花のかげ~第1章 萌芽(3)

三.大学病院での受診

 母が私の家に来たのが十三日の金曜日だった。不吉を意味するこの日を笑い飛ばしながら週末を過ごした。そのころは毎日が晴天で、母も何度か来たことがある桂田ではあったものの、もっとその土地の雰囲気を知りたいと言っては散歩に出かけることがあった。
 週が明けた十六日の月曜日に、いよいよ母が大学病院で受診することになった。初診であるため手続きが思いのほか煩瑣であることと、新型コロナウィルスに神経を使う病院の誘導のぎこちなさもあって思いのほか時間がかかることになった。
 最初は総合受付というところに行って初診の手続きを行った。ここは初診の患者だけでなく、さまざまな事務手続きを行うところであるためいつも混んでいる。加えて座席も一つ開けて座らなければならず、そのために立っていなければならない人もいつもより多かったことから一層混んでいるように思えた。
 手続きはすべてタブレットを使って行い、タブレットに字を書くのに慣れない母を妻が一つ一つ教えながら手続きを進めていった。
「なんだって最新の設備なんだねぇ」
と母がしみじみと言っていたが、私がその病院で初診の手続きをしたのはずいぶんと前のことだったため、私であってもその手続きには戸惑ったかもしれない。
 その日はちょうど私も定期通院の日であったため、母のことは妻にまかせ、自分の診療科の方に向かうことにした。何歩か行った後で振り返えると、あれこれと二人でやっている姿が後ろから見え、なんともほほえましい関係の二人に見えてしまった。
 ちなみに妻と母の関係は良好である。嫁と姑の確執のようなものを昔から聞いていたせいか、母は嫁との関係を悪くしたくないという思いはもともと強かった。もっとも妻がとても穏やかな性格であることが両者の関係を悪くしない一番の原因であることは間違いない。母が私の家を訪ねてきた時は、いつも二人でお茶を飲みながら他愛もない話に興じていることが多い。たまに会うから仲が良くて済んでいるんだ、という人もいるかもしれない。だが少なくとも母が私の家を訪ねてきた時には、お互いに気をつかい、穏やかな関係でいることが当たり前になっていた。息子の嫁に対するいろいろな思いはあったのかどうかは知らないが、詮索するほうが無粋というものだろう。母は直接本人には言わずに、私に愚痴をこぼす可能性もあったわけだが、私が結婚して以来、母が妻のことを悪く言うことなど一度としてなかった。そういうわけで、私から見て二人の関係が悪化するような要因など何一つとしてなかった。
 そのため、私は大事なところで母を妻に任せられるのである。妻の穏やかさには感謝してもしきれないし、その後も妻の穏やかさが何度私を救ったか数えきれない。また何より母が、妻の穏やかさの恩恵にあずかっていたことは間違いない。
 私が診察室を終え、薬をもらった後に母の診療科へ向かうと、すでに診察は終わってしまっていた。脳神経内科の医師はとてもやさしい人だったらしく、母は「すごくいい先生だったよ」と満面の笑みで言った。診察前の「大学病院の先生だから気難しくて怖い人なんじゃないかね」と不安に思っていたのがどこへやら、という感じである。
 しかし紹介状と一緒に渡されたMRIの画像を見てもその医師にもその影の正体はわからなかったらしく、もう少し変化が無いと何とも言えないということであった。場所が脳でなければすぐに組織採取も可能なのだろうが、頭蓋骨で守られた脳の組織はそう簡単に取れるものではない。そのため少し間をおいてMRIをもう一度撮ることになったわけだが、妻も仕事がどうなるかわからない状況でそれだけの期間を開けるわけにはいかず、無理を言って二週間後の四月六日に撮影ということになった。運悪く私はその日は仕事が入っていたので、また妻に任せることになってしまった。だが妻が無理を言って四月六日にしてもらうというこの判断は、結果的に良かったことになる。
 MRI撮影の際に造影剤を入れることに対しての同意書にサインした母の字を見て、脳神経内科の医師は「字がとてもお上手ですね」と褒めてくれた。母の字は自分の父親譲りの立派な字で、昔から褒められることが多かったわけだが、字がしっかり書けるということも、脳神経内科的には意味があることなのかもしれない。
 そこからは穏やかな毎日が続くことになった。二週間何もすることが無いことになり、母は毎日散歩に精を出した。「歩けなくなると困るから」というのが口癖だったが、田舎にいるときも筋トレに精を出し、母の体力は八十歳にしては結構ある方ではなかっただろうか。散歩が終わると昼寝をしたり映画を見たりと、「暇だ、暇だ」と言いながらその毎日を楽しんでいる様子だった。園芸が趣味でもあったので、プランターや土、苗をみんなでホームセンターに買いに行って、殺風景な我が家に花を並べてもらった。父が生きていたころに同居を持ちかけた時にも、「家の庭を花でいっぱいにしてくれ」と言っていたので、それは母の生活に張りをもたらすものとして既定路線でもあったわけである。そうやって三月の下旬は何ごともなく穏やかに過ぎていった。ある意味ではこの二週間が、母にとっても私たちにとっても一番幸せな時間だったかもしれない。

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