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コロナ罹患1周年に際して

去年のちょうどいまごろ、新型コロナウイルスへの罹患が判明した。ある日の朝、目覚めると体温は39度超え。小学生のときに急性腸炎で救急病院に運び込まれて以来の数字に、浣腸から逃げ回ったいやな記憶が蘇った。

当然、出勤するわけにもいかず保健所に電話を入れる。最寄りの内科を紹介され、抗体検査を受けた。その時点での所見は「まあまあ、ここ数日の行動を聞くにただの風邪やと思うけど」というもの。翌日、ただの風邪ではないことが明らかになった。

間髪を置かず、自宅マンションの前に保健所からつかわされたワゴン車が乗りつける。でかい病院で改めて検査を受け、入院かホテル療養かをジャッジするというわけだ。車内はビニールシートで運転席と後部座席を隔てただけ。運転手のおじさんは防護服に身を包むでもなく、ただマスクをしているだけだった。過酷な労働環境だ。

高松赤十字病院に到着し、PCR検査を2回とレントゲンの撮影に臨む。鼻腔をぐりぐりやられるのは、予想通りのろくでもない体験だった。これがいやだったから、コロナには感染したくなかったのだ。

ほどなくして結果が出る。「肺に白い影が出てるから肺炎ですね。入院やね」とのことだった。発熱以外に息苦しさも味覚障害も感じていなかったので、この宣告には大いに喫驚させられた。ホテル療養に決まっているとたかをくくっていたので、入院に必要なタオルの類は持参していなかった。

防護服姿の看護師さんに、これまた完全防備の車椅子に乗せられ、個室に通される。都合2週間にもおよぶ断酒道場の幕開けだった。無論、禁煙も強いられることになった。北向きの窓外には高松シンボルタワー。最寄りのオーセンティック食事処であるところの公楽食堂に行けていないな、そんな感慨を抱くばかりだった。

しばらくしてYouTubeで香川県の会見をチェック。大都市圏より感染者数が少ないこともあり、「◯◯例目、30代男性の会社員……」と、ごていねいな説明がなされる。まぎれもなく僕のことだ。ここでようやく、自分が流行り病に冒されている実感を持つに至る。あの映像は永久保存版だ。

日が傾き、夕食の時間がやってきた。やはり防護服姿の看護師さんが配膳を担当。当時はワクチンなど行き渡っていない時期だったけど、向こうから世間話を向けてくれる。よくしゃべる。単純にありがたい話だった。

あとから聞いた話によると、高松でホテル療養になった人は三食揚げものオンパレードだったらしい。たいへんだ。その点、栄養士による初めての病院食は変化に富んでいて救われた。3日に1回はうどんが出てくるのは完全に土地柄だ。大量提供ゆえに伸びることを見越しているのか、終始スープ別添のぶっかけうどんだったところに、うどん県の執念を見た。

また一方では「日赤特製」なるフレーズが冠されたデザートなんかも出てきて、微笑ましい気持ちにさせられた。産直の商品のラベルに印刷された、生産者の顔写真を眺めているような気分になった。介護施設の取材で「食事は利用者の数少ない楽しみのひとつ」とよく聞いていたけど、その気持ちがよく分かった。

ワールドワイドウェブの大海に溺れることも、もうひとつの楽しみにあたるわけだけど、Wi-Fiのパスワードが開示されていない環境下では、2GBプランはあまりにも無力。あっけなくパケ死を喫し、自宅にはないテレビを見てひまをやり過ごすことになった。竹野内豊と広末涼子が主演の20年前のドラマの再放送が、せめてもの楽しみになった。ありがとう、OHK岡山放送。ちなみに僕は竹野内豊と誕生日と身長が同じである。

入院から3日も経ったころであろうか。個人的に一番つらい「症状」が立ち現れた。フケである。僕のいたフロアには共用の風呂しかなく、当然それは利用できない。頭髪はオイリーになり、フケも出てくる。倦怠感もへったくれもない以上、僕にとってのコロナ療養はかゆみとの戦いと同義といってよかった。自らがロン毛であることを初めて呪った。

にもかかわらず、2日に1回のPCR検査の結果は優れない。当時の基準は陰性が3回続かないことには退院できないというものだったが、陰性になったかと思えばその次は陽性というような状況だった。鼻を棒でかき回される行為に対する受け身が熟達するばかりだった。

入院生活も10日を過ぎ、主治医から「さすがにそろそろ退院できるはず」と聞くも、検査の結果が安定しない日々が続く。すでに大阪に帰ることが決まっていたので、引っ越しに間に合うかどうかやきもきするようになっていた。精神衛生は確実にむしばまれていった。2週間と少しが過ぎたころ、晴れて退院が決まった。

その報を受けるのも、もちろん遠隔だ。「今日こそはシャバに」と思いながらもかなわなかった、iPadでのやりとり。帰阪のスケジュールを知っていた主治医、看護師のみなさんが拍手で祝ってくれた。高松はいいところだった。

必要書類の記入を済ませ、半月ぶりに社会に放り出される。今度はワゴン車の送迎はない。県庁を過ぎ、中央公園沿いを歩く。幹部が大麻栽培でパクられた新鮮市場きむらに寄る。当時の自宅までは普段は歩いて帰れる距離だったが、確かな体力の減退を感じざるをえなかった。タクシーを拾った。

自宅に着き、白昼から久々に飲酒をした。タバコも吸った。これといった感動はなかった。やっとこさ、日常を取り戻したんだなというふうに理解した。

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