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関友美の連載コラム「“いい酒”は銘柄を覚えていない」(リカーズ4月号)

2022.04_関氏 (1)

 札幌の卒業式は吹雪くことも少なくなかったため、本州に移り住んで「桜吹雪の卒業式、という歌の歌詞は本当だったのか!」と驚いたものでした。
上京して6度の引っ越しを経験しました。3度目の引っ越しの時、中野区のアパートに移り住みました。決して広いとはいえない1K16m²でも、一人暮らしには十二分で、山手通りが近いのに、のんびり穏やかな町並みが気に入っていました。丸の内線も心地よくて、深酒して終電を逃しても頑張れば新宿駅からも歩ける立地、というのも当時重要だったのです。そしてなにより、大家さんが素敵でこの家に決めました。


 大家さんは、優しいご夫婦でした。お父さんは、定年後も会社通いされている現役。「ハッハッハッ」と、大げさな笑い方が気持ちいい白髪の紳士で、お酒好きです。お母さんは園芸が趣味で、お花を美しく咲かせる天才。おっとり天然かと思いきや、鋭い考察を見せる先進的な女性です。渋谷にロープウェイがあった時代、新宿に都庁が建った頃・・・わたしの知らない東京の話をたくさん聞かせてくれました。今でも「東京のお父さんお母さん」と、慕っています。
 日本酒の世界に入ったのは、このアパートに住む頃でした。魅了され色んな日本酒を飲み、酒蔵に行き、OLをしながら日本酒バーで副業し、執筆を頼まれ勉強し、夢中で過ごした日々でした。人生の大きな転換期です。


 退去後も交流は続き、お父さん行きつけの新橋の居酒屋さんで一緒に飲むこともありました。その日は自家製からすみが自慢の、玄人好みの店へ。ふたりで飲んだ酒は・・・はて?あの酒はなんだったか?熱燗も飲んだぞ?・・・自分としたことが、いくら悩んでも銘柄を覚えていないのです。

 
 散々頭をひねった後で、ふと数年前に訪れた島根にある李白酒造を思い出しました。取材時、田中社長は「李白の酒は、味わいが話題にならない方がいい。会話を止めることなく、気づいたら無くなっている酒が理想」と話してくれました。いかにインパクトある酒をつくろうか、という業界にあって、その発言は心に残りました。改めて振り返ると・・・銘柄は忘れても、「この酒はお口に合うかな?」という問いに「おいしいです!」と答えた後のお父さんの笑顔と自分の晴々しい気持ちはよく覚えています。田中社長、こういうことなんですね。“いい酒”っていうのは、最高の脇役として大切な人との間を繋いでくれる酒のことかもしれません。さりげない酒を精一杯醸す。酒蔵の美学を感じます。
また大家さんと一緒に飲みたいなぁ。


●今月のピックアップ酒蔵
李白酒造
明治15(1882)創業。詩人・李白に因み「李白」と命名された。4代目は早くから海外に目を向け普及活動を進めてきたので、海外でも人気が高い。5代目・田中裕一郎氏と右腕的存在である妹の路子氏とで「食事をおいしくする酒」「100種類の中の1つではなく、食卓定番の1本」になるべく、全ての酒の原料にこだわる酒づくりを続けている。

以上

庄司酒店発刊「リカーズ」連載日本酒コラム
関友美の「そうだ。日本酒を飲もう。」4月号より

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