ギュスターヴ・フローベール『感情教育』
今回は19世紀フランスの作家、ギュスターヴ・フローベールの『感情教育』を紹介する。この作家の作品は以前『素朴なひと』という短編を紹介していて、今回で二回目になる。フローベールといえば様々な技法が随所にちりばめられた、散文芸術の金字塔である『ボヴァリー夫人』が最も有名で、僕も大好きなので、次は『ボヴァリー夫人』と思っていたのだが、今回『感情教育』を3年ぶりくらいに読み返してみて、いまは圧倒的にこっちが好き。
で、なんでそんなに惹かれるのか考えてみたが、やっぱり月並みだけど小説の世界に深く入り込めたから、ということになると思う。じゃあ、なんでそんなに深く入り込めたのかといえば、フローベール一流の描写が下支えされ、多彩な人物が自由闊達に動き回るその人間模様が面白いから、というのが、一応の答えだけど、他の小説にないこの『感情教育』の特徴も、その❝面白い❞の理由になっていると思う。それは当時の社会状況が街の描写や登場人物の政治信条とともに物語に有機的に組み込まれている点で、つまり歴史小説としての側面が『感情教育』を一層素晴らしいものにしている。それはこういう自伝的な小説としては非常に珍しい特徴で、僕は他にこんな小説を知らない。小説というのはどんな小説でも個人の立場からの世界の見え方を具体的な事柄を積み重ねて示すものだが、当たり前だけど個人というのはいつの世の中でも社会に属する。この小説はあくまでフレデリックという青年の視点に立った物語でありながら、その背景として自然に歴史背景が描かれることで、背景がなければぺちゃんこで、よく見えていなかったであろう人間のありようを、立体的にちゃんと描くことに成功している。
実際、フローベールはこの小説でこの時代を生きた人の精神を描きたかったのだという。解説からフローベールが知り合いの女性にあてた手紙を引用する。光文社文庫、太田浩一訳、『感情教育』下巻427ページ、428ページ。
一か月まえから、パリを舞台とする現代風俗をあつかった小説に取りくんでいるところです。自分と同時代の人びとの精神史を書きたいと願っていますが、「感情の」歴史といった方がより適切かもしれません。恋愛の書であり、情熱の書ですが、こんにち存在しうるような情熱、つまり不活発な情熱の書なのです。
精神史を描きたいとは凄い! 『感情教育』に用いられている技法は素朴なものだが、目指すところは『ボヴァリー夫人』より遥かに野心的だいえると思う。
とまあ、『感情教育』の良さを概略的に述べたが、小説の良さは情景描写を読まなければ何も伝わらない。ということで、引用に参りましょう。まずは主人公フレデリック18歳のとき、妻子がありながらもやんちゃな美術商のジャック・アルヌーに連れられて向かった仮装パーティーの模様。光文社文庫、太田浩一訳、『感情教育』上巻274ページ、275ページ。
フレデリックは壁ぎわにしりぞいて、目のまえで始まったカドリーユをながめた。
かつてのヴェネツィアの統領を思わせる、緋色の絹の長衣を着たハンサムな老人が、マダム・ロザネットとおどっている。女のほうは緑の燕尾服にニットの半ズボン、それに金の拍車のついたやわらかな革のブーツを身についていた。ふたりの向かいにいるカップルは、トルコの長剣を帯びたアルバニア人と、青い目の、乳のように色の白いスイス女だ。女はむっちりとした身体つきで、ワイシャツに赤い胴着という姿。オペラ座の端役をつとめる背の高い女が未開人に扮し、ブロンドの髪を膝のうしろまで垂らして人目をひいている。褐色のレオタードに、革の腰巻をまとっただけという姿で、ガラスのブレスレットをはめ、孔雀の羽根をたばねて高く立てた金ぴかの王冠をかぶっている。その正面にいるのはプリチャードをきどった男で、ひどくだぶついた黒い燕尾服を着こみ、嗅ぎ煙草入れを肘でたたいて拍子をとっている。ワトーの絵にでてくるような小柄な羊飼いの男は、月光を思わせる青と銀の衣装を身につけ、先端に鉄具のついた牧杖を手にして、それをディオニュソスの巫女のテュルソスにうちあてている。巫女は頭に葡萄の冠をいただき、左の脇腹に豹の毛皮をまきつけて、金色のリボンのついた編みあげ靴をはいている。その向こうには、鮮紅色のビロードの短い上着を着たポーランド女が、薄地のペチコートをひらひらと揺らし、パールグレーの絹の靴下と、白い毛皮でふちどった薔薇色のハーフブーツがそのしたにのぞいている。女がほほえみかけているのは、聖歌隊の少年に扮した四十がらみの腹のでた男だ。片手で白い祭服の裾をからげ、もういっぽうの手で赤い縁なし帽をおさえながら、男はやけに高くとび跳ねている。
ずいぶん長く引用したが、この場面はあと1ページほど続く。今でもそうだけど、19世紀の小説はパーティーの描写が作家の腕の見せ所で、フローベールはやっぱりというか凄い。細々とした衣装、その雑多な色が入れ代わり立ち代わりフレデリックの眼前に現れる様がよくわかる素晴らしい描写。
上巻からはもう一つ、ロザネットという女性と競馬場にデートに行った帰り、馬車に乗っている場面を引用する。光文社文庫、太田浩一訳、『感情教育』上巻476ページ。
ときおり、馬車と馬車の間隔がつまりすぎて、何列にもわたっていっせいに停止することがある。そうしたとき、車上の人たちは顔と顔をつきあわせることになり、たがいにじろじろと見つめあった。紋章入りの車体のへりから冷淡なまなざしが群衆にそそがれ、辻馬車の奥では羨望にみちた目が光っている。傲岸不遜な顔には、批難がましいうす笑いでやり返す。あんぐりと開いた口は愚かしい讃嘆をしめしている。道のまんなかをぶらついている人が、慌ててうしろにとびのく姿がそこかしこに見うけられる。停車中の馬車のあいだをぬって、たくみに駆けぬけていく騎馬の男をよけるためだ。しばらくして、馬車の列がいっせいに動きだす。御者が手綱をゆるめて鞭を振りおろすと、活気づいた馬は轡鎖(くつわぐさり)をゆらして口から泡をとばす。夕陽のさしこむなか、しめった馬の尻や馬具からもうもうと湯気がたちのぼる。夕陽は凱旋門のしたをくぐって、ちょうど人の背丈ほどのあたりに赤茶けた光をのばし、車輪の轂(こしき)、扉の取っ手、轅(ながえ)の先端、背帯をとおす小鞍の輪などをきらめかせていた。シャンゼリゼ大通りは、たてがみ、衣服、人の頭がうねうねとつらなる大河のようで、その両側に雨にぬれてかがやく街路樹が立ちならび、まるで二面の緑の壁のようだ。見あげれば、繻子のようになめらかな青空がところどころにのぞいている。
ここもいいところ。さっきの場面はフレデリックの視点からあちらこちらに目を向けている感じだったけど、こちらはもっと高い位置から全体を俯瞰している。この小説は三人称である特性を生かし、こういう風にフレデリック(や他の人物)にぐぐっと近寄った描写と全体を俯瞰した描写のコントラストが、小説のグルーヴを作っていると思う。
最後にもう一つだけ、フローベールが自然を描写しているところを引用する。革命騒ぎやそれに伴う人付き合いに嫌気がさしたフレデリックはロザネットと一緒にパリの郊外、フォンテーヌブローに向かう。光文社文庫、太田浩一訳、『感情教育』下巻199ページ、200ページ。
森のはずれには、陽がさして明るい場所もあるが、その奥は暗がりのなかにとり残されたままだ。前景はまるで黄昏どきのようにうす暗いのに、遠方には菫色の靄と白っぽい光がひろがっていることもある。真昼になると、太陽は一面の緑葉のまうえから照りつけ、あたりに光を撒きちらし、枝さきに銀の滴をたらして、芝生にエメラルド色の筋をひき、散り敷いた枯葉のうえに金色の斑点を投げかける。顔をあげると、木々の梢のあいだから空が見えた。なかにはとてつもなく高い木もあって、さながら族長か皇帝のようなただずまいを見せていたり、たがいの枝さきを触れあわせ、長い幹をならべて凱旋門のような形を呈していたりする。根もとから斜めにのびて、倒れかかった円柱のような木もあった。
こうした太い垂直の行列が左右に開いた。すると、巨大な緑の波が不揃いな浮彫りをえがきながら山間までつづいている。そこに、べつの丘の頂きが前方にせりだしているのが見える。そのふもとには黄金色の平原がひろがって、ぼんやりとした蒼白い地平に没していた。
高台にふたりで身を寄せあって立ち、かぐわしい風を吸いこむと、全身に力がみなぎり、わけもなく歓びをおぼえ、自由な人生を謳歌しているのだという誇りのようなものが心に芽生えるのを感じた。
多種多様な樹木が変化にとんだ景観をつくりあげていた。白くすべすべした樹皮をもつ橅(ぶな)は、高所の枝葉を輪のようにからみあわせている。梣(とねりこ)の青緑色の枝はゆるやかな曲線を描き、四手(しで)の若木のあいだに立つ黐(もち)の木は、あたかもブロンズでできているかのようだ。ついで目に入るのは、ほっそりとした樺(かば)の列で、哀愁をおびた姿でこうべを垂れている。パイプオルガンの管のように整然とならぶ松は、たえず左右に揺れうごき、まるで歌をうたっているように見える。ごつごつした巨大な小楢(こなら)の木もいくつか見うけられる。それらの大木は身をよじりながら地面からのび、たがいに絡みあって、トルソーのような幹をしっかりと据え、怒りに凝り固まった巨人族のように、裸の腕をひろげて絶望の叫びや猛りくるった威嚇を投げつけあっている。沼のうえには、なにやらいちだんと重苦しい気配が、けだるい熱気のようなものがただよい、茨の茂みのあいまから水面がくっきりと浮かびあがって見える。狼が水を飲みにくる岸は地衣類に覆われ、魔女の足に踏まれて焼けこげたかのように、硫黄そっくりの色をしている。たえまなく聞こえてくる蛙の声に、空を飛びまわる鴉の鳴き声が呼応する。やがてふたりは、あちこちに伐りのこした若木があるだけの、似たような空き地をいくつか通りぬけた。鉄具の、つづけざまに力強く打ちつける音がひびいてくる。丘の中腹で石切工の一団が岩を掘っているのだった。周囲の岩はしだいに数を増し、とうとう見わたすところ岩ばかりになってしまった。家のように立法形をしたもの、舗石のように平たいものなどが、たがいに支えあったり、前方にせいりだしたり、ひとつに合わさったりして、どこか消滅した都市の、見る影もない異様な廃墟のような姿をさらしていた。けれども、乱雑をきわめる岩石群は、むしろ火山や、大洪水や、知られざる天変地異を思わせた。これらの岩は天地の開闢(かいびゃく)以来ここにあって、世界の終わりまでこのまま残るだろうとフレデリックが言うと、ロザネットは顔をそむけ、「頭がおかしくなりそう」と言って、ヒースを摘みに行ってしまった。
めっちゃ長く引用した。切りどころがわからなくなってしまった。これだけ描写を積み重ねて、最後で『これらの岩は天地の開闢(かいびゃく)以来ここにあって、世界の終わりまでこのまま残るだろう』と書かれたら、誰だってそりゃそうだろうなあと思う。説得力がすごい。ということで、今回はここまで。ストーリーにろくに触れなかったけど、この小説、ストーリーも面白いのです。まだ読んだことがない人も、フランツ・カフカが『ボヴァリー夫人』より好んだという『感情教育』、是非とも。おススメです!
次回は一か月くらいしたら、何か紹介するつもりです、よろしく。かなり長かったけど(そして引用だらけだけど)、最後まで読んでくれた方ありがとうございました。
よかったらサポートお願いしやす!