花のかげ~第2章 動き出す(1)
一.入院から生体検査へ
四月二十日、母が入院することになった。五階の病棟に入院することになったのだが、いざ病院に行くといろいろとあわただしかった。入退院事務室で手続きをすると五階の病棟へ上がり、そこで検査着に着替え、三階に戻ってきて麻酔科の問診を受けた。麻酔科の医師は元副院長ということで、名前は忘れてしまったがその顔はちょっと強面の俳優を思い出させるようなところがあった。とはいえ物腰は柔らかく、問診にしてはずいぶんと雑談に近いものであった。
翌二十一日、午前八時に妻と病院へ向かった。予定では九時からだったのだが、緊急の手術が入ったとのことで待たされることになった。緊急の手術となると、一時間では終わらないだろうということになる。加えて、感染症拡大を予防するため、家族が病室に立ち入ることは禁じられていたために母の様子をうかがい知ることもできなかった。十一時半を過ぎたところで、午前中は始まらないことがわかったため、私と妻は帰宅して昼食をとり、午後一時に病院に戻った。
午後二時。ようやく母の順番が回ってきた。母は不安そうだったが、車いすで一緒に三階にある手術室の方へと向かった。手術室に入る前に、私と妻で母の手を取り、「大丈夫だから」と励ました。何か吹っ切れたのか母の表情は穏やかだったが、不安な気持ちは表情から伝わってきた。手術室に入る姿を後ろから見ていると、母は右手を挙げて手を振った。手術室の扉が開いて母が中に入った後、無機質な音を立てながら扉が閉まった。
そこからは待つしかなかった。その病院の手術をする患者の家族が待つ部屋は比較的大きいのだが、モスグリーンの椅子がどうにも座り心地が悪い。妻の手術の時もそうだったのだが、ずっと座っていると腰が痛くなってくる。座面が狭いせいもある。形も悪い。トイレもそこにあるので、ずっとそこにいることもできるのだが、時々立ち上がって歩き回らないと体がつらくなってしまうようなところだった。
三時間半ほどして手術室の扉が開き、ベッドに寝た状態の母が出てきてそのままICUへと移送された。
ほどなくして私は今川医師に呼ばれて面談室へと入った。向かい合って座るなり今川医師は、
「詳しい病理の結果が出ないと断定はできませんが、限りなく悪性腫瘍の可能性が高いと思われます。脳原発の神経膠腫と考えてほぼ間違いないでしょう。このまま何もしなければ余命は三か月から六か月ですね」
と述べた。「やはり」という思いに思わず次の言葉が出なかった。もっとも、そういわれても動揺しないくらいの覚悟はとっくにできていたわけで、むしろ響いたのは「何もしなければ……」という余命のところであった。これには私もさすがに少なからずショックを受けた。そんなに悪いのか、と。
「神経膠腫の中でもいろいろあるんですが、『膠芽腫(グリオブラストーマ)』である可能性が高いです」と言い、「グリオーマやグリオブラストーマで検索するとたくさん出てきますよ」とも言った。
そこで相談できることはあといくらもなかったのだが、
「今後は手術や化学療法を行っていくわけなんですが、年齢的には手術をせずに化学療法だけをやっていくのが普通です。もし手術するにしても、年齢的にはぎりぎりでしょうね。手術したとしても、認知面や運動機能面で後遺症が出る可能性があります。本人を交えた相談は週末にでもしましょう」
と言って、面談はそこで終了した。
面談の後、私は妻とともにICUに入ることを許可された。私たちを認めると、母は泣きながら、
「苦しかった」
と訴えた。息ができなくなって死ぬかと思ったらしい。どうやら麻酔から覚醒するときに少し大変だったようだ。そして額のところが痛いと訴えた。見ると額のところに一針ほど縫った痕があった。それが何なのかはそこに今川医師がいなかったために聞くことはできなかったが、後で聞くと手術で頭を少し持ち上げた状態で固定しなければならず、その固定器具でどうしてもそうなるのだそうだ。
加えて、麻酔が全然効いておらず、いきなり挿管され、術中も意識があったと言っていたのだが、どうもそれはそのまま鵜呑みにはできなかった。初めての全身麻酔は母にとって非常に過酷なものだったようである。
ICUを出たところで、私は思わず悲しくなってしまった。手術するならもう一度全身麻酔をしなければならない。どうせ頭蓋骨に穴をあけるなら、いっそのこと手術もしてくれたらよかったのに、という思いがわいてきた。実際神経膠腫となった場合に手術をするのであればどの患者も同じようなやり方になるわけで、八十過ぎの母に二度も全身麻酔の手術を経験させるのは酷に思えてしまい、母がかわいそうになったのだった。
それ以後は、感染防止のために面会が禁止されているため、見舞いにも行けなかった。二十三日、生体検査から二日経って私の携帯に母から着信があった。なんども不在着信があったのだが、留守電に入っている母の言うことがどうにも理解できない。生体検査の時点で少し認知面に問題が出てきたのだろうか。ようやく電話に出られると、開口一番、
「眼鏡がないんだよ」
という。貴重品の袋に入れたはずだ、というと、それがいくら探しても無いという。病院に行って探してあげたいところなのだが、それもできないので、看護師かヘルパーに頼んで探してもらってくれほしいというと、どこか不満げな返事が返ってきた。電話を切った後、私は言いようのない不安を覚えた。確かに母は物忘れがひどくなってきていた。自分でも「私ってさ、最近頭おかしいんだよね」と口癖のように言っていたが、脳に病気があるとわかった今はそれも笑いごとでは済まされなくなってきたように感じた。
ところで、母の住んでいるところの近くの病院でMRIを見て最初に異常をみつけた医師は認知症の傾向はみられないと言っていたそうなのだが、紹介状には「認知症の進行がみられる」と書いてあったことを知ったのはこのころである。認知症の症状は見られないと私は聞いていたので、紹介状には真逆のことが書いてあったと知って少し驚いた。ただ認知症のことに関してはその医師に直接聞いていないので、桂田にいる以上その時はもう確認のしようがなかった。
翌二十五日、また電話が入り、母の認知症を疑う点がまた一つ増えた。
「さっきね、今川先生から宣告されたんだよ。脳腫瘍だってさ」
と、深刻そうな声で母が話し出した。これについてはまだいい。主治医として患者に病名を伝えることは十分に考えられるからだ。だが
「ICUで上からのぞき込まれて、『衝撃的な事実が判明しましたね』と言われたんだよ、それも今川先生じゃない人から」
というあたりは、すでに混乱しているとしかいいようがなかった。
だが次である。
「手術はね、しようと思う。だって、十年は生きられるって言われたから」
と言った時、また私は言いようのない違和感を覚えた。「十年は生きられる」なんて、今の医師が言うだろうか。変に期待を持たせるようなことは絶対に言わないはずで、母が勝手にそう解釈してしまった可能性もあるのだ。
認知症なのではなかろうか。
ここでようやくその疑いが現実のものとなってきたような気がした。すでに認知症が発症しているのであれば、手術によって認知症はより進行する可能性もある。だが今電話で母とその話をするわけにはいかない。手術に対して前向きになっているところに下手に水を差したくない。いずれにしても次の日が面会の日であるわけだから、それを待つしかなかった。
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