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花のかげ~第1章 萌芽(1)

一・初春の高速道路

 高速道路を走る車の中で、私は朝のまぶしい日差しと戦っていた。はるかかなたに見える山の稜線は、これまで何度も見てきたものではあるが、いつも懐かしさと同時に新鮮さを感じさせるものだった。三月の快晴の青と山のこげ茶色のシルエットのコントラストが、まだ春が遠いことを思わせた。花が咲き乱れる春はまだ先であった。
 実家に着くには暗いうちに自分の家を出る必要がある。朝の四時に家を出れば、実家に着くのはだいたい八時ぐらいになる。その方が車も多くなくて走りやすいし、サービスエリアの駐車場も停めるところに苦労しない。だいたい毎日起きる時間が四時半なので、三十分ほど早くするだけだ。たいしたことはないが、着替えなどを含めればもう少し早く起きる必要があった。
 高速を降りる前の最後の休憩で利用したサービスエリアで、これまでのことを少し思い出した。母の脳に異常がありそうだという連絡を受けたのは一週間ほど前である。十七年前に脳梗塞を患い、それ以来受診していた脳神経内科の定期健診でMRIを撮影したところ、脳の右側に白い影がはっきりと写ったという。あまりにその白い影がはっきりしていたので再撮影してみたところ、やはりそれは一時的なものではないという。姉が最初の問診に立ち会ったというが、二度目の場合は姉が立ち会えないということで私が立ち会った方が良いだろうということになった。今回の帰省はそのためである。この段階ではその後の展開がどうなるかなど考えてもみなかったわけだが、万が一大きな病気の場合は私の住む桂田へ連れていく必要があるだろうと思っていた。
 そんな母は飯山で一人暮らしをしていた。前年の夏に父が二年間の寝たきり生活の後に亡くなっている。父の場合は脳梗塞であったが、倒れた時点でかなりひどかったために、それ以降はずっと寝たきりであった。口もきけず、表情こそ最初は変化があったものの、一年もすれば痛いとき以外に反応らしい反応は示さなくなった。最後は特別養護老人ホームで息を引きとったわけだが、距離があるところに暮らしていた私はろくに見舞いにも行けず、そんな私のことをいろいろと言う身内は多かったことだろう。
 十五年前に一度同居をもちかけて、父と母の話し合いでほぼ決まりかけたものの、最後に父が私に電話で回答する段階になって真逆の内容へと心変わりしてしまい、同居の話はご破算になっていた。父が翻意したその主たる理由は今となってはもうわからないわけだが、そこは家族である。なんとなくその理由というものも推測できてしまうのだった。しかし当時軽度の脳梗塞から回復して二年ほど経っていた母にしてみれば、同居ができなくなったことの失意は半端ではなかった。
 そもそも父とは私が結婚したあたりからあることで大きな溝ができていた。私と父の間にある溝は深いものであったが、端から見れば表立った確執と言えるほどのものではなく、あえて言うならば「静かな冷戦」とでもいえばいいような状態だった。もちろんその静かな確執を盾に私がへそを曲げて父のもとを訪れることをしないでいるというわけではなかったが、父が土壇場で翻意した原因にはそれも確実に影響していたことは間違いない。だが父と私の静かな確執の直接的な原因については本筋から逸れてしまうのと、非常に長くなってしまうので、ここでは差し控えることにしたい。
 とはいえ母は父が倒れた後にいろいろと大変な思いをしたことだろう。それについては長男として忸怩たる思いがある。その贖罪のつもりではないが、母の病気が大きなものであるならば、それについては何かしらのことはしたいという気持ちは、脳に何かしらの問題がありそうだということを告げられた時から私の頭にはあった。
 少しだけ私の両親の夫婦としての関係性について触れておこう。端的に言えば私の両親はおせじにも仲が良いとは言えなかった。母は覚えていないと言うが、私の脳裏には父が母の頬を張る場面が二つ焼きついている。そのどちらも母は泣いた。最初の時の理由は私も幼すぎたこともあってまったくわからない。二度目の時の理由は本当に些細なことだった。とはいえ、数回であろうと千回であろうと暴力行為はダメであることを前提として、夫婦のなかには取っ組み合いの喧嘩をする夫婦もいる。喧嘩の仕方よりも、喧嘩の後がどうなのかが一つの夫婦のあり方を一番示すものなのではないかと思う。すぐに仲直りして何でもない家庭風景が復活するところもあれば、長く陰鬱な影が家の中に降りてしまう場合もある。私の両親の喧嘩の場合は、そのすべてが後者に該当する。とにかく長期戦になる。お互いに口をきかない。必要最低限の連絡であっても口調がとげとげしい。父も眉を吊り上げて怒鳴るように答える。母の言葉は冷めきっている。そんな光景を見るたびに、幼い私は殺伐とした気持ちになるのだった。私が中学三年の時から高校を卒業する時まではほとんど夫婦の会話を耳にしたことはない。その時も些細なことから始まっていた。もちろんそれぞれに言い分があるだろうからどちらかの肩を持つこともできない。ただひと言で言ってしまえば、私の両親は残念なほどに「合わなかった」。
 そんな二人であったわけだが、合わない原因の一つは二人ともタイプが似ている人間だったということだ。どちらかが全然違っていれば、冷戦状態を保つことにばかばかしさを感じてしまうように持っていけることもある。熱しやすく冷めやすいのであれば、喧嘩のことなどケロリと忘れて次の瞬間には笑いが起こる、そんな夫婦だって世の中には間違いなく存在する。だが私の両親は違う。とにかく長引くのだ。そして父はなぜか子どもたちに対しても口を閉ざしてしまう。母から自分の悪口を聞いているだろうから、というのがその理由かもしれない。少々封建的なものにあこがれる人だったこともあり、母と笑いながら話す子どもたちが鼻についたのかもしれない。あるいは父の不器用さがあるのかもしれない。とにかくそんなわけで、夫婦の会話が無い家の中はいつも冷めた空気が漂っていたのだった。
 高校生の頃に一度そんな二人の状態を何とかしようと試みたこともあったが、残念ながら父は私の意図をまったく理解しなかった。母は私の言うことに涙を流しながら「そうだね、そうだね」とうなづいていたものの、父は「船頭は二人いらない」と言って私の言葉を理解しなかった。たとえ半分、いや三分の一でもいい、私の言うことに耳を貸し、直接的に反応してくれればまた違ったかもしれない。しかし父は完全に私の話を聞き流し、自分にとって都合のいい事実だけを頭に入れたところがある。それがわかって以来、私の心の中のある部分はどうしても機能しなくなった。いまだにその余波は残っているのかもしれない。
 そんなわけで、私が大学進学をする際どうしても家にとどまる気になれず、地元の大学は受験したものの途中棄権するという暴挙に出た。そのままだとそこに進学する可能性が高いことぐらい、試験問題を見てすぐにわかっていた。そこに進学するくらいなら、たとえ浪人してでも家を出る方を選んだ方がましだった。とはいえこの計画はおせじにも成功したとは言えなかった。第一志望は不合格になるし、進学することになったのは自分の家があるところよりもはるかに田舎の大学だったのである。別に都会の大学にあこがれていたわけではないのだが、あまりにうら寂しいところにある大学を見た時、さすがに自分の失策を恨めしく思った。それでも最初の数カ月こそ気持ちが落ち込んではいたものの、尊敬できる教授の助言もあり、徐々に自分の中でそこで生きることに意義を見出した私は、今ではその大学に進学するために家を出てよかったとすら思っている。
 私が進学のために家を出たことは、両親の間にも良い変化を一時的にもたらした。四人家族のうちの一人が家を出たということは、家の中のパワーバランスが変わったようにでも感じたのだろうか。それとも何かしらの心境の変化でもあったのだろうか。何はともあれ、頑固に自分の価値観を守り抜こうとする父が、初めて母に歩み寄ったのである。大げさな言い方だが、歴史的瞬間というものが訪れた時だったであろう。年頃になっていた姉が結婚して家を出てしまえば、二人だけの生活になってしまうわけであるから、いつまでもそのままではいられないと思ったのかもしれない。実際、姉はその後割とすぐに結婚して家を出たので、父のその歩み寄りは非常に生産的だったと言える。その後も小さな衝突はあったものの、そこからしばらくは父も母もぶつかることが得策だとは思わなかったのか、表向きは大きな波風もたたないまま時間が過ぎていった。
 私は大学を出た後に東京にある大学の大学院に進学し、そのままそこに居つくことになった。地元に戻るという選択肢もあったし迷うこともあったのだが、私にはどうしてもそうする気にはなれない事情があった。高校生になったあたりから長く患っている病気があるのだが、その治療を続けながら社会生活を送ることが地元では少し難しかった。とはいえ、長男である以上は地元に戻るということも何度も考えたし、迷いもしたのだが、明確な結論を出せないままに時間が過ぎていった。
 そして私は結婚し、所帯を持った。妻はとにかく私に優しい女性で、一点の曇りもない愛情で私の方を向いてくれた。よく「親に似たパートナーと結婚する」ということがあるが、私の場合は母の性格とは真逆な人を選んだと思っている。妻のおかげで心穏やかな日々を送れることに私は心から感謝すると同時に、地元に戻っていればこの生活は得られなかったであろうと思っている。もし地元に戻り、そこで結婚することになればその時点で親との同居が待っていることになる。父は息子に家の中心を譲ろうという気はまったくないことは容易に想像できる。別に私が家の真中に座って威張り散らしたいわけではない。家父長制というものに嫌悪感もあるわけで、自分の立ち位置をことさら主張したいわけではない。それとは正反対に家父長制を重んじる父の存在が私の結婚相手のストレスになるであろうことはあまりにも明らかだったのだ。
 そこは少しずつ馴らしていけばいいのかもしれないし、最初から同居しなければ後になって同居はできないという意見もあるだろう。だがこればかりは私には直感的にわかってしまうのだ。世間一般のそういう助言は、しょせん私の家の中、あるいは両親の関係を知らない人たちの勝手な物言いでしかないわけであり、たとえ身内であっても自分に実質的な被害がないならば人は勝手なことをいうものである。あの父を上手にあしらえる人などこの世にはほんの一握りしかいないわけで、そう言う人が自分の妻になる可能性など非常に低いどころか、限りなくゼロに等しいということもわかりすぎるくらいわかっていたのである。だからこそ、私はある程度時間を置いてからの同居を考えたのだった。
 しかし先に述べたように、同居の話は一瞬にして砕け散った。ちょうど母が脳梗塞の後遺症も少なくなったころである。その当時、やっと私たち夫婦の間に子どもが生まれ、母は私たちの子どもをことのほかかわいがった。それは父も同じではあった。ただ、母は脳梗塞によって失われた健康への自信がなかなか戻っては来ず、そんな中で同居の話が私たちから持ちかけられたときに、最後に生まれた幼い孫と一緒に暮らせる可能性が高まったことで母には大きな期待感が生まれていた。父を説得するに際して初動すら厳しいものがあったが、母は辛抱強く説得を続け、そして二人の間では同居しようという話にまとまった。少しでも時間が経つと心変わりする可能性もある父のことなので、母はすぐに電話してくれと父に言った。しかし父はすぐに電話こそしたものの、それまでの母とたどり着いた結論とは真逆のことを私に言ったのである。母にしてみればまさ天国から地獄である。母のショックは相当なものだっただろう。実際その日は母は家を飛び出して街へ出てあてもなくさまよいながら衝動買いをし、夜遅く帰宅したと聞いている。奇しくもそのあとに震災がやってきた。同居の話を進めていれば、土地や家屋も震災前の基準で売却できたであろう。結果論でしかないが、私が同居を持ちかけるタイミングとしてはこの上ないくらいのものだったのだ。
 その後、時々母は私たちの家にやってきたが、父はとうとう一度もやってくることはなかった。その後、父は脳梗塞で倒れ、先ほど述べたように二年寝たきりの生活をした後に他界したのである。父が他界したとき、私は不思議と涙が出なかった。悲しい気持ちというよりは、父とわかりあえる機会が最後まで持てなかったことを悔しく、歯がゆく感じる気持ちの方がはるかに勝った。父の性格もあるだろうし、父が生まれ育った山野辺の気質も関係しているかもしれない。そもそも父は飯山大学に入学して以来飯山に住み続けていたわけなのだが、飯山をこき下ろして山野辺を賛美するということをずっと続けていた。ふるさとを賛美するのはいい。だが自分の住んでいるところを蔑視するというのは、そこに居住する人たちに対して心をざわつかせた。そういうことが平然で悪びれることもなくできてしまうところが、父の気質だったのだ。だからなのか、父は本当に人の話を聞かない。私はこれほど人の話を聞かない人間に出会ったことが無い。教師だった父は、教えることには積極的でも教わることは嫌悪するところがあった。教師として最も持っていてはいけない気質だろう。
 そういうわけで母は父への恨み言を時々口にした。それは積年の恨みでもあった。ただ、時々その恨み言に一貫性が無いこともあった。時には父に対して同情めいたことを口にすることもあれば、憎々しげに非難することもあり、長年連れ添ったとはいえなかなか消化できない思いが母の中には残っていたのかもしれない。
 長くはなったが、これで私の両親の全容をここに記せたとはまったく思っていない。父が倒れるまでのおよそ十年以上、父と母は互いにできるだけ干渉せず、とはいえ時々ぶつかっては父が癇癪を起したり母の父に対する恨みを一層募らせたりしながら日々を過ごしていたのだ。しかし残念なほどに合わない夫婦は、もはや離婚するだけのエネルギーも持っていなかったのだった。
 どこにでもあるようなありふれた家庭の話かもしれない。もっとすさまじい話もあるだろう。だが私の生まれそだった家庭というものは、とりあえずそういうものだったのである。家族としてのきれいな思い出というものもないわけではない。だが自分の高校卒業までの記憶をたどるたびに、どうしてもそういう負の部分が先に思い出されてしまうのである。
 父が亡くなった後、母は一度私のところに来て、中学生になった私の息子の合唱コンクールを見に行った。それからあとはなかなか重い腰を上げられず、かくしてこのような脳への異常が発見されるという事態になったわけである。
 そんなことを、最後に休憩したサービスエリアで断片的に思い返していたのだった。東京を出た時はそれほど感じていなかった寒さも、飯山までくると東北の寒さをどうしても思い出さざるをえなかった。
 まだ春の芽吹きはまだまだ先に思われた。

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