藤,2012)。『明星』7号(1900年・明治33年)の挿絵は,女性が右手であごを押さえ,左手で縦に長い紙を膝の上に立てている。左手の指の間には,筆が挟まれており,紙には,縦書きで「一筆啓上」という文字が見える。

 元になったミュシャの絵は,1897年のサロン・デ・サンのミュシャ展のポスターである。構図も女性の顔つきも,まったく同じといえる。左手の指に挟んでいるのは,筆ではなくペンであろう。その紙に描かれているのは,3つの輪とハートである。「あざみと茨」は,キリスト教的な図像でもあるが,チェコで行われていた体操運動ソコルを象徴している (斉藤,2012)。

 3つの輪の背景となっているハートの図像も,シナノキ科の西洋菩提樹(現在,チェコの国花)の葉の形から来ているという(斉藤,2012)。ハート形の起源は,心臓だけでなく,植物の葉の形態とも関わりが深いのである。

 

5. ハートの普及

 国立国会図書館近代デジタルライブラリーによれば,明治時代の収録作品で,心臓という言葉が題名や目次に載っている本は,297冊ある。数冊は,心臓にまつわる逸話だが,後はすべて心臓関係の医学書といえる。

 一方,ハートという言葉が題名や目次に見られる本は4冊ある。1907年(明治40年)には,『家庭小説・小さなハート』(樋口,1907)が出版されている。フランスの小説を翻案したものである。

 1908年(明治41年)の『小学児童手工実習書 三』(山主,1908)は,茨城県師範学校の教諭が,小学校の図画工作用に制作したもので,図画の手本として,「ハートガタ」を掲載している。この頃には,子供たちにもハートの形が浸透していたといえる。同年の『編み物指南・続』(石井,1908)には,ハート形の銀貨入れの編み方の章がある。

 1911年(明治44年),ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(原作は1865年刊)の翻案である『子供の夢』(丹羽,1911)が発刊されている。章のタイトルには,「ハートの女王」「ハートの王様」などが見られる。

 『みだれ髪』が刊行された20世紀初頭からは,ハートの出現頻度が高くなる。ここからは,主として朝日新聞 (1879年〜),必要に応じて読売新聞(1874年〜)のデータベースを利用して,ハートの普及過程を辿っていく(とくに記載のない場合は,東京朝日新聞または朝日新聞からの引用。括弧内は掲載日)。

 1902年(明治35年)には,「動気息切脚気の良薬」というキャッチフレーズとともに「ハート丸」という心臓薬の広告が載っている(1月13日)。広告の絵柄は,黒ベタのハートで商品名は白抜きである。1906年(明治39年)には,「ハート形表附履物発売」(ダイミツ陳列場)とあるようにハート形の履物広告が掲載されている(5月30日)。

 1907年(明治40年),『教育画報ハート』創刊号が発刊された。発行所は,宮武外骨の滑稽新聞社である。10月20日掲載の新聞広告には,「動物の保護色と進撃色」「英国異形の軽気球」「滑稽加減乗除」「時計の歴史」「犬を独りで走らす法」「虚栄婦人の腕環」「未開時代の異国人物」「文字の起源」「魚釣魚」「薬用人形人参」「牛の生前と死後」「献上菓子の製法」「擬獣法狩猟」などの目次が並んでいる。

 表紙は,ハートの図像の中に雑誌名「ハート」が記されており,その周囲を「HEART」「心」という文字が囲む。『教育画報ハート』は,『家庭小説・小さなハート』『小学児童手工実習書 三』と同時期の創刊である。明治40年代に入ると,ハート形は,年代を越えて広く知られるようになった。

 1909年(明治42年),いよいよ街にハートが出現する。「ハート形の看板」という見出しがある(8月20日)。記事は,「芝柴井町の電車停車場で降りると西側の小さな路次の入口にハート形の赤い看板が眼に付く」という導入部で始まる。

 この看板は,「結婚媒介所」のものであり,「申込無料報酬低廉」と書き添えてある。体を横にしないと通れないような狭い路地の奥で,「ごめんなさい」というと,30代半ばの主人が出てくる。

 上り口に座ったまま,原籍地,年収など16項目以上を書き込むと,写真を見せてくれる。「二十歳前の素敵にハイカラなのがあった」ので,どういう人ですかと記者が問うと,「それは収入の多い学士か財産家へ行きたいと云ふのですからお話が仕憎くからうと思ひますと云ふ 成程僕等の細君にはなりさうもないツンとした顔をして居る」と記事は終わる。「興次郎」という書名入りの記事である。日常的な看板に使われるということは,すでにハート形が浸透したと考えていいだろう。

 1912年,明治が終わる年の1月から4月まで,夏目漱石『彼岸過迄』が朝日新聞に連載される。同年9月(大正元年),単行本として発刊される。

 「僕の頭(ヘッド)は僕の胸(ハート)を抑へる為に出来てゐた。行動の結果から見て,甚だしい悔を遺さない過去を顧みると,これが人間の常体かとも思ふ。けれども胸(ハート)が熱しかける度に,厳粛な頭の威力を無理に加へられるのは,普通誰でも経験する通り,甚だしい苦痛である」(夏目,1912:399 括弧内は原文ルビ)

 「頭」と「胸」について,「ヘッド」と「ハート」という「ルビつきで書き記したこと自体が,ある微妙なニュアンスをこの一対の言葉に付与していることだろう」(大橋,1987:15)と指摘されるように,漱石は他の作品でも,「ヘッド」と「ハート」を対照させる。「ハート」というルビがつけられた単語は,「胸」(『彼岸過迄』),「心」(『それから』),「心臓」(『行人』)などと異なってはいるが,理性と感情の対比であることに変わりはない。

 このように明治の末には,「ハートという図像」(例えば,『みだれ髪』)ならびに「ハートという言葉」(例えば,『彼岸過迄』)は,心,感情,恋愛,情熱,心臓などを示す記号として定着をしたといえよう。

 当時人気があった絵葉書には,「ハート型の枠」を使ったものがある。日本画家として有名な鏑木清方は,樋口一葉の『たけくらべ』の主人公・美登利をハート型の中に収めた絵葉書を制作している(絵葉書資料館,2012)。ハートの形をした柱時計(ハートH精工所)も,明治の後期に販売されており,開発者の長谷川与吉は,「心,即ち心臓を表した」と語っていた (日本古時計保存協会,2012)

 1916年(大正5年)には,「日本赤十字社病院御用達」と銘打った「ハート十字規那鉄葡萄酒」の広告が出ている(10月27日)。ワインボトルには,ハートに十字のシールが貼ってある。

 1917年(大正6年)には,『女のはーと』(龍川社)という四六判250頁の本の出版広告が掲載される(8月26日)。内容は,「処女の神秘」「女学生の新思潮」「芸者の手管」「細君の現代気質」「女郎の玉手箱」「私娼の暗黒面」「女優の濡れ幕」「未亡人の厚化粧」「女教師の独身主義」「看護婦の実意」「女記者の怪気炎」「電話交換手の盗み聴き」「下女の大不平」「女工の危険思想」「女事務員の真情」などである。旧題は『女のはらわた』であったが,「発売禁止」になったので,本書を姉妹編として「更に改訂増補出版」したという。ハートの連想が,「恋愛→性」へと拡大し,世俗化していることが分かる。

 1919年(大正8年),山脇高女の徽章についての記事がある(『読売新聞』10月25日)。「ハートに富士」のマークであり,1907年(明治40年)から使用と書かれている。1921年(大正10年)には,「ハートエスゴムグツ」の広告が掲載されており,ハートの絵柄に大きくSとある(7月14日)。ちなみに1922年(大正11年)には,グリコからハート形をしたグリコキャラメルが販売される。「ハートは健康を思いやる心を表わし,角のない形で口あたりをよくしようとしたわけです」というのが開発の理由であった (江崎グリコ,2012)。

 1924年(大正13年),「丸ビル一の美人 警視庁に 捕らわる」という写真付きの記事が載る(12月10日)。「四谷のハート団」として有名な「不良少女」グループの「首領」である。

 「ヂャンダークのお君といはれ妖艶比ひなき不良少女」の林きみ子(19歳)は,「淀橋林靴店の娘」であり,武田女学校を出た後,日本邦文タイプライターの付属養成部を修了後,同社から丸ビル内の主張所に勤務をしていた。

 「其の持って生まれた美貌と粉飾を凝らした華美な姿は忽ち丸ビル中の評判となり丸ビル美人のスターとして限りない若い男を悩殺した。会社を辞めたのは多数の男と関係したとの噂があまり高く伝はった」からである。「当時机を並べて居た事務員達」は,「妖婦型といふでせう いい女です」と取材に答えている。

 「最近丸ビル某喫茶店を根城とし,新しく養成所を出る女を誘惑してはハート団に巻き込み,盛んに丸の内一帯にはびこってゐた東京市内に於ける有名な不良少女で,警視庁では常に同女の挙動を監視中」であった中,歳末の取り締まりの中で,「本郷某洋食店より警視庁に引致取調べ中である」という。「ヂャンダークのお君」の誘惑で不良少女に加わった「落合の乗馬服の不良少女」「丸ビル内某店員カルメンのおとよ」とともに34名の学生も調べられている。

 なぜ,林きみ子たちが,「ハート団」というグループ名にしたのか。彼女たちに触れた本(平山,2009)でも,明らかではない。ただ,恋愛,情熱,心などを連想させるハートという記号が,自分たちのアイデンティティを示すと考えたことは確かだろう。

 1925年(大正14年),関東大震災で被害を受けた聖路加病院再建のための「復興基金募集慈善大仮装舞踏会」が,2月14日のバレンタインの夜に帝国ホテルで開催されるという予告記事が載った(1月27日)。パーティーの翌日には,「恋をするなら今宵とまで西洋ではやかましい聖ヴァレンタイン祭日に當る十四日夜,帝国ホテルで既報の築地聖路加病院復興基金募集慈善大仮装舞踏会がすこぶる大仕掛に催された」と,その模様が2枚の写真とともに報道された(2月15日)。イギリス,アメリカ,フランス,イタリア,ベルギー,ドイツの各国大使の家族,三井,三菱を始めとする「金持階級のすべての家族連」が仮装姿でやってきた。バレンタインについての初めての大きな記事である。

 1926年(大正15年),「ハート美人」の広告が掲載される(『読売新聞』1月6日)。「ハート美人」とは,現在のハナキゴム株式会社の前身である小島ゴム工業が,1909年(明治42年)に日本で初めて製造販売したコンドームである(ハナキゴム,2012)。

 「理想的ゴムサック これさへあれば安心 青春的享楽の飽満 絶対的花柳病の予防」というコピーとともに,椅子に座る女性の後ろ姿の絵柄である。後ろ向きの椅子の背中には,ハートのマークが描かれ,その中に「ハート美人」という商品名が入っている。

 「ハート美人」の広告は,大量に出稿されていた。男女のダンス風景,女性がハートを捧げもって踊るシルエット,男女が背中で寄りかかっている図,外国女性がほほえむハートの写真,夫婦や男性同士が会話体でコンドームの効用を語り合うものなど,広告のコピーもデザインも,毎回,工夫されている。当時の人々は,「ハート」と聞けば,「コンドーム」という言葉が浮かんだはずだ。

 1926年(大正15年)には,コンドームの「ハート美人」と並んで,「ハート錠」という膣内殺菌新薬の広告もある(4月4日)。「性美,保健 殺菌力強き酸性瓦斯泡を発生し圧力により深部に透徹し殺菌と障壁の二重効果を有す花柳病予防に用ひらる」の本文があり,発売元は小島山泉堂である。

 ハートのイメージは,食品やファッションの業界でも活用されている。同じく1926年(大正15年)の「ハートビーフ」の広告は,「牛肉罐詰界の女王 精肉百匁 正味四十匁入り」というコピーの横に,着物姿の女性がハート形の缶を掲げ持つ(5月9日)。販売元は,東京食糧協会である。女性が持っているハート形の缶は,上下が逆のハートになっている。同年のハート商会の広告は,「御進物用子供服地無料裁断券」というキャッチフレーズが示すように洋服店が出稿したものである。子供が描いた絵のような線画だが,2人の子供はハート形のバッグをぶらさげている。

 1930年(昭和5年),「男女 浮気の虫をとらへ 心理学からハートの解剖」という記事が目を引く(『読売新聞』4月10日)。恋愛中の2人における「心変わり」について,男性と女性の心理の違いについて心理学者に取材をしている。

 同年,「ハートを弄ぶ女」という記事がある(『読売新聞』6月9日)。ハリウッド女優ナンシー・キャロルの写真が大きく扱われている。ハートが彼女の周りを囲んでおり,キャプションには「合計十七のハートを弄んでおります」と書かれている。

 これも同年,「これはしたり,モガの美は『鉱物的』?! ちゃうど彼女のハートが冷たいやうに・・・です」というファッション記事がある。化粧品,服地,靴下,靴など,鉱物的な原料から作られたものが少なくないとのアメリカ雑誌からの転用である(『読売新聞』11月17日)。「モガ」の「ハート」は冷たいという当時の人々の印象を下敷きにした見出しであるといえよう。

 1931年(昭和6年),「盗めばハートが躍る 大尉の娘さん」という盗難事件の記事が載っている。退役海軍大尉の18歳の娘が,女子大でこそ泥を働いて弟や妹にプレゼントをしていた事件で,「子供らしいやり口」のため,釈放したとある(『読売新聞』12月21日)。「ハートの解剖」「ハートを弄ぶ」「ハートが躍る」など,昭和に入るとハートという言葉の用法は,現代と差異がない。

 1933年(昭和8年),相変わらず,「ハート美人」の広告出稿は続く。「女のみの公開状」という記事体広告では,1段すべてを使って,記事と同じ文字組で,コンドームの効用を訴求している(『読売新聞』8月28日)。

 1935年(昭和10年),「ハートを探る こはいやうな器械出現」という記事が掲載される(『読売新聞』5月16日)。ノースウェスタン大学教授が開発した装置で,心臓の鼓動音を拡大し,スクリーン上に波として再現する。娘が実験台となっている場面が写真とともに紹介される。「将来は心理学研究所や警察などで犯人を調べる場合などに利用されるでせう」と記事は結んでいる。

 1936年(昭和11年)には,「優男の派手なお好み」という見出しで,マフラーの流行についての記事がある。模様が多彩で,「ハートにクローバー模様,水玉模様からゴルフ模様に至っても相當に女性的すぎるものがいま問屋の庫でニヤケてゐる」という(8月31日)。同年には,日本橋の喫茶店「ハート」が火事というベタ記事もある(12月9日)。ハートという言葉が市井の店名にも使われていることが分かる。

 1938年(昭和13年),「心臓丸」という心臓薬の広告が載っている(3月15日)。「動悸は発動機故障の兆ですから一刻も放任してはいけません」と本文はいう。丹平商会薬房の「心臓丸」は,ハート形のガラス瓶に入っていた(川原の一本松,2012)。

 その後,太平洋戦争の間は,ハートという言葉で検索して出現する記事や広告は減る。それでも定期的に出稿されているのは,「便秘の治療に・痔疾に特効」と書かれたハート形に十字をつけた「ハート十字浣腸」の広告である(1941年・昭和16年4月15日他)。

 

6. ハートと恋心

 戦後になると,新聞にハートが登場するのは,バレンタイン・デーの時節が多い。先駆けは,1957年(昭和32年)の田中澄江による「聖ヴァレンタイン・デー」というコラムである(2月17日)。「二月の商売不振に売り出されたおくりものの数々。たくましい商魂に利用され,ただ物に託しての幸福を願うような軽率さは,恋のまこととは程遠いようだ」と文章は結ばれる。

 チョコレートメーカーがバレンタインを商機と考え出したのは,1950年代からである。モロゾフ・不二家・メリーチョコレートカムパニーがキャンペーンを開始した。1960年代から,森永製菓・芥川製菓, 1970年代の後半から,江崎グリコ・明治製菓・ロッテが参入する(小笠原,1998;山田,2007)。

 1963年(昭和38年)の漫画「サザエさん」では,浴衣姿で散歩するサザエとマスオが,「婚約時代にいったあの高原!」「あの林!」「二人でほったあのラクガキ!」「あの木どうなったかなア」と婚約時代の高原を懐かしがる。すると「電柱になったわよ,あなた!」とサザエが驚く。矢の刺さったハートマークに,マスオとサザエとサインした落書きが残ったまま,電信柱として設置されるところに出くわすのである(4月22日)。

 電信柱の落書きは,相合い傘のように,ハートの下に名前が寄り添っている。現在,「相合い傘」で画像検索をすると,傘の上にハートが描かれている絵が多い。ハート形が,江戸時代後期に歌川国芳も描いていた相合い傘の戯画と混淆していることになる(浮世絵太田記念美術館,2012)。

 1968年(昭和43年),「おしゃべり辞典」という新語欄で,「それでバレンタインハートになっちゃったの」という表現が説明されている(『読売新聞』4月14日)。「バレンタインハートは,ハートにつきささったこと」とある。同年の文化欄には,ベネチアビエンナーレの日本からの出品作が「何ひとつ欠けていない–––ハートを除いては」と皮肉られたことが,「ハートを欠く芸術」と題されたコラムで取り上げられている(10月29日)。

 1971年(昭和46年),「星やハートでワンポイント・ルック 画一化をきらう若者たち」という流行に関する記事が掲載される(3月31日)。

 ちなみに星印は,古来,軍隊などで使われる記号であった。現在でも,高官の階級章などに使われている。中世のヨーロッパでは,反キリストを示し,悪魔の象徴として星印が使われたこともある。このようにハートとは,反対の立場にある星印であるが,ハートと星が一緒に使われるときは,パーティー,みんな一緒,幸福,幸運などを表す (Liungman,1991:230)。星とハートが同居するファッションにも,そうした意味が隠されているのだろう。

 1972年(昭和47年)のバレンタイン直前には,雑誌などでは「この日に手づくりのお菓子を贈りましょう」という特集が組まれるが,菓子店に取材すると,「バレンタイン・デー用の既製品,たとえばハート型のチョコレートなどをお買いになる人がほとんど」との記事が載っている(2月10日)。

 1970年代以降,新聞記事検索において,バレンタインの記事が急激に増加する。チョコレートメーカーにおいて,後発企業が,1970年代後半からバレンタイン市場に参入したという事実と照応する。

 1973年(昭和48年),「日赤ブルーハート・スイミングクラブ」という見出しの記事が見られる。「肢体不自由児の子どもたちの水泳同好会」で,日赤東京支部が運営している(9月9日)。ハートに何らかの修飾語がついた記事は,これが初めてである。後述するように障害者への支援などに関わる運動体が,ハートを軸に形容詞などを付加することが増えていく。

 1976年(昭和51年),「ハート型のバレンタイン・ケーキのつくり方」という記事が載っている(2月8日)。家庭で簡単にできるスポンジケーキの紹介である。

 1977年(昭和52年),一面のコラム「今日の問題」は,「バレンタイン・デー」を取り上げている(2月8日)。昨今の状況を「本来の意義を顧みることもなく,ただ形だけが商魂カレンダーに組み込まれて行くのでは,伝承としての価値も失われてしまうだろう」と「菓子メーカーの商業主義」を批判する記事である。

 1977年(昭和52年),一面のトップに「八重洲地下街に青酸チョコ」「バレンタインデーねらう」という大見出しの記事が載る(2月27日)。2月14日,東京駅八重洲地下街にチョコレート40箱が置かれているのを通行人が交番に届け,その後,江崎グリコ東京支店に引き渡した。同年の1月から2月にかけて青酸コーラ事件もあったので,支店は研究所に送って,内容を確かめたところ,青酸化合物が混入されていたというものである。

 記事には,「バレンタインデー」について,「最近,わが国では,小,中学校などで女の子が好きな男の子にチョコレートを贈ることが大流行している」と説明が載っている。チョコレートの箱の裏側に「オコレルミニクイニホンシンニテンチユウヲクタス」(奢れる醜い日本人に天誅を下す)と書かれていたことで,致死量の青酸化合物を使った「計画的犯行」であることが明らかになった。バレンタイン=チョコレートという連想は,「劇場型犯罪」に「活用」することが可能なほどに広く浸透していたことが分かる。

 同じ1977年,アメリカのニューヨーク州は,ミルトン・グレイサーのデザインによる「I (ハート記号)NY」キャンペーンを開始した(Kemp,2012:108)。ハート形が,loveを意味する「表意文字」として,市民権を持つに至った記念すべき事象である。

 1978年(昭和53年),「きょうバレンタインデー」と題された家庭欄の記事が掲載されている(2月14日)。大きなハートの中に「チョコレートの話」という見出しがある。翌日も,「バレンタインデー決算」という記事が載っている(2月15日)。「 “愛”はサイフのヒモより強かった」という見出しで,写真にはバレンタインキャンペーン用のハートの看板が見える。

 1979年(昭和54年)には,「チョコメーカー ことしも あの手この手」(2月9日)ということで,メッセージを書き込めるハート型ペンダント付などが取り上げられている。

 ハートを連想させるバレンタインデーは,1970年代末には,日本社会に定着した。1980年代以降は,例年,2月14日の前になると,バレンタイン関係の記事が載っている。以下,1980年代,1990年代におけるバレンタインデーを巡る状況をまとめておこう。

 1980年代(昭和55年〜昭和64年)においては,「バレンタイン狂想曲」(1980年・昭和55年2月5日)という記事が示すように,商業主義的なバレンタインデーが過熱化し, 2つの方向に分化していく。

 ひとつは,月並みになったハートの形に対して,チョコレートの形態のバリエーションを生み出した。おっぱい型,鉛筆型,電卓型などが開発された。あるいは,チョコレート以外の商品をギフトに活用していく流れもあった。ハート形の瓶に入った洋酒,ハート形のネックレス,ハート形のせんべい,ハート形のピザなども登場する。

 もうひとつは,バレンタインデーの原点に帰ろうという動きである。「バレンタインデー “脱チョコ”を考えてみませんか」(1984年・昭和59年2月14日)の記事は,「他人へのいたわりの日に,たとえ手紙一本でもそれが愛の分け合い」というメッセージを投げかける。「聖なるチョコと女ごころ」(1985年・昭和60年2月13日)という見出しの記事には,「ハート形のむくのチョコの王座は揺るがない」とある。

 1980年代というバブル経済の膨張していった時代,最終的には175万円のハート形の「金の延べ板入りチョコレート」まで生み出した(1989年・平成元年2月5日)。

 そして,1990年代(平成元年〜平成11年)に入る。バブル経済の頂点に当る1990年には,生花,和菓子,そして,ブタの心臓スモークといったきわもの商品もギフトに加わる。

 「バレンタイン商品混戦」(1990年・平成2年2月13日)と題された記事によれば,「リボンをつけたブタがウィンクして『悪魔のようなあなた,わたしの本物のハートをかじって』とささやきかけるイラスト」がついた商品であった。同年は,ペット用のバレンタインギフトコーナーまで開設されている(2月10日)。

 1992年(平成4年)には,バブル経済の崩壊の中で,「バレンタイン メーカー燃えず 14日過ぎればただのチョコ」(2月4日)といった記事が掲載される。ハート形のような特殊用途の商品は,通常は売れないので製造をしないところが増えたのである。

 経済が低迷する中で,チョコのような物質的なもののデザインとしてのハート形の記事は減少する。かわって,新聞にハート形が登場するのは,絵馬のような願掛けとか,自然物の中に「ハートを発見した」という場合が増えていく。

 

7.ハートと幸運

 2000年代,バレンタインデーにおけるハートは,「幸運を願う」ための記号として機能するようになる。その先駆けは,1989年(平成元年)に京都の地主(じしゅ)神社が,「ハート柄のお守り」「繭玉にキューピッド」を販売したことにある(7月16日)。神社におけるハートを扱った記事は,2000年代に増加する。

 2000年(平成12年),近江鉄道はミレニアムラブを願う「赤いハートを刺繍したお守り切符」を売り出す(2月2日)。2002年(平成14年)の記事は,福岡市の愛宕神社が,1997年(平成9年)からハートをちりばめた「恋愛成就絵馬」を作っていると報道する(2月15日)。同記事によれば,「バレンタインデーはキリスト教が起源だが,同神社は『もはや国民的行事として定着しており,違和感はありません。思いを結実させることが大切です』」と語ったという。

 三越鹿児島店は,バレンタイン向けに「お願い神社」を設置して,「ハート形の神の絵馬」を用意した(2004年・平成16年2月13日)。「チョコより固い愛」ということで,奈良市の春日大社内夫婦大國社では,「ハート形の絵馬が鈴なり」との記事もある(2006年・平成18年2月14日)。

 福岡市筑後市の恋木神社は,バレンタインが近づくと参拝客が増える。ピンクの恋みくじを「ハート形に結ぶための特設台も登場」した。デパートもこの人気にあやかり,岩田屋久留米店は,ミニ鳥居や絵馬所を設けた(2009年・平成21年2月1日)。

 このように「幸運を願う」ときにハート形を使うという記事が増える。同時に,自然物にハート形を見つけて「幸運の知らせ」と報ずる記事も目立つようになる。

 紀元前1046年頃,周が興ったとき,瑞兆として鳳凰が現れたというが(久富木,2004:4),自然界に「良き兆し」を見いだそうとするのは,古くからある心性である。ハート形は,おめでたいものの表象である吉祥図案になったといえる。吉祥図案とは,元々中国に由来する考え方で,「その形式には,人物(たとえば財神や子宝を授ける観音など)をはじめ,動物(たとえば龍や鳥など),植物(たとえば瓢箪や牡丹など),用具(たとえば八宝や如意など)及び符号(たとえば太極や寿の字,雲などの紋様)がある」(尹,2006:23)とされる。ハート形は,単に恋愛の記号ではなく,幸運を願う吉祥図案だからこそ,メールの絵文字としてもこれだけ広く使われるのであろう。

 自然界にハートを「発見」するのは,1995年(平成7年)に掲載された「恋する?ハート型のシイタケ試作に成功 伊豆長岡」(2月12日)という記事が先駆けである。2005年(平成17年)には,「大阪府吹田市の竹やぶで,断面がハート形をした竹が見つかり,吹田市立花とみどりの情報センターが『バレンタイン竹』と命名し,展示を始めた」(2月10日)とある。

 2007年(平成19年)には,京都市動物園の「アミメキリンの親子」(7月31日),長野県飯田市「くり」(7月31日)、愛知県知多市の「ジャガイモ」(11月6日)が記事になった。動物においては,身体のどこかにハートマークがある,植物では,そのものの形がハートに似ているといった事実が「良いことの印」として受け止められる。

 2009年は,福岡市海の中海浜公園の「子牛」(1月4日) ,神奈川県藤沢市の「牛」(2月7日), 北海道根室市の「乳牛」(2月14日),「競走馬マサノウイズキッド」(3月6日)など,牛馬が多かった。

 東武動物園の「ミミズク」(2月8日),秋田県大館市の「チワワ兄弟」(8月9日・21日) ,ぐんま昆虫の森「カメムシ」(2月13日)などの記事もあった。植物では,横浜市の「ブドウ」(1月22日), 福岡天神百貨店の「スイカ」(5月8日),岐阜県羽島市の「輪切りにするとハート形や星形のきゅうり」(7月5日)がある。

 2010年以降では, 静岡市立日本平動物園の「キリンの赤ちゃん」(3月1日), 羽村市動物公園「キリンの母子」(12月15日), 京都市三室戸寺の「アジサイ貝」(6月16日) ,愛知県常滑市の「ハート形の赤い実がなるハートツリー」(8月22日)があった。松江城天守閣の「木目」, 京都府南山城村恋志谷神社の「石」といった変わり種も報道されている。

 何かがハート形をしているという「発見」は,地方版の記事になりやすい。1980年代後半からデータベースに地方版も収録されるようになったことが出現頻度を高めた面はある(『朝日新聞』の場合)。それにしても,瑞兆が発見された場所に,多くの「観客」が集まるという事実は興味深い。

 

8.ハートフルへ

 1980年代後半から,企業・行政・福祉施設・NPOなどが「ハート+○○」という形で,ハートという言葉を利用しだした。多くの場合,マークとしても,ハートの図像を使用している。

 ハートにつけ加えられる言葉としては,まず,商品・サービスの名称がある。1988年(昭和63年)に登場した単身者と家族を結ぶ新サービスと銘打たれた「ハート郵パック」(9月7日)は先駆けといえる。「ハートを運ぶ」という意味が込められているのだろう。高知市の超低床路面電車「ハートラム」(2002年・平成14年3月27日)は, 「ハート+電車」の意味であり,これも広義でいえば,「ハート+商品・サービス名」である。

 ハートに場所を示す言葉がつけ加えられることは多い。「ハートタウン中区」(横浜市中区の親切運動 1989年・平成元年2月5日),「ハートビレッジ」(千葉県蓮沼村老人保健施設 1990年・平成2年4月11日),「ハートランドとくしま」(徳島県の精神障害者支援の市民団体 1999年・平成11年9月25日), 「ハートセンター文化祭」(長崎市心身障害者団体連合会のイベント 1999年・平成11年12月6日),「ハートランド推進財団」(近江八幡市市政50周年のエッセー募集 2004年・平成16年10月14日)など,「タウン」「ビレッジ」「センター」「ランド」などが使われている。いずれも,ハートのこもった場所であると主張したいのだろう。「ハートピアファコム館」(横浜博覧会パビリオン 1988年・昭和63年9月30日)のように,ユートピアの末尾のピアを借りて, ハートのある場所というイメージを生み出そうとする場合もある。

 「ハート+つながりを表す言葉」という構造も見られる。「ふれあいハート・エイズ館みなまた」(熊本県水俣保健所内にエイズ資料館 1997年・平成9年12月5日),「ハートライン山口」(山口県の被害者支援組織 2000年・平成12年9月29日),「ふくし・ふれあいハートショップ」(宮城県の障害者物品販売イベント 2000年・平成12年12月10日),「ハートネットふくしま」(郡山市のNPO 2003年・平成15年2月3日),「なまはげハートタッチ作戦」(秋田県警少年課の少年非行運動 2003年・平成15年4月10日)など,「ふれあい」「ライン」「ネット」「タッチ」が,ハートの前または後ろに付けられている。 

 ハートに形容詞を添加する場合もある。「さわやかハートちば」(千葉県庁・県民の運動1989年・平成元年8月23日/12月9日),「スウィートハート・パーティー2003」(福井市の未婚男女出会い企画 2003年・平成15年8月30日),「ジェントルハートプロジェクト」(いじめ問題のNPO 2006年・平成18年10月15日)など,「さわやか」「スウィート」「ジェントル」といった形で,ハートの内容が形容されている。

 「ハート+商品・サービス名」「ハート+場所」「ハート+つながりを表す言葉」「ハート+形容詞」などの例をあげたが,最も多く見られたのは,「ハート+フル」の組み合わせであった。2001年(平成13年),茨城県において「ハートいっぱい推進事業」(5月24日)が展開されたという記事があるが,ハートフルとは,「ハートいっぱい」ということだろう。

 「ハートフル広島・山口」(JR西日本広島支社のガイドブック1989年・平成元年10月17日)が,ハートフルの記事としては最初である。その前年に『ハートフルに遊ぶ』(一条,1988)という本が,ベストセラーになっているので,それがきっかけとなった可能性はある。その後,以下にまとめたように記事の掲載時期としては,1990年代後半から2000年代前半に集中している。

 「ハートフル大阪」(国際集客都市大阪 OsakaのOはハート形 1997年・平成9年9月4日),「ハートフル110番」(和歌山県が障害者の悩みに答えるために設置 1998年・平成10年9月2日),「ハートフル相談員」(新潟県が県内中学に設置 1998年・平成10年9月7日),「ハートフルライン」(香川県警による性犯罪被害相談ダイヤル 1999年・平成11年9月7日), 「ハートフルロード推進事業」(岡山県によるバリアフリーの点検作業 1999年・平成11年9月17日),「犬上ハートフルセンター」(志賀県多賀町の老人ホーム 2000年・平成12年3月10日),「浙江省ハートフル福井」(福井県と浙江省の障害者交流イベント 2000年・平成12年11月2日),「ハートフルフェスタ福岡2000」(福岡県の人権啓発イベント 2000年・平成12年11月18日),「ハートフルデー」(神戸ルミナリエの障害者向けの特別日 2000年・平成12年12月10日),「ならハートフルコンサート」(奈良県の障害者による演奏会 2000年・平成12年12月22日),「ハートフルスクエアーG」(岐阜駅高架下の開館1周年記念行事 2003年・平成15年1月27日),「セラピードッグ・ハートフルセミナー」(福岡市の障害者向けイベント 2003年・平成15年11月4日),「ハートフルアート展」(精神障害者の作品展示 2003年・平成15年11月20日), 「ハートフルステージ2004」(愛知県三好町の障害児の発表会 2004年・平成16年8月30日), 「ハートフルプロジェクト」(みずほ銀行の高齢者障害者妊婦への顧客対応 2006年・平成18年8月15日)。

 「heartful」は,通常の英語辞書には出ていない。新語などにも詳しい大辞典では,「heartfelt」と同義であるとされている(The Merriam-Webster,2012)。「heart+ful」ということで,「心からの」「真情に溢れた」といった意味になる。この大辞典のネット版は,一般の人々が書き込みをできるが,宮城県仙台市在中のネイティブは「日本ではごく普通に使われる。私が思うに,heartfeltを意味している」(2011年9月18日)とコメントしている。

 別のネット辞書では,「Have a heartful White Day.のように季節の折々に日本で使われる英単語であり,とくにマーケティングで使用されるが,意味はあいまいである」という(Urban ictionary,2012)。日本人の発音では,「hurtful」とネイティブには聞こえることがあり,「傷をつける」「有害な」など,逆の意味になるから注意が必要であるともいわれる(ニコニコ大百科,2012)

 上記の使用例から見ると,ハートフルという言葉は,「当組織または施設は,ハートに満ちた対応を観光客・障害者・被害者・高齢者・妊婦にしています」というメッセージを伝える。同時に,その組織や施設に関わるすべての人々に,観光客・障害者・被害者・高齢者・妊婦などへのホスピタリティや優しさを求めている。

 アーリー・ラッセル・ホックシールドは,「感情の交換を統制する権利や義務の意識を作り上げることによって感情作業を導く」ものを感情規則と呼んだ(Hochschild,1983=2000:65)。感情規則が発動される文脈は,「〜ならば,〜を感じて当然→感情を感じたならば〜して当然」(山田,1997:83)と要約できる。

 この文脈に当てはめるならば, ハートという記号は,「ハートフルという言葉を見るとか,ハートマークを見たならば,他者とくに弱者への優しさを感じて当然→感情を感じたならば彼らを支援して当然」という役割を担っている。現代におけるハート形は,こうした感情規則を思い起こさせるための「合図(rule reminder)」(Hochschild, 1983 =2000:65)ともいえよう。

 なお,2002年(平成14年)に改正された通称「ハートビル法」(高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律)は,ハートフルとビルディングの合成語である。その後,交通バリアフリー法と統合されて,通称「バリアフリー新法」(高齢者,障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律)となっている。

 

9.ハートの構造

 長い時を経て,心臓は,「クリーンで図式的なハート」(Young,2002=2005:234)に変身した。3次元の血の滴る臓器は,2次元の単純な記号になり,いまや世界のどこにおいても理解される。

 「グラフィックデザインは,視覚的に安定しており,慣行によってみんなに分かち持たれた象徴システムに依拠している」(Drucker and McVarish, 2009:7)といわれるが,ハート形は星形と並んで,安定したデザインとして世界的に定着している。

 チャールズ・サンダース・パースは,「記号あるいは表意体とは,ある人にとって,ある観点もしくはある能力において何かの代わりをするものである」(Peirce,1932=1986:2)として,類似記号・指標記号・象徴記号に分類した(Peirce,1932=1986:12-13)。

 ハート形は,心臓,植物の葉,聖杯などに似ているという点で,類似記号としてのありかたを起点としている。そして,「かかわりを持つ対象により実動的に影響を受けることによってその対象にかかわるような記号」(Peirce, 1932=1986:12)である指標記号としても機能している。例えば,ハート形に稲妻があれば,AED(自動体外式除細動器)が近辺にあることを指し示すし,ハート形に加算記号がついていれば,そのマークを付けている人は,内部障害者・内臓疾患者ということになる。

 いうまでもなく,心臓が辿った記号化の特徴は,臓器を越えた抽象性を獲得して,象徴記号となった点にある。象徴記号とは,「類似性の連続的関係が断ち切られ」(Bougnoux,1998=2010:57)て,記号と対象の関係性そのものを学ぶ必要がある記号をいう。現代の日本において,象徴記号としてのハート形が意味するものは,「心」「恋愛」「博愛」「幸運」という4つの方向性に分類できるだろう(図表1参照)。

 まず,ハート形は「心」を意味する。「臓器を移植されるということは,自分のアイデンティティに変化が生じるのみならず,移植された臓器のアイデンティティをわがものにすることなのだ」(Sylvia, 1997=1998:161)とは,心臓移植を受けたレシピエントの言葉である。このレシピエントは,心臓がドナーの感情の動き方を記憶しており,移植をされたレシピエントに影響を与えることを自らの体験から書いている。重要なことは,その当否ではなく,心臓そのものが「心」の発生する場であると思う人が,現代でも多いという事実である。ハート形にもそのイメージは継承されている。ハートの記号は,「心温かい(warm-hearted)」という言葉が示すように,人の思いを連想させる。ハート形が象徴するものを最も広くいい表すなら,「心」になる。

 ハートは,世界的に,「恋愛」を指し示す記号にもなった。バレンタインデーに,手作りで作られるハート形のチョコレートに込められた思いである。ちなみに,逆説的に「ハート=恋愛」を示す事件があった。2006年(平成18年)の年初,女性職員に約10回,ハートの絵文字をつけたメールを送った徳島大学教授がセクシュアルハラスメントとして戒告処分になった (『朝日新聞』1月21日)。ハートは,「恋愛行為」を誘う記号として機能していると判断されたのである。

 ハートは,「恋愛」という獲得する愛を象徴するとともに,「博愛」とでもいうべき与える愛も象徴する。本稿で見てきたように,心臓がハートへと記号化の過程を辿った背景としてキリスト教の影響は大きい(いまの日本において,そうした背景は忘れ去られているが)。

 スウェーデンの神学者ニーグレンは,エロースとアガペーに分けて,愛を考察した(Nygren, 1953英語版・原著はスウェーデン語=1954)。ドイツ語版を読んだ波多野精一は,エロースについて,「自己性の拡張によって成立つ」とし,「それはいかなる対手においてもいつも自己を見出す。他者はいつも第二の自己である」(波多野,1943=2012:154)と説明している。一方,アガペーについては,「他者を原理とし出発点とする生の共同である」(波多野,1943=2012:162)と解釈する。

 ハート記号が示す愛の方向である恋愛と博愛は,まさにエロースとアガペーに対応する。先に触れた行政機関などが多用する「ハートフル」という言葉は,利他的な「博愛」の記号として機能している。あるいは,利他性を引き出す感情規則の合図として働いて欲しいと「ハートフル」を標榜する組織は願っていると想定できる。

 ハートは,「幸運」を期待する記号にもなった。良縁を願う絵馬,そして自然界にハートを見いだすと瑞兆とみなすことは,いずれもハートが「幸運」を象徴することを示す。愛の2方向との関連でいえば,前者は自身の幸を希うということで「恋愛」との関わりがあり,後者は社会の安寧を願うということで「博愛」との関わりが深い。

 ハートが「幸運」をもたらす記号になり,絵馬や瑞兆となったという事実は,先述した「無原罪の御宿り」の聖画が,安産祈願のお守りやお札の役割を持つようになった歴史を思い起こさせる。そこに見られるのは,日本化されたハート記号である。現代の日本においては,バレンタインチョコも,ハートの絵文字も,ハートフルという言葉も,ある種の御利益を願う「お札」のようなものなのだろう。

 桂三枝は,林真理子との対談で「ハート(原文はハートの絵=引用者)マークゆうのは怖いなと思いますね。挨拶代わりだとしても,女の人から来るメールについていると,『気,あんのちゃうかな』なんてね」(桂・林,2012:345)と語っている。まさに,「現世利益」を巡って,ハート記号の解釈ゲームが展開されているのである。

 

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