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【論考】苦しみの比較は可能でしょうか?

私たちは、日常生活における困難を、避けよう、避けようと「後向き」に思って過ごすより、山中鹿介のように「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と「前向き」に思って過ごした方が、たとえ困難に遭遇したとしても、「こんな困難はまだまだ大したことはない」と思えるかもしれません。

しかしながら、ここで次の問いが生じます。

それは、「困難よ、来い」と「前向き」に思っている人は、「アウシュビッツの困難(苦難)」も、はたして「前向き」にとらえられるのだろうか、という問いです。

本稿では、「苦しみの比較は可能でしょうか?」と題して、この問いを考えてみたいと思います。

実はこの問いが議論される際、この問い自体が、私たちのある種の先入観によって、ゆがんでとらえられてしまうのです。その先入観により、問いが次のように変換されてしまいます。

「Aさんが日常生活で直面する困難」と「アウシュビッツの困難(苦難)」を同一平面で扱えるか?

これは、「Aさんの苦しみ」と「アウシュビッツの苦しみ」を相対化し、大小・強弱を客観的に測定できるかという問いとして扱う、と言いかえることができます。

ところが、この苦しみの相対化は、実際には不可能なのです。

なぜならば、苦しみに客観的な大小・強弱の基準はないからです(納得のいかない方は、誰がその基準を決めるのか、と考えてみるとよいと思います)。

また、この苦しみの基準が無いことは、次の場面を想像すると理解しやすいと思います。

「みんな経験したこと、みんな苦しんだのだから、君もがんばれ」という発言に対して、反発を抱いたことのある方はいないでしょうか。つまり、「Aさんに耐えられた苦しみは、君にも耐えられる苦しみだ」という第三者の考えは何を根拠にしているのか、ということです。根拠はない、と言えないでしょうか。

しかし反面、「あの人もがんばっているのだから、私もがんばろう」と、「みずから」思えることはありえます。

この「第三者」と「みずから」の違いが重要なのでしょう。

前者が「第三者的ながんばれ」であるとすれば、後者は「当事者的ながんばろう」ではないでしょうか。


ー 結論 ー

外側から第三者的な視点で、AさんとBさんの困難の苦しみを比較できるという先入観が誤りなのです。

つまり、第三者が「Aさんの苦しみは乗り越えられると思うが、Bさんの苦しみは乗り越えられないだろう」という判断が、一見できそうで、できないものなのです。

この場合、それは「第三者の基準」でしかなく、その基準を「普遍的な基準」と誤って思い込んでしまっているのです。

第三者から「困難を乗り越えろ」と言われるのではなく、自分が自分の直面している「困難を乗り越えよう」と思えたならば、それはどんな困難であっても乗り越えられるのかもしれません。

困難を乗り越えた証言者が、『夜と霧』(みすず書房)の著者であるヴィクトール・E・フランクルなのではないでしょうか。

(了)

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