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【エッセイ】 もとまちユニオン②

子どものころの記憶

 子どものころに初めて見た風景は、猛烈に覚えている。
 
 もとまちユニオンを出て、山下公園へ歩いた。

明治屋ストアーから山下公園へ

 山下公園へ曲がる角に明治屋があった。私が初めて横浜に来たのは小学2年生のとき(1974年)だったが、山下公園への途中に明治屋に寄った。田舎には八百屋や魚屋の大きいのしかなかったので、菓子や缶詰がきれいに並べられ、外国のものが多かったのが小学生の私に新鮮だった。
 その明治屋は、私が大人になって、時々横浜に来るようになってもあり続けた。前を通るたびに、その記憶を反芻した。初めてきた“大都会”の経験のひとつだったので、この明治屋も特別な場所だった。
 明治屋山下町ストアーは2015年にビル建て替えにため閉店した。
 
 風景の思い出はバージョンアップされにくい。
 明治屋のあった角を曲がり、正面に山下公園が見えてきた。山下公園の脇をつたって鉄道が高架で走っていた。「山下臨港線」という貨物線(鉄道)が、海岸通りと並行して走っていた。これも廃線となり、その高架も撤去され、通りの手前から公園の岸壁まで見通せるようになっているのだが、山下公園の近くに行くたびに、この高架が今もあるような気がする。
 子どものころから鉄道が好きだった私にとって、氷川丸よりも、目の前の高架に列車が来ないかということのほうが気なっていた。初めての路線を見ると、ここにはどんな列車が走っているのだろうと思うのは今も変わらない。

あの場所はどこだったのだろう?

 このときは家族旅行。初めての東京で、足を延ばして横浜まで来た。
 
 昭和も長く、私が生まれるずっと前の話だが、戦後の民主化まで地主・小作があったし、在郷の子どもたちが町の商家へ働き出されることもあった。宮沢賢治の文章や、テレビドラマ『おしん』をご存じの方は想像できるだろう。ほとんどが貧しい時代である。
 そんななか、母の家は割と裕福な文房具や本を売る商店だった。使用人が数人いて、その中に十代の女の子もいたと聞く。家族同様にその子も養っていたらしい。女の子は「子守」だったそうだ。「子守」とは、大人が働いている間、その家の子守を主に行う人である。
 母が子守をしてもらったその方が後にお住まいになったのが横浜で、この時横浜に来たのは、母がこの方に会いに行きたかったためだ。昼頃にお邪魔し、午後に山下公園から中華街へまわって夕食に中華料理を食べた。
 あのお宅は横浜のどこだったのか、ずっと気になっている。片側2車線の広い道路が上り坂になっていた。山を削って通したようで両側が斜面になったっていた。左に入る脇道があって、そこを入るとすぐに練炭やガスを売る燃料店があった。その記憶は鮮やかだ。
 その方を訪ねたいでなく、ただただ、あそこはどこだったかずっと気になっている。
 母に聞けばよかったが、わざわざ聞くでもなく、そのままにしていたら母は他界した。交友関係の住所を書いたメモ帳があったような気がして、大事にしているものをしまっていた箪笥の引き出しを見たが、そんなメモ帳はなかった。

山下公園
中華街

革ジャンやサーキュラースカートって素敵じゃない!

 話はもとに戻る。
 お天気がよく、暖かかったので、道すがらも山下公園も気持ちよく、岸壁から氷川丸越しに見る空と海は澄み切っていた。土曜日で人も多い。どういうグループなのか、60年代ロカビリーのチームがダンスを踊っていた。リーゼントやロカビリーヘア、革ジャンやサーキュラースカートで決めている揃いの姿がかっこよかった。あんなファッションも素敵だと心ざわめいた。
 中華街はすぐである。そこを抜けようと思ったが、観光客が多く一本脇の道を関内駅まで歩くことにした。
 いまどき、”観光地“ はどこも混んでいる。

 横浜駅に戻ろうと思った。
 あの日、横浜駅からタクシーに乗ってその方のお宅まで行ったが、乗り際にみた横浜駅の駅舎の記憶も鮮明だ。

 ※明治屋…ワイン・ウイスキー・パスタ等の直輸入品等、高質な世界の食
      品を取揃えている老舗スーパーマーケット。

  追伸 文中で探している場所。ここではないか?という見当がおありの
     方は、教えてください。

(2023年12月 9日)

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