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花のかげ~終章(5)

五.夜の病院

 電車の中で妻からメールがあり、病院に行くのは四時ということになった。意外に時間があいたので、いったん帰宅して着替えることにした。姉にはメールで母の容態が悪化していて病院に向かうことを知らせていた。
 病院に着いて受付で名前を言うと、いつものように熱を測られた後はあっさりと病室へ上がってよいと言われた。おそらく名前が受付にも伝わっていたのだろう。緊張しながらエレベーターに進み、二階の病棟のナースステーションにいくと、母がいる病室へと案内された。
 母は個室へ移動されていた。本来であれば四人部屋であったはずなのだが、部屋を移動したということそれだけで何かを予感させるものがあった。
二階の病棟の一番奥に近い個室に母は寝かされていた。病室に入るとすぐに、老人特有の臭いが鼻をついた。その臭いにはある程度なれていたはずだが、この時はいつもよりずっとその臭いがきつく感じられた。
 母にはすでに酸素吸入器がとりつけられていて、意識はなかった。口を開け、「ハッ、ハッ、ハッ……」という短い間隔での呼吸になっており、舌が奥へと落ちていっていた。舌が落ちてしまっているので呼吸しづらくなり口を開けてしまうという悪循環が起こるわけだが、ここまでくるともはやもう長くはないだろうという感じがしてしまった。ネットのブログでその呼吸状態になってから回復したというものを読んだことがあるが、それも自分の母親を介護する医師が書いているブログで、その状態からの回復そのものが奇跡的であるとも言っていたわけであるから、奇跡というのはそうそう起きるものではない以上、覚悟を決めなければならないところに来たのだという気持ちにならざるをえなかった。
「お声をかけてあげてください。聞こえていると思いますよ」
と看護師に言われて、
「お母さん、お母さん……」
と私も妻も呼び掛けた。もちろん母は目を開けることはなく、ただひたすら短い間隔での呼吸を続けていた。
「お母さん、誕生日を迎えられたね。まだこれからだよ」
と母にかける言葉もむなしく感じられた。私と妻の二人で母の手をとり、さすり、そして言葉をかけ続けたが、母に変化はまったく見られなかった。
 いずれにしてもこのままの状態がいつまで続くかはわからないため、息子も帰宅しているであろうことを考えるといったん家に戻るのがよいかと考えた。コロナのこともあるので、病院に長居することはあまり好ましくない。ナースステーションにもそのことを伝え、何か変化があったら連絡を入れると言われて私たちは病院を後にした。
 帰宅途中、妻とはこの後どうなりそうかという話ばかりになった。日は傾き、あたりはすっかり暗くなっていた。病院の駐車場もがらんとしており、冬の寒さも手伝って物寂しい空気ばかりが伝わってきた。黒とオレンジの壁の病院は、黒いところが闇とシンクロし、少し不気味な雰囲気を醸し出していた。
 帰宅して夕食を済ませ、いつもなら十時すぎに入浴するわけだが、この日は早めに済ませておこうということにして八時過ぎに私は風呂に入った。
 風呂から出ると、妻が電話で話をしている。少し切羽詰まったような感じに、その時が来たことを直感した。
「お母さんの容態が悪化したんだって。すぐに行くって返事したよ」
と妻が言うので、私も急いで身支度をした。ただ、中学三年とはいえ、息子一人を残していくのも気が引けるので、ここは私が一人で向かうことにした。
 車で病院まではだいたい二十分くらいである。家を出たのが八時五十分を少し回ったところで、いくら道路が空いている時間だとは言えこういう時に事故を起こすのはしゃれにもならない。しかもいつものルートだとどうしても細い道も通らなければならず、飛び出し事故の多いところも通らなければならない。ここは慎重に確実なルートを使っていくことにした。それは奇しくも途中から母を転院させたときに介護タクシーで通った道と同じになった。
 病院へ着くと、つい先ほどまでいた病院なのだが、重々しい雰囲気がまた一層強まっているように見えた。おそらく病院を出た時についていた電気の数がまた減ったからなのだろう。駐車場に止めてある車の数は前よりもさらに少なくなっていた。
 受付にはいつもの女性の職員はおらず、かわりに警備員らしき人がいたが、私の姿をみるやいなやわかっていたかのように事務的に熱だけはかり、私をすぐに通してくれた。
 夜の病院はあまり来ることがない。入院していた時とはまた違う雰囲気がある。またふくやま病院はそもそも外来もないし、加えてコロナの関係で面会もない。病院とは思えないほどひっそりとした状態の中を、二階のナースステーションへと急いだ。
 名前を告げると、やや年配の看護師が出てきて母のところへと案内してくれた。母は先ほどと同じところにいた。先ほどまでは早いペースで続いていた呼吸も、ほとんどなくなっており、私が着くや、
「医師を呼んでまいります」
といって看護師は姿を消した。
 母は口をあけたままだった。「ごぼごぼ……」という酸素吸入器の音だけがむなしく室内に響きわたり、それに交じって「ハッ……」と言う母の短い呼吸が挟み込まれる。
「……お母さん……」
と呼びかけても、母は目を開けない。何も変わらない。何度か呼び掛けてみるが、同じだった。私が壁の「ハッピー・バースデー」と書かれたものに目をやったその時、
「ハァッ!」
と静かに少しだけ長めに息を吐いて、その後呼吸はしなくなった。
 ほどなくして医師がやってきた。立川医師ではない当直医だった。医師は脈を調べ、瞳孔をライトで調べた後、時計を見て、
「九時二十三分、ご臨終です」
といって深々と頭を下げた。横にいた看護師も深く頭を下げた。私は頭を下げてこれまでのことに感謝するのと同時に、ついに訪れた母の死に痛恨の思いから頭を上げられなくなった。
 もともと心臓マッサージなどの延命措置、蘇生措置は必要ないと言ってあったこともあり、母の最期は静かなものだった。母自身、かねてから延命措置や蘇生措置は絶対にしないでくれと言われていたので、それはこの病院に転院してきたときにすでに確認済みであった。
 母の手をとると、母の手はまだ暖かく、今にも目を開けそうな様子だった。ただ口だけは閉じられておらず、これだけはどうしようもないようだった。はやく口を閉じてあげたいところだったのだが……。
 少しして、看護師が「お風呂にいれてお着換えをさせていただきますね」と言って母をベッドごと移動していった。「何か着せたいものは持ってきているか」と言われたが、そこまで用意周到にして来る方がおかしいのではなかろうか。もっともそんなやや無神経な問いかけに腹が立つこともなく、病院関係者ならではのささいな失言だろうと思ってやり過ごした。
その間に私は姉にメールし、母の兄弟へと電話をし、職場の校長へ電話した。校長は私の母のことをとても気にかけていてくれて、何かあるたびに「お母さんの具合はどう?」と私に聞いてくれていた。仕事のこともあるので連絡はしなければならないわけだが、校長と私の話の中身は事務連絡というものとは少し趣が異なった。
 母は互助会に入っていたため、その互助会の葬儀屋へと電話をかけ、遺体の引き取りをお願いした。だいたい十一時頃に到着するという話である。それまでは病院にいなければならない。母の身支度が整うまで私は病院の廊下にいたわけだが、夜の病院は静かであるとはいえ、時折老人の上げる奇声が遠くに聞こえた。こういうのは慣れているのかわからないが、病院職員も私に必要以上に声をかけることはせず、私の前を通る時は軽く会釈だけして足早に通りすぎた。
 十時半ちかくになると母の身支度が整ったと知らされた。また同じ病室に戻されたということを告げられ、私は病室へと戻った。葬儀屋が来るのは十一時頃だというと、
「病室にいていただいてかまいませんよ」
と言われ、私と母は二人きりになった。母の口はまだ閉じられておらず、なんとか口を閉じることはできないかと言って頼んだものの、母の口は閉まらなかった。聞けばそのあたりは葬儀屋がうまくやるのだそうだ。
 カーテンが閉められ、酸素吸入器のスイッチも切られていたため、病室内は静かだった。天井から照らされている灯りが母の全身をスポットライトのように照らしているため、口を開けたままの母が不憫に思えた。
 予定より早く葬儀屋はやってきた。てきぱきと母を移送する手はずを整え、そして母を白い布で巻いた状態にしてストレッチャーで移動することになった。静かな病院内でストレッチャーの車輪が転がる低い音だけが響いた。
 その日は移送するものの母の遺体のそばに付き添うことはできなかった。移送先も遺族が宿泊することを取りやめており、ここから私はいったん自宅に戻ることになるのである。母を乗せた葬儀屋の車は、漆黒の闇の中を赤いブレーキランプや黄色のウィンカーだけが不釣り合いなほどに点滅しながら走り去っていった。そこまで付き添ってくれた看護師が車の方向に向かって深々と頭を下げてくれていた。
「この度は本当にお世話になりました」
といって私は看護師に頭を下げて礼を述べた。
「立川先生にもよろしくお伝えください」
と言うと、「確かに承りました」といって看護師も深々と頭を下げた。
 それから私も自分の車で家に戻ることにしたのだが、母が亡くなってから私はまだ一度も涙を流していないことに気づいた。自分は薄情なのだろうか、それともなんなのだろうか。茫然としたままなのか、しかしそれならばもう少し周りが見えないはずで、周りのことはしっかり見える。母の死を受け入れられていないのか、いや、そんなことはない。いつかこの時が来ることは、もうだいぶ前からわかっていたのだ。
 そんなことを自問しながら、私は車に乗り込み、自宅の方へ向かって走らせた時、ハンドルを持つ手が小刻みに震えていることに気づいた。車を止めようかと思ったその時、新興住宅街の未開発部分の暗いところにぼぉっと浮かび上がったコンビニエンスストアを見つけた。「いったん落ち着こうか」と思い、私はそこに入ることにした。
 コンビニエンスストアで私はコーヒーとタバコを買った。タバコは母が嫌いだったが、その時は無性にタバコが吸いたい気分だった。あまり遅くなると妻が心配する。だから私はタバコを二本だけ吸おうと決めた。久しぶりのタバコに頭がクラクラすることはそれほどなかったが、夜の寒さの中で頭も冷え、コーヒーとタバコの取り合わせが私を少しだけ感傷的にした。
 ただ私は実際に母が亡くなっても、世間で言うところの「深い悲しみ」に包まれない理由も少しはわかっていた。母がふくやま病院に転院して、すべて手続きを終えた私たちが帰る時に、遠くにいる真横を向いたままリクライニングチェアーに座る母の姿を見たのが実質的な別れであったのではないかと思えていたのだ。面会ができない中でそれを私は少しずつ心の中に落とし込んでいたのだろう。だからこそ、実際に母が亡くなっても、激しい悲しみに包まれて慟哭するようにはならなかったのではないか。そしてこれが私なりの悲しみ方になるのだろうか……。
 時計の針は十一時を回っていた。コンビニエンスストアの店内からかすかに流れてくるBGMが、逆に夜の静寂をいっそう際立たせていた。再び車を走りださせた時、先ほどまで小刻みに震えていた手は、もう震えていなかった。

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