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仕組みの変え方について

私の仕事は高校の教員です。

高校は義務教育ではありませんので無理に来なくてもいいです。でも高校来てみたら楽しいこともけっこうあります。
一方で高校生には色々な生徒がいて、何のために高校に来てるんだろうか?と思う生徒もいます。

高校の教員は楽しいしですし、やりがいも感じられるので好きになれる仕事です。
一方で高校の教員には色々な人がいて、何にやりがいを感じているのだろうか?と思う教員もいます。

今のままでは多くの高校が、行く意味のない教育機関になってしまいます。もはや時間の問題です。すでに高校で頑張ることに価値を感じることができない人は、大人も子供も日本には一定数存在します。

この構造には、仕組みに問題があると私は考えていて、こう見えて活字好きで読書家の私が、影響を受けたと思われる本1冊、スピーチ1個、曲の歌詞1つを紹介し、思う所を書かせていただきます。

いつも長くなるので今日こそは短く


サピエンス全史での「虚構」

私がこれまで強いインパクトをうけてきた書籍の1つに「サピエンス全史」というホモサピエンスの特性の様なものについて書かれた書籍があります。その中で著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏が表現に用いていた用語(の日本語訳)で「虚構」という概念があります。ホモサピエンスが繁栄できた理由の1つにみんなでこの「虚構」を信じることができたから、という説を理詰めで説明されています。

ここで書かれる「虚構」とは、実態の無いものであって、多くの人が信じることによって影響力を持ち、集団を統率するためにはとても便利な概念のことです。例えば法律、お金、宗教、国家などです。確かに、誰か1人だけが強く信じても、みんなが信じてくれないと成り立たないものですよね。

人はいつの時代もこの虚構に守られ、虚構に苦しめられ、歴史と共に人類の幸福も不幸も作り出してきた概念でございます。虚構を信じることができるのはホモサピエンスだけで、他の動物とかは虚構を信じてないので、虚構に守られていませんが、一方で気持ちラクそうでいいですよね。

当時30代前半だった(はず?)の私はとても感化され、強い衝撃を受けたとともに、知的好奇心に火を付けられた思い出があります。


村上春樹氏のエルサレムスピーチ

これも当時は有名になったスピーチですが、作家の村上春樹氏が、社会の中の個人のためのエルサレム賞(通称エルサレム賞)という名の文学賞を受賞し、現地にて行われたスピーチがあります。

村上春樹 エルサレム、とかで検索すればすぐに全文見れると思います。

このスピーチの中で村上春樹氏は個人を「卵」、システムを「壁」という表現を用いて表し、ハラリ氏の虚構と同様に人が作った「壁」によって人が守られている一方で、人が作ったはずの「壁」が人を冷酷なまでに容赦なく不幸にしている側面について、投げつけられた卵がいともたやすく潰れる様子を訴えています。

サピエンス全史の日本語訳が出る前の出来事で、当時28か29歳だった(はず?)の私にとっては衝撃で、1年くらい山ごもりしたくなるほど考えさせられることがありました。


尾崎豊の卒業

私と年齢の近い日本人であれば1番なじみがあると思います。日本では言わずと知れたカリスマである尾崎豊氏の作品の1つに卒業という歌があります。歌詞に登場する「学校」という概念ですが、自由を奪い支配する象徴として書かれています。

私とこの曲と出会いがいつなのかは覚えていません。物心ついたときにはあったんだと思います。私が中学生の時にはすでにありましたし、もっと前の小学生の時にも聞き覚えくらいはあったような記憶があります。

卒業の中で歌われている支配の象徴としての学校、そこで生徒たちの自由を奪うために実働する先生、何も気付かずに支配される同級生たち、当時としては過激であった表現もあり、多くの人の心に刺さった渾身の一作です。


3つの作品に共通するもの

ハラリの虚構
春樹の壁
豊の学校

3つに共通しているものは仕組みの功と罪です。

そんな、人が人を守るために作ったはずなのに人を不幸にしている仕組みが、私はここ最近特に目につくようになってきています。
仕組みが作られ実装された当時はおそらく、多くの人を豊かにするものだったはずです。ですが、時代が変わり、社会が変わり、人の価値観が変わった今では、人の「やりたいこと」を仕組みが制限している構図が至る所で見受けられます。

変化に応じていつでも仕組みを変えることができればいいんでしょうが、実際変えられている仕組みはたくさんありますが、時代の変化や価値観の変化に追いついていないものもたくさんあります。
簡単に言うと、後から簡単に変えることができないような仕組みが多いんです。

わかりやすい例えが学校です。
学校には様々な仕組みがあります。
生徒を守る仕組みもあれば、生徒の自由を制限する仕組みもあります。
授業、成績、校則、学校行事、部活動、、、、あげればきりがありませんね。その中でも「○○指導」や「○○学習」というような名のつくものはとりわけ聖域化されています。さらに教育課程、校内人事、校務分掌、教育行政などの様に、重要な仕組みほど大きく仕上がってしまい、状況に応じて柔軟に変化することが難しくなってしまっているケースも多いです。

学校の仕組みが現代の社会に適していればいいんですけどね、多くは昔できた仕組みですので難しいですよね。

これらは全て「虚構」であり、冷酷なまでに卵の殻を破壊する「壁」として、「学校」に君臨しながら今もなお権威性を振るっています。
個人が、これは良い仕組みではない!変えなければ!と声を上げ行動しても、大きく仕組みを作りかえることはできません。無力さだけが可視化される現代です。

学校に限らず、この仕組みに対して個人は次の2つに収束される未来が想定できます。

1つは頑張るだけ無駄と捉えて無気力化すること
もう1つはハラリや春樹や豊のように表現すること

つまり個人のレベルでは何もできないということです。
生徒も教員も、学校ではやりたいことが制限される、強引にやろうとすれば潰される、無気力化することが最も効率よく自分を守るための最適解である。という結論になってしまうのもしょうがないことですよね。

人は、未来永劫この仕組みから逃れることはできず、社会がどのような変化を辿ったとしてもいつの時代も共通して、幸福も不幸も元をたどれば仕組みから発生し続けるんだと私は思っています。

仕組みを動かす方法があります。

そんな、どうにもできない仕組みですが、変える方法はあると思います。

変えることに成功してきた仕組みも、過去にはたくさん事例あるので、たぶん思っている以上にけっこう可能です。実際に学校の仕組みも少しずつ変化していて、現代に応じた形へと実装されているケースは多いです。

間違いなく言えることは、個人レベルで変えることができる仕組みはほとんど無いか、あってもすごく影響力の小さい仕組みだけであって、世の中の多くの仕組みは個人レベルで変えることはできません。そんな仕組みを変えることは可能でその方法はというと、、、

個人どうしが繋がることです。

どう頑張っても手も足も出ない、まったくもってどうしようもできない、お手上げ降参状態の仕組みでも、個人レベルの話ってだけであって、個人どうしが繋がることで仕組みを動かすことは可能だと思います。

豊の学校も
春樹の壁も
ハラリの虚構も

私たちは「個人どうしが繋がることで変えることができる」という力を与えられているのです。

具体的にどう繋がればいいのか?
繋がることで何ができるようになるのか?

これについては、現在進行中であるのと、書くとまた長くなるのと、その他諸々の理由で今回は書き控えさせていただきます。
ということで、この辺で失礼します。



言葉足らずでつたない文章お許しください。
貴重なお時間を消費して読んでいただいたことに感謝します。







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