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花のかげ~終章(2)

二.実質的な別れ

 ふくやま病院では受付で少し待たされた。本来なら先について待っているはずだった妻も一度Uターンしたために、私たちよりも十分ほど遅れて到着した。病院関係者が下りてくるのを待つ間母と話そうと試みたのだが、この日の母はとにかく無口だった。もうあまり話す気力もない感じになってきたのだろうか。
 病院が用意したリクライニングチェアーに移動させたあと、介護タクシーの運転手は帰っていった。リクライニングチェアーを移す際、母は以前のような痛がり方をしなくなっていた。
 ふくやま病院においても、やはりCTやらなにやらと入院前検査が行われた。ただ老人の扱いに慣れているのか、それとももはや痛がる元気もなくなっているのか、母は言われるままに検査に応じていた。もっとも大学病院の時とは違い、すべての検査に私たちが立ち会うことはなく、すべて看護師の手によって行われていたのだが……。
 そして一時間ほど待っただろうか、この時点で時計はすでに十二時を回っていた。やがて病棟へと案内され、私と妻は別室で入院時の説明を受けていた。もうここまでくると病院の事情もだいたいわかるし、説明される内容にも目新しいものはなかった。
 ただ一つ違うことは、他の病院がすべて面会謝絶であるのに対し、ふくやま病院は新しいこともあってWeb面会というものをやっていたことである。事前予約をして、スカイプを使って面会ができるわけである。これは正直ありがたかった。古い病院だとこうはいかない。新しい病院であることから期待していたことが叶うのは、離れて暮らす姉や母の兄弟たちにとっても良いことであるのは間違いない。もちろん直接会って話ができることが一番望ましいのだが、この社会的状況だとそうも言っていられない。だいたい私たちですら入院中は会えないのである。何もないよりは何かあった方がいい。
 そうこうするうちに、新しい主治医との面談となった。新しい主治医は立川医師といい、内科医であった。脳神経外科医や脳神経内科医ではなかったが、実質的にその病棟の責任者も兼ねている人だった。その病院はグループでいくつかの病院を持っており、その中には脳外科医もいてデータの共有を行っていたわけだが、母の様子を直接的に見てくれるのはその医師ということだった。
「大学病院の方からデータはいただいておりますし、だいたいのことは伺っています」と言って、母のCT画像を見ながら話が行われた。
「脳腫瘍というのは他のがんと違って、痛みといったはっきり目に見える症状が無いんですよ。CTもそんなに頻繁に撮れるわけではないですし、この病院にはMRIがありませんので、脳腫瘍が今後どういうふうになっていくかはわかりません。当院の所属するグループの脳神経外科医が定期的に来ますので、その医師と相談しながら今後進めていくことになります」
という説明を受けた。
 その後は、誤飲性肺炎を起こしやすい状況にあること、リハビリもどのようなサイクルで行っていくかといったことに関する説明を受けた。
 それからまた看護師から病院での細々とした説明を受けて、その日に私たちができることはすべて終わった。老人医療の専門病院であることからいろいろなことが手馴れているような印象を受けた。
「じゃぁお帰りになる前にお話ししていかれますか」
と言われ、看護師が先導してくれて母のいるところへと向かった。母は着替えを済ませているようで、病室へと案内されることになったのだが、説明を受けた部屋を出てすぐのところで、私たちを無表情でじっと見つめる視線に気づいた。
 母だった。
 正直私もそれが母だと最初はわからなかった。それは妻もそうで、私が気づいてようやくそれが母だとわかったくらいだった。顔からは表情がほとんど失われていた。口角は完全に下に下がっていて、リクライニングチェアーに座って右を向いていた。
「お母さん、また来るからね」
と私も妻も母の横にしゃがんで母の手をとってそう言った。そう言いながら、「次」がいつになるのか私もまったくわからなかった。胸が締めつけられるように苦しくなった。
「……ありがとうね……」
と母は表情をほとんど変えずに私と妻にかすれた声で言った。ここでもう少し言葉を交わせればいいのだが、母の口からは「ありがとう」しか出てこなかった。そのぐらいしか言葉を絞り出すことはできなかったのかもしれない。
 いつまでもそこにいるわけにもいかず、後ろ髪を引かれるような思いで私と妻は病棟を後にすることにした。
 少し進んだところで私は後ろを振り返った。母の首は真横を向いたままで、こちらの方を目で追うことはまったくしていなかった。いや、ひょっとするとそれでも目で追っていたつもりだったのかもしれない。だが母の体はまったく動かず、首を真横に向けて、全然違う方向を向いていた。その姿が瞼にやきついて離れなくなった。
 この選択肢しかないことはわかっている。私たちにとってはこれが考えうる最善の策なのである。だが割り切れない思いはどうしても残ってしまう。コロナさえなければ、毎日でも会いに来ることは可能なのだ。毎日会いに来ることでこの思いを少しでも和らげることはできたはずだ。
 大学病院では秋本さんが
「ご家族と会えない中で発狂してしまう人も出ているんです」
と言ったことが思い出される。一人で入院するというのはそれだけ精神的な負担になるものだ。加えて誰も訪ねてこない、介護してくれるのはみな赤の他人ともなれば、発狂するというのもあり得ないことではない。少し的外れなことかもしれないが、最初の緊急事態宣言が解除され、少しずついろいろな規制を緩和することが検討され始めた中に病院の面会も含まれていた。だからこそ規制を緩和する動きというものに私は期待した。だがすべて政府のキャンペーンなどのせいにするのは良くないことだとしても、キャンペーンの影響もあって正常性バイアスがかかってしまったために感染拡大がまた始まってしまった。当然規制緩和などあっという間に吹っ飛んでしまった。そんな中で母を病院に預けなければならないというのは、どうしても苦しい。そんな中での母の真横を向いた姿を目にして、苦しくならないはずがない。この思いはずっとこれからも続くのだろう。そしてこの思いは、私と妻にしか共有できない、裏を返せば当事者以外には誰にもわからない思いなのであろう。
 遅めの昼食を済ませた私たちは、帰宅後早速姉と母の兄弟たちにWeb面会のことを伝えた。母の兄弟は高齢でもあってなかなか難しそうだった。姉は十一月一日に会いに来ないと判断したことを「一生後悔する」と言っていたので、おそらくWeb面会はやってくれるだろうと思った。

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