3/8 ネタバレ・シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 感想
※ネタバレふんだんにします。
※何回か見る予定なので、見る度にブラッシュアップします。
※今は書きなぐり状態です。
3/8 初回観劇
3/9 2回目観劇、追記
『#シン・エヴァンゲリオン劇場版』
皆大人になったんだなあと。"エヴァ"を作った庵野監督とエヴァを観ていた"自分達"を救済し決着を着けるにはあの終わり方しか無いと思えた"終劇"そして庵野監督のこのコメントに全てが集約してる。ただ一つだけ言いたいのは貞本版エヴァの最終巻は読むの必須。 https://t.co/4p2JLryeD6
引用。(https://twitter.com/taketakenana/status/1368759375519649801?s=19)
これに尽きます。
考察などではなく、キャラ描写やキャラの心情、庵野監督の意図について書きます。
前提条件: 私は、庵野監督が、基本的に、大好きです!
Aパート:庵野監督こんなの描けるんですか
第3村のシーンから庵野監督の精神状態を見る
鈴原トウジに始まり、みんなが、少なくとも人類の何人かは生きていることに泣いてしまった。
必死に生きる人々、希望を胸に生きる人々を庵野が描けたことにびっくりした。
というか本作の感動ポイントの7割はそこ。
庵野はこれまで母性を題材にすることはあっても、「新しい命」のような純新無垢な人間の「生誕」を描くことはほとんどなかった。
あくまで、彼の作品は母の在り方に注目がおかれていた。
そんな中で、赤ん坊や妊婦のような「生誕」に目が向けられることに驚いたし、安心したし、これまでのエヴァと違うことを最初から確信できた。
私自身が、うつ病を脱出しつつあるという状況が、庵野のこの変化とシンクロするかのごとく、重ね合わせてみることができた。
こんな綺麗な青空も、綺麗な命も、そして泥臭い人間も、完全な鬱状態だったら描けない。
だから庵野が、メンタル復活していること、この映画をぜったい幸せな結末にするこ気があるのを理解した。
「ムラ」「家父長制」のロールモデル(セカイ系の自己否定)
鈴原(旧姓 洞木)ヒカリの父親、多分いままでのエヴァだったらこんなこてこてのキャラクター出てこなかったよなあって思った。
あんまこういうこと書きたくないんだけど。
セカイ系というサブカルにおけるカテゴライズがある。
セカイ系とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群。
「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、
「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。
セカイ系の図式に登場する「きみとぼく/社会領域/世界の危機」という3つの領域は、それぞれ「近景/中景/遠景」(中略)といった用語に対応させて言及されることもある。
(Wikipedia セカイ系より引用)
私はそもそもセカイ系とかいうカテゴライズが死ぬほど嫌い。
だからこういう話は本当にしたくない。
けど、セカイ系=ポストエヴァンゲリオンの作品であることから、触れなきゃいけないと思った。
今回、洞木ヒカリの父親みたいな家父長制の象徴とか、「第3ムラ」がそこそこの尺をかけて描かれているのは、セカイ系が意図的に消してきた「中間領域」を再出現させている。
「セカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群」(同Wikipedia)
今回の作品で、完結のためには碇シンジを「成長させなきゃいけなかった」。
だから、セカイ系の根幹を潰した。
セカイ系の本家本元が、「完璧なトゥルーエンドはセカイ系ではなしえない」としたのが結構衝撃的だった。
//まあ同様のセカイ系の作品において似たような結末既に沢山出てんじゃん、とかいう批判が出るのもわかる
//ポストエヴァをエヴァが真似してどうすんのよ、とか
//けどアニメーションとか演出とかの点で、たとえ既出の結末でもそれらを上回れたんじゃないかなあ
仮称アヤナミまじで可愛い
今までレイ好きじゃないとか言っててごめん。可愛い。
まあ当然意図してこんな可愛らしく描かれているわけで、その目的は、命の素晴らしさを無垢なキャラクターが純粋に感動する構図。
ただ、第3村シーン終盤でアヤナミは死んでしまうから、無駄に可愛くて無駄に死ぬじゃんって思った
絶対シンジもメンタルくるじゃん、きついなーみたいな。
でもそうじゃなかった。
恐らくエヴァシリーズを通して今作で初めてシンジが「成長」していた。
「物語を進めるためだけ」に踏み台になるだけのキャラ苦手〜と思ってたけど、そうじゃなくて「成長を見せる」トリガーだった。
中盤、アスカが「ガキに必要なのは恋人じゃなくて母親よ」って言っていたけど、レイがシリーズ通して「母親の幻影」みたく描かれることからめっちゃ納得した。
仮称アヤナミの死を乗り越えるシンジは、母を乗り越えて成長する子供の図だった。
仮称アヤナミ、Qでシンジのメンタルを叩き潰すためだけのキャラだと思ってたけど全然重要じゃん、、良かった。
(あと仮称アヤナミが名付けられて本当にアヤナミになる、っていう演出がよかった)
(Qのパンフ読み込みすぎ)
//ただ、碇シンジの成長のトリガーとしては弱すぎるのでは、とも思った。
//まあ渚カヲルの死によって成長&塞ぎ込み→仮称アヤナミの死によってそれが露呈かも
どちらかというと、仮称アヤナミを殺すことによって、碇ゲンドウの「碇ユイの死を受け入れない」という姿勢、それに対する碇シンジの「仮称アヤナミの死を受け入れる」という姿勢の対比を表現してる?
碇シンジへのみんなの優しさ
「なんでみんな、優しくするんだよ!」
「碇くんのことが好きだから」
なんやかんやアスカも、定期的に湖のほとりにいるシンジを心配していた。
あとこれは演出面のことなんだけど、レーションを涙零しながら食べるシンジが、「千と千尋の神隠し」における千尋っぽかった。千尋がハクからおにぎり貰って食べるシーン。
ワンチャンふつうにオマージュしてると思う。
庵野監督は宮崎駿の弟子なわけだけど、なんかそういうメタ要素も含めて「周りの優しさ」を表現してるのかなーと思った。
Bパート:ブンダー関連
父親がわりの加持リョウジが本当に「父親」になる
中盤、ブンダーの初期目的が明かされる前後。
加持リョウジってのはシリーズ通してそんな出てこないけど重要なキャラだってのは常々理解していた。
個人的にはシンジの「父親もどき」だと捉えていた。けれど加持リョウジは葛城ミサトとの子供をつくることで別の人の「父親」になってしまったから、今作ではシンジにとっての父親もどきではなくなった。
この加持リョウジに関する描写もそうだけど、終盤まであらゆる手段で「碇シンジとその父親ゲンドウ」の対決という構図へのノイズを取り払うことに注力してる。
第3村におけるあらゆるキャラの生存確認もそう。
あと、加持リョウジ考案の植物の方舟ってとこにも納得した。
旧劇場版と新劇場版で重ねてえがかれた描写は、庵野にとって重要なものだととらえていたけど、(加持リョウジの畑ってそんな必要か…?感動演出…?)なんて思ってた。
この疑問きれいに解決。これは重要な描写。
さらにアナザーインパクト収束後の復興の仕方も想像がつく。
//無理矢理感は正直あった。
//インパクトをどうやってただの人間が止めるんだよ。
母としての葛城ミサト
「大人のキス」がたびたびネタにされるけど、あれはあれで旧劇場版における葛城ミサトの「歪さ」を表していたように思う。
今回、とある界隈ではまた大人のキスをするのか、と話題にされていたが、結論、しなかった。
旧劇場版公開当時、葛城ミサトは「導き苦悩するお姉さん」であった。
公開から結構たって、「葛城ミサトって大人としてヤバくね?」みたいな考察も結構出ている。
たしかに、旧劇場版のミサトは結構やばい。自分がシンジよりミサトに年齢が近くなってきて、いやーきついきついみたいに思うシーンも多かった。
旧劇場版における葛城ミサトは、「母になれなかった女」だった。
ここで、Qにおいていきなり14年時をすっ飛ばしたのが効いてくる。
43歳のミサトは、やっぱりまた「かっこいいお姉さん」そして「頼れるお母さん」になっていた。
//いやまあお前いつの間に妊娠してたんですか的な疑問はあるんですけどね
//破でヤッてたってことにならんか!?
葛城ミサトは、人間性を削ぎ落としてしまったように感じていたけど、全然まだ「女」も「母」もそして「人」も捨ててなかった。
ミサトの「シンジに背負わせてしまった…」と苦悩する心理状況を相田ケンスケが説明していたけど、それに違和感を感じなかった。
きっとミサトの人となりと事情を知る人なら誰でもミサトのその心理を察せるのだと思った。
それに付随して、今回あらゆるキャラが説明臭いことを喋っていたけど、こと、「こうあいつは(おまえは)考えてるんじゃないかな」みたいなセリフに関しては全く違和感なかった。
メタ的解釈だけど、エヴァというシリーズを通して、中の人(声優)ふくめお互いを理解し合っている。
アンチATフィールドがなくたって、他者とつながれる、そんな世界。これは長大な期間をかけないとできないな。
//と、肯定的に私は捉えるが、否定的意見も多そう。
逆に、Qから登場した北上ミドリが葛城ミサトや碇シンジに敵対心むき出しなのも良かった。
「清めれば終わりなわけねーだろ!」
それは本当にそう。
理解し合えないのも、また人間の面白みのひとつかなーと。私は好きでした。
式波・アスカ・ラングレーと碇シンジの恋(と相田ケンスケ)
そして最終決戦前。
アスカの出撃直前の「私あの頃、あんたのこと好きだったんだと思う」のセリフ。「でも、私が先に大人になっちゃった」
マジで鬼泣いた。
旧劇場版をアスカとシンジがくっついた、と捉えるのは相当無理があるだろうけど、でもそんな感じだったじゃん。
今作において14年という時間をあけることによって、アスカとシンジの心が離れた。
あの頃好きだったよ、と伝え合うのはあまりにも切ない。
さらにあの頃、絶対分かり合えないだろう2人だったからこそ、成長したから言い合えるんだろうな、みたいな。
本作においてはそれぞれが別のキャラクターとくっ付くわけだけど、その前にちゃんとこの2人の恋を解決(昇華?)していたのが良かったかなあ。
//ただ相田ケンスケとくっつくのはなんかNTR感あって発狂する精神童貞おおそう
//でもそれ含めて「エヴァ」という作品が、大人になれと突き放してくるように感じた
アスカがシンジへ幼い頃抱いていた淡い恋、そして思春期の「好き」を卒業して、大人になって妥当な「居場所」に落ち着いた。
アスカが第3村を「居場所ではなく守る場所」と言って、ケンスケもケンスケで農作ではなくどちらかというと「守る仕事」に従事してる。
もう完全に恋人ってか夫婦みたいなもんね。
//いやでも「ケンケン」呼びのNTR感はやばい
//私が童貞だったら顔真っ赤で怒ってたと思う
Cパート:シンジ以外の戦い
アスカの使徒化。
これ、ほんとにすごいなと思った。アンチL結界のシステムを棒状で表していたことで、アスカの目玉から同じ棒が出てくる=アスカは使徒であることが一瞬で理解出来る。
苦しげな様子、痛みを背負う選択、すべてがアスカの「守る」覚悟の重みを示していた。
アスカが惣流ではなく式波なことの答え合わせが綺麗に出来ていた。
//ただ、オリジナルタイプの言動に違和感あった。
//オリジナルタイプ=惣流はLCLにとけることを拒否してたやん
//これはシンプルに矛盾じゃね?
音楽
音楽に関して、惑星大戦争が使われててこれもメタ的演出だなあと思った。
明らかに90年代とは庵野監督の興味分野が違う。
けれど、エヴァという作品は庵野監督の人生そのものだから当然その要素も入り込んでいる。
正直に言うと浮いていたけれど、そのあとの鷺巣詩郎オリジナル曲への流れが綺麗だったから良し。
普通のバラエティ番組でも、旧劇場版の「ヤシマ作戦」のBGMが結構使われている。
そのくらい、ヤシマ作戦はいい曲なわけですが、この曲を今回ふつうに使いまわしてもいいんじゃね、と思っていた。
が!甘えない鷺巣詩郎!
イントロ部分の楽器構成をヤシマ作戦に寄せつつもここで新しくヤマト作戦の曲を作る!そんでもって鬼かっこいい!
早くサントラ欲しいです。
//あーでも庵野はもう大元のオリジナルのエヴァみたいなのは作れないんだろうなと思った
//それは当然そうなんだけどさ
赤木リツコとかいういい女
碇ゲンドウに相対する赤木リツコ(と葛城ミサト)。
ここ本当にしんどかった。なぜなら私は赤木リツコが好きなので。
赤木リツコに対してゲンドウは「幸せを間違えてる」といった。おまえがいうな。おい。リツコの人生なんだと思ってるんだ。
赤木リツコはどこまでも理想が気高くて、そしてその理想に真面目に向き合っていた。だからその理想を植え付けた碇ゲンドウが、暴走をし始めてネルフから離反した。(パンフ参照)
リツコが躊躇なくゲンドウを撃って、ああ、やっぱり旧劇場版とは全然違うのだと理解した。
「あなたに教わったことです」
はいここ大優勝大号泣ポイント〜〜〜〜!!!!!!!
赤木リツコ鬼吹っ切れのキレキレかっけーーーー!!!!!!!!!
旧劇場版の赤木リツコだったらできねえよ!かっけえありがとう大好き!
あと碇ゲンドウからの呼びかけ方が「葛城少佐」と「赤木くん」の差があって良かった。
過去を消さない。前を向いて歩く。
ついでに、葛城ミサトの父がやっぱりセカンドインパクト起こしたのか〜というファンの考察への答え合わせがよかった。
今回、色んな人のそれぞれのための「人類補完計画」が書かれていたけど、葛城ミサトの父も個人の人類補完計画を持っていたことが新たにわかった情報。海の浄化。
ゆとり世代=旧劇場版以降のエヴァファンの投影
また、Qから登場した鈴原サクラと北上ミドリの葛藤がすごく辛かった。
今回の映画、最初から最後までどのキャラクターも間違ったことはひとつも言ってない。
全員が全員の「正解」を語っていた。
新しい世代にだけは迷惑をかけるなよ、のスタンスの2人。
この「新しい世代」ってのが旧劇場版にはない要素であって、後ろに守るものがあるからしっかりみんな前を向いている。
Qで14年もの時をすっ飛ばしたの、「どーせ現実の科学技術が進化しすぎて釣り合い取れないからやろ」とか思っててごめん。意味がある行為でした。
北上ミドリは、ギャル言葉で「ザゆとり」だけどそれがまじで可愛い。
「数は超たくさんです〜!」「こんなの絶対へん!」とかわ戦闘中のオペレーターとして伊吹マヤと気色が全然違う。
だけど、それはそれで旧劇場版公開以降うまれた世代=私たちの世代てきにはとっても丁度よかった。
そして、エヴァの世界でもニアサードインパクトのあと世代を表せていて良かったと思う。
真希波マリとかいういい女
真希波マリが碇ゲンドウのもとへ碇シンジを連れていく図。
これが真希波マリなりの贖罪なんだと思った。
真希波マリがいなければ碇ゲンドウは冬月に会うこともなく、綾波ユイに会うことも好きになることもなかった。
マリがいなければ、こんなことにはならなかった。
贖罪は本人の意思があればできる。
真希波マリが一体何歳で、どのようにしてそのままなのかは考察の余地があると思う。
私的には冬月や綾波ユイ、碇ゲンドウとのキャンパスライフは飛び級して過ごしていたような気もする。
そんな謎の多い真希波マリだけど、綾波ユイに対しても結構ふかめの情熱と関係を持っていそうだった。
というかそうでないと、「どこにいても迎えに行くから!」という真希波マリに碇シンジが、(あの碇シンジが)、愚直に信用出来ますか!?という話。
贖罪とか関係なく、なんらかの深い関わりが碇家とあるのではないでしょうか。
真希波マリがいなければシンエヴァの「ハッピーエンド」はなしえなかった。
旧劇場版と新劇場版において最も違うのは「真希波マリの存在」。真希波マリが明らかなキーキャラクターで、新劇場版はいうならば、もし、旧劇場版に真希波マリがいたら、という作品。
真希波マリ、胸の大きいいい女すぎる…。
Dパート:碇シンジと碇ゲンドウの対話と戦闘
この戦闘シーンの「cgっぽい」cg感が、特撮っぽくて良かった。特撮オタク庵野。
今度庵野がシン・ウルトラマン作るし。
碇ゲンドウの過去独白
碇ゲンドウのSDATが、綾波ユイに会ったことで止まった→シンジの誕生で再開した。
このことからSDATというキーアイテムが、父から子へ継承されたものと示されていた。
庵野監督が今まで碇シンジに自己投影している、と噂されたのが今作においては完全に碇ゲンドウへ自己投影していた。
庵野監督が「エヴァ」という作品によって自己のステップアップをおこなえたという描写にもとれた。
庵野監督=碇ゲンドウが、自分の息子=作品としてのエヴァ=碇シンジによって自己発展を行っていた。
あと、渚カヲルループ説が公式に証明されてて良かった。
ちゃんと公式に認めてくれるとありがたい。
神殺し=父殺し
葛城ミサトの犠牲によってシンジに槍が届けられ、それをシンジが受け取ったシーン。
碇ゲンドウは、「そうか、おまえは人の死と思いを受け入れられるようになったんだな」と言った。
当然だけど、これは成長を褒め称える父の視点から来ているが、重要なのは"碇ゲンドウは碇ユイの死を受け入れられていない”ということ。
心理学の分野でもよく言うけど、親を越えるというのは自立の証。
碇シンジはこの瞬間、碇ゲンドウを屈服させ、たおした。碇ゲンドウに認めさせた。
自分の中にある親への絶対的服従を殺すようなこのシーンは、作中登場する「神殺し」という単語にも置き換えられる。
碇シンジなりの神殺し的な結末が重複して描写されてたのかなーと思った。
「人類はここまで来たよ、ユイさん!」
いや、真希波マリの綾波ユイへの純粋な尊敬びんびんに感じました。
真希波マリと綾波ユイ(とゲンドウと冬月)はおそらく同じ大学ライフを送っていたわけだけど、多分真希波マリはシンプルに綾波ユイのことを尊敬してたっぽい。
真希波マリにとって、綾波ユイも式波・アスカ・ラングレーも碇シンジもすごい大切なんだと思う。そして、「人間」へも純粋な「好き」がある。
この真希波マリのセリフには、槍を届けること=シンエヴァの結末を「人の力で切り開いた」ことを再確認している。
いや、まじで真希波マリはチートキャラなんだって。
作中でこんなにも人類をただシンプルに純粋に全肯定するキャラクター他におるか?
綾波ユイも人の力を信じるキャラクターではあるけれど、その補完計画の実行については疑問が残る。
マリはそれでゼーレなどに離反した→「イスカリオテのマリア」なのかな?と思った。
//ただあまりにも真希波マリの生い立ちが謎すぎてもう少し説明は欲しかった。
//あと宗教社会学専攻的には、「マグダラのマリア」でよくね?とも思った。
心象世界演出
碇ゲンドウの過去独白あたりから、旧劇を彷彿とさせる演出がされていた。
ラフ画のようなタッチ、全く意味がわからない繋がりのない場面の切り替わり、ぐちゃぐちゃな構成。
旧劇場版(アニメ)のメタ要素、さらにair/まごころを踏襲したインパクトの様子、赤い海にアスカとシンジが残ること、全てが入り込んでいた。
全てのエヴァ作品を統合していた。
碇ゲンドウはこの心象世界の光景を、「マイナス宇宙は人間には知覚できないため、LCLが過去の記憶に基づいて再現させている」という。
観客も同様に、今まで見てきた「エヴァ」をもとにマイナス宇宙を知覚している。(のかも!?)
この演出が、「旧劇場版も終結させに来てるんだ…」と観客に気づかせる。
庵野監督が、本当に全てのエヴァンゲリオンを終わらせに来ている。
特に、最後に碇シンジと綾波レイが対面するシーンの裏であらゆるロゴがフラッシュするところ。
旧劇場版アニメ各話タイトルにはじまり、air/まごころを君に、新劇場版序、破、Q、これらを明示したあとに「TALE」という文字が一瞬映る。
碇シンジが碇ゲンドウと戦うシーンでも、アスカを元の世界に戻すシーンでも、渚カヲルを送り出すシーンでも、今までのエヴァという作品が「舞台セット」かのように扱われていた。
庵野監督は、各キャラクターが演じ直し続ける「エヴァ」という舞台設定を提示し、そのうえで碇シンジがそれに自覚的であるように描き、そして碇シンジ自身にその「エヴァ」の設定を破壊させる。
本当にすごい演出だった、、、、、、。
だって、公開前に散々言われていた「どうせ完結っつったってまたエヴァ作る気でしょw」みたいなファンの希望的観測をぶちのめしにきたから。
こんなことしちゃったら、まずもってもう続きはつくりようがない。
だって「エヴァ」という舞台装置は書き換えられてしまって、あとはもうみんなの中にいる碇シンジの物語だから。
良かった。本当に。
旧劇場版のような、(理想的な)バッドエンドが起こりうる「エヴァ」はもう無いから。
あらゆるキャラクターが幸せになって欲しい。
真希波マリとのトゥルーエンド
真希波マリとシンジがくっつくのは、アスカとの可能性を否定したからこそ自然な流れだし、逆に新劇場版でいきなり登場したからこそ納得のいく結末だった。
破において真希波マリと学校の屋上で会った時に、SDATが1曲進んでたし。
やっぱり真希波マリってほんとにチートキャラなんだよなあ。
//唐突感はあるけど、まあ妥当なんだよね。結局。
//新劇場版が映画であるからこそ、真希波マリの掘り下げが尺的に難しかったんだろうけど
エヴァの幸せな二次創作において昔から相田ケンスケとアスカがくっつく描写があったけど、それが公式で実現したことになんだかむずむずした。
誰もが考えた「幸せな結末」がそこにあった。もちろん欠けた人はいるけれど、考えうる限り最良の結末だった。
葛城ミサトの生死について
葛城ミサトは、シンジに槍を届ける際に爆死している。
そしてそれは、シンジが世界を書き換える前のことであって、冬月のようにLCLに還元されていないみたいだから、多分新しい世界に葛城ミサトはいないんだと思う。
貞本版エヴァ(漫画版エヴァ)においても、葛城ミサトは旧劇同様に国連軍に腹を撃たれて死んでいる。
(ちなみに今作でも腹を撃たれていてちょっと泣いた。やっぱ撃たれるんだ…)
だから、貞本版エヴァの結末における新しい世界に彼女はいなかった。
今作においても同じように、新しい世界には彼女はいないのだと思う。
「ごめんね、お母さんこれしか出来なかった」
なんて言うけれど、みんなを、そして新しい世代を「エヴァという舞台装置」から解放する「巫女」だった。
彼女があまりにも彼女らしく最後まで行動して、そしてTV版から20年たっても「お姉さん」であることに泣いた。
やっぱり、もう1人の主人公の葛城ミサトだった。
エンドロール :本当に終わってしまうという喪失感
いや、制作陣強すぎるでしょ。日本のあらゆるアニメ網羅してる。
なんて笑いながらも、たしかにストーリーや設定関係なくふつうに「アニメーション」として凄かったなあと気付かされた。
庵野監督の興味に基づく特撮へ寄ってること以外にも、様々なアニメ会社の強みが生かされていた。
特に、自然系の海川山の描写は過去のエヴァで類を見ないほど完成されていた。
(まあ世界観的な制約とかの影響もあったけどさ)
宇多田ヒカル
one last kissからのbeautiful worldへの流れ卑怯すぎる。
ここで力尽きるまで泣いた。
beautiful worldが新劇場版:序で使われた時、正直「????」って感じだった。
残酷な天使のテーゼでよくねえですか?みたいな。
ロボットアニメ的なのに合わないでしょ宇多田ヒカル、と抵抗感がでかかった。
ところがどっこい、いざ今回アレンジ版が流れてくると涙がちっとも止まらない。
「beautiful world」というタイトルと歌詞が、この現実世界の人間同士のコミュニケーションや感情、時には辛いそれらへの「讃歌」となっていた。
冒頭でも述べたけど、改めて、庵野監督がうつ病を乗り越えて現実世界を「受け入れた」ことを想起させてマジで鬼泣いた。
「終わってしまう」という喪失感
前述したけれど、シンエヴァがこの結末で終わった以上、「エヴァンゲリオン」の続きは作れない。
だから、文字通りものほんの「エンドロール」であって、映画館でボロボロに泣きながら、(止まれ、止まれ、文字のスクロールやめろ、音楽やめろ、終わるな)って泣いていた。
エンドロールだけが止まったって終劇なのにね。
どうせなら本当にわけのわかんねー旧劇場版みたいな結末にして、誰も救われないエンディングにして欲しかった。そしたら続きがあると思えたから。なに本当に終わらせてんだよ。
マジでこういうこというオタクは気持ち悪いと思うんだけど、「私の青春が終わってしまった」。
まじでメンタル成長しないくそ童貞きもきもオタクっぽいから本当に言いたくなかったけど、たしかにこう思ってしまった。
多分好きなアイドルが解散した時ってこういう気持ちなんだろうなあ。
まあ生身の人間であるアイドルと違って、このコンテンツの先がないから余計に鬱なんだけど。
「終劇」という文字がこんなに憎らしいことってあるんだね。
全体的なメカニックのダサさについて
感想note漁ってたら結構指摘してる人多かったこれ。
私も「このセンスはわからんな〜」と思った。
でも、冷静に考えるとそもそも私は初号機のデザインをそもそもそんなかっこいいとは思えない。
だから庵野がダサくなった、というよりは大量のメカニックを出すことによってダサさが露呈した?(センス合わねーと思うことが多かった)のかな。
ただ、シンクロ率無限大はさすがにバカバカしいなとは思った。
なんで「エヴァインフィニティ」とかかっこいい単語使うくせにそこはムゲンダイなの…。
私は元々ロボットアニメとしてはエヴァを見てないけど、ロボットアニメとして楽しんでる人的にはどうなんだろ?
とりあえず私はメカニックに関しては普通にダサいなあと冷めた目で見てました。
髪型についてのプチ考察
あと、真希波マリによってアスカの髪が整えられるシーン。
「髪は人間の全てがやどる」と語っていたけど、ここから葛城ミサトと赤木リツコを髪型から考察してみようと思う。
葛城ミサトと赤木リツコの違いは、女であることを「選んだ」か「捨てた」のか。(パンフレット山口由里子インタビュー参照)
髪は人間の全てがやどる、けど、破からQまでの14年の間に葛城ミサトは髪を帽子に押し込めて、赤木リツコはそもそも髪をバッサリ切った。
女を捨てきれず艦長の帽子(役職を示唆)によって押し込める葛城ミサト、愛情をバッサリ捨てて高潔で理性の人として生きる赤木リツコ、の対比がめちゃめちゃよかった。
最終シーンにおいて葛城ミサトは帽子を外して、髪型が見慣れたものに戻る=女=母に戻る。
そして「ごめんね、お母さんこれしかあなたにできなかった」のセリフ。彼女は槍を届けるという行為を、艦長としてでは無く人として、母として、女として行っている。
葛城ミサト、いい女すぎる。。。
いややっぱ全然わかんねえよ!
ここまで、さも「わかってる」風につらつら書いてきたけど全然わからん。
なんやねんエヴァイマジナリーって。槍つくれんのかよ。黒き月はそんな可変性を持つのかよ。
エヴァのせいで私は「人生変わった」。
具体的に言うと膨大な宗教モチーフを追いかけるうちに、大学で宗教社会学専攻とかいうくそくそ意味わからんマイナー学問を志すには。
あと宗教学と心理学も大学1回生の時に寄り道した。
そんなそこそこ「勉強した」私は、今作において初出の単語とかも「あーーーね、」みたいになんとなくはわかった。
(ゴルゴダオブジェクトとか父対子とか太母の心理学的なあれそれとか)
いやでも全然わからんよ!?
まずもってやっぱり最後までこの作品は観客に分かりやすく説明するという意思がない。
そして観客は「わかりやすさ」を求めていない。
noteの感想ちらちら検索かけてみてるけど、「全然わかんなかった」って理由で批判してる人はもはやナンセンスだなあと思う。
エヴァという作品において、その需要と供給の対象外にいますって宣言してるようなもんだもん。
最後までわかんねーのがエヴァです!
//と書くと、擁護信者キモイって言われそう
//でも、まじで意味がわかんない作品があったってよくね?
//庵野監督がたとえ裏で「テキトーに作った作品で満足してる信者ちょろ」とか思っててもそれでいいよ
//本当にエヴァを好きで楽しかった。ありがとう。
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