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カルメン・ブラック(前半)

 カレンさんは、当店のお客様です。
 当店は、万年筆の専門店です。ですが、カレンさんは、当店でご自身がお使いになる万年筆をお求めになられたことはございません。というのは、カレンさんは、当店が主催していたペン習字教室の生徒さんでございまして、お使いになるペンは、教室に通われるようになる前からお持ちだったものですから。確か、パイロットのエラボーをお使いでしたね。ええ、大変書き味のよい万年筆です。当店でも人気の商品のひとつです。カレンさんがご自分のペンをどこでお求めになられたのか・・・それは私にはわかりかねます。ひょっとしたら、ご主人からのプレゼントかもしれませんが、それは私の想像の域を出ないことです。私は、ご主人にはお会いしたことがありませんし。
 先生にお願いして、当店でペン習字の教室を行いましたのは、去年の春のことです。それまでは、夏の文化講座を別にすれば、ただただ愚直に万年筆を売っていればいいと考えていたのですが、何か新しいことを始めたいと思っているというようなことを、ふっと何かの時に申しましたら、先生からご提案をいただきましたもので。
 先生は、当店開店以来のお客様で、ええ、ずっとご贔屓にしていただいておりますから、もう長いおつきあいです。カルチャーセンターや文化施設の講座でご指導しておられますので、お名前を申し上げれば、その方面にご興味がおありの方ならご存じの方も多いでしょう。先生は、区の文化施設が改装工事にはいるためにそこでの講座が休講になるということで、その時間が空くことになったそうなのでして、私が冗談半分に、では当店でお教室を開かれてはいかがですかと申しましたら、もう大乗気で、じゃあすぐにやろうとおっしゃってくださったのです。
 趣旨としては、万年筆を用いたペン習字。当店のお客様でなくても、万年筆をお持ちならどなたでも参加できて、月二回、隔週での実習講座。場所は当店の談話スペースです。筆箱みたいに小さな店ですので、少人数制でやるということは最初から決まっておりました。先生も、アットホームな雰囲気でやりたいね、とおっしゃってくださいました。詰め込んでも八人が限度かと思われましたので、四、五人が理想だなあなどと先生と話しておりました。
 やると決めてから第一回の講座を開くまで、あまり時間もなかったので、生徒さんが集まらなかったらどうしようと心配しておりましたが、当店の常連のお客様に直接ご案内したり、ホームページにも記事をアップしたりしましたら、講座を実施できる最小限の人数はお申し込みをいただきまして、無事、開講のはこびとなったのでございます。
 初回の講座で顔を合わせたのは、私と先生、それにテラシマさんとおっしゃる当店の常連のお客様と、カレンさんでした。
 カレンさんは、先ほど申し上げたとおり、もともとは当店のお客様ではありませんでして、ホームページの記事をご覧になって、興味をお持ちになったのだそうでございます。最初は私がメールでやりとりをいたしました。大変丁寧な言葉遣いのメールでしたので、それなりの年輩の奥様かなと私は考えておりました。しかし、講座でお会いしたカレンさんは、妙齢の美しいご婦人でございました。レジンのペン軸のように艶やかなお肌と、モンブランのインクのようにミステリアスな黒髪のご様子から、たいへんに若々しく見えました。そして一方で、少し頬を桜色に輝かせながら、ふっくらとした唇でお話されると、大変知的な大人の女性であることも伺えました。
 このように申し上げたからといって、美人についての一般論をひきあいに出して、カレンさんが、お高くとまった鼻持ちならないタイプの女性であると思われては困ります。事実は全くの反対で、カレンさんは、気さくで朗らかな、うちとけやすい淑女でした。下品に堕することは決してありませんでしたけれど、時には、中学生の女の子のようにくだけて振る舞うこともあって、私たちをびっくりさせることもあったほどで。しかし不思議なもので、外見のエレガントさと、内面のミステリアスさが、奇妙な調和を保って成立しているのが、カレンさんという女性でした。万年筆でたとえると、艶やかなセルロイドの太軸ボディに小振りなペン先がついているような感じ、と言えば分かっていただけるでしょうか。
 あれこれ申しましたが、つまり一言で言えば、カレンさんは、ある種麻薬的な魅力をもった美しい大人の女性だったわけです。あと、付け加えることがあるとすれば、大変おしゃれな女性でもありました。私は、女性のファッションのことはよく分かりませんが、季節にあったシックで好ましい服をよくお召しでした。それも、ただ単に、雑誌に載っているようなコーディネートをそのまま着るのではなくて、どこか一カ所二カ所着崩して、あえて様になっていない感じを演出しておられました。そして、カレンさんのくだけた内面がその着崩したところ・・・たとえばすこし斜にしたスカーフからこぼれる首筋の白い肌とか、ちょうどいい丈よりは少し短いクロップトパンツの裾のスリットからのぞくふくらはぎのなめらかさとか・・・から香るようでありました。でも、それがカレンさんのねらったとおりの「あえて」なのか、全くの自然にそうなったのかは分かりません。そういう危ういところも、たしかに、カレンさんにはありました。


 講座は、その四人でスタートいたしました。
 隔週で一年間の予定でした。年度明けには、区の文化施設の改装が終わり、先生はそちらのお教室に戻られることになっておりましたから。後から希望者があればご参加いただいても構わなかったのですが、あまり増えすぎても困ると思いましたので、ホームページの告知もすぐにとりさげてしまいましたし、結局、これ以上に人数は増えませんでした。
 先生は、大変穏やかなお人柄の方で、講座は終始和やかな雰囲気でした。書く、ということについては、妥協せず、真摯でありましたが、私たちにご指導なさるときには決して高圧的でも強制的でもなく、あくまでやわらかい調子で、私たち生徒の柄となりにあわせて、根気よく教えてくださいました。先生は、私と同じ、中年といわれる年頃です。私はこう見えて店の外では、けっこう短気で頑固な、思いこんだらまっすぐのタイプですから、同じ年頃でも私とは人間のできがちがうなあと感心いたしました。そりゃもちろん、私だってお客様に万年筆をおすすめするときは、お客様に調子をあわせてお声掛けいたしますが、なかなかうまくいかないなと感じることがよくあります。
 私事を申したついでに告白いたしますが、私も、生徒として講座に参加させていただきました。私もこういう商売ですので、多少は心得はあったのですが、気持ちをまっすぐにして紙と向かい合う機会は減っておりましたから、指先はすっかりなまくらになってしまっておりました。ですので、ペン先に砥石をあてなおすようなつもりで参加することにしたのです。
 私がそのように申しますと、カレンさんとテラシマさんも、私も似たようなものだとおっしゃってくださったのですが、なかなかどうして、お二人とも達筆でいらっしゃったので、万年筆店の店主としては面目がたたぬ限りで、恥ずかしい思いをいたしました。
 そうそう、テラシマさんのことをお話ししておりませんでしたね。
 テラシマさんは、当店のご近所にお住まいの、私と先生よりはすこし年輩の紳士です。市役所にお勤めだそうで、ご自分ではもうすでに何本も素敵な万年筆をお持ちだったのですが、奥様にプレゼントするアウロラをお買い上げいただいたのがご縁で、当店とおつきあいしていただくようになりました。奥様はあまり万年筆はお使いにならないので、アウロラはたびたびインク詰まりをおこしまして、私のもとに帰って参ります。そのたびに洗浄してお返しするのですが、テラシマさんはそのたびにインクをお求めになっていかれます。万年筆の洗浄は無償で行っておりまして、しかしテラシマさんは、それじゃ申し訳ないから、とおっしゃり、お仕事で使うインクをだいたい季節に一度、お買い上げいただいております。一度、ご自身にも奥様とおそろいのアウロラをいかがですか、とおすすめしたことがありまして、するとテラシマさんは朗らかに笑って大きなおなかをさすりながら、「アウロラはきれいだけど、私にはちょっと華やかすぎて、きっと似合わないよ」とおっしゃりました。私は、そういう方にこそ、オプティマみたいな華のある万年筆が似合うと思っているんですけれどもね。テラシマさんのレギュラーの万年筆は、セーラーです。軽くて手に負担がかからないから、仕事でもプライベートでもこれしか使わないとおっしゃっておられました。ええ、地味ですがいいペンです。当店でもお取り扱いがあります。
 ちなみに、先生がお使いの万年筆も、セーラーです。小振りなペン先と太めのボディで扱いやすいとおっしゃっておられました。あと、軽いので、毛筆を持った感覚に近いのだそうです。
 あ、私のペンですか? 申し上げるほどのことではないのですが、古いモンブランを使っております。ですが近頃は出番がすっかり減ってしまいました。私もパソコンを使うことが多くなりましたから、書き物をする機会はかなり少なくなりましたので。それにそのモンブランはなにせ骨董品なのです。ですから、例えばブログの下書きのような普段使いには、ペリカンとパイロットを使っております。
 舶来ものではペリカンは、当店の主力商品です。多くのお客様にお求めいただいて、その書き味にご満足いただいております。また当店では、インクやシース、紙類もお取り扱いいたしております。ペンシースの品ぞろえは、ちょっとほかのお店ではまねできないほど豊富だと自負しておりますし、オリジナルのインクもご好評をいただいておりまして、ご愛用くださっているお客様もたくさんいらっしゃいます。


 さて、教室は予定通り一年で終わり、最後の日には照明を淡くした店内で、季節にあわせて梅の香りのするワインを抜いて、ささやかなお別れ会もいたしました。
 その春、先生とテラシマさんはもともと当店の常連様でいらっしゃいますので、一度ずつお顔を拝見する機会はありましたが、カレンさんがお見えになることはありませんでした。周年記念の限定モデルのペンみたいだね、とテラシマさんはおっしゃりました。なるほど面白い、ええ本当にそうだと、私も思いました。カレンさんは、とても魅力的な女性でしたから。普段使いするわけではなくても、書斎の引き出しに一本忍ばせておきたい・・・限定モデルのペン、特に舶来ものには、そういう欲望をかきたてる魅力があります。
 私は、何とはなしにではありますが、カレンさんにまたお会いしたいなあと願っておりました。ええ、とても素敵な方でしたから。先生とテラシマさんもきっとそう考えておいでだったと思います。もっとも、万年筆屋としては、一本あつらえさせていただけたら最高だなあと思っておりましたが、それは過ぎたる願いというものでございます。
 カレンさんは、先生のお教室が終わってからはお姿を見なくなっていたので、私もすっかり忘れかかっておりました。けれど、そのカレンさんが当店にふっとお立ち寄りになったのは、春が去り、梅雨の気配がようやく遠ざかった夏のはじめでした。司法試験受験生のお客様の波もようやくとぎれて、店が少し息をつく、そういう頃です。もっとはっきり言ってしまえば、商売の暇な季節でした。
 当店は、繁華街のあたりから少し山の手にはずれた、官公庁街との境目にありまして、築三十年あまりのビルの一階にあります。一階とは言っても、ビルの立地がやや急な坂の途中にあり、当店は北向きの、坂の上の方を向いた一角でございますので、道路から少し下がった床面の、半地下のような格好になっております。隠れ家的・・・と言えば格好はよいですが、要するに、店をやるには少し目立ちにくい、家賃の安いところに店を構えているわけです。
 その日は、ペン先調整のご予約もなく、今日はボウズかなあ、などと思いながら、ホームページに載せるコラムの作文などをいたしておりました。私が書き物やペン先の調整に使う机は、お客様が見えた時にすぐ気づくよう、入り口扉のすぐ横の大きな窓に並べてあります。座って外を見ますと、視界の下半分は、半地下の薄暗いスペースと当店へ降りてくる煉瓦づくりの階段です。階段の脇には、お客様の通行のじゃまにならないように隅に寄せて、デュオフォールドみたいなオレンジ色をした、私の通勤用の折りたたみ自転車が、コンクリートで塗ったわずかな隙間に停めてあります。そして視界の上半分では、まっすぐな夏の日差しに焼かれた風景が、ハレーションを起こしたように、真っ白に輝いておりました。私は、窓の外と原稿用紙を見比べて、自分用のシルバーンのキャップを何度も明けたり閉めたりしながら、ゆったりとした気持ちで・・・ええ、店を開けているときに、このようなプライベートまじりの気分にひたるのは不適切だったと思います・・・すすまない原稿を、空の明るさのせいにして、コーヒーをなめるように飲んでおりました。
 ぼんやりとしておりましたら、ふっとコーヒーの香りが強くなったような気がした後、ナッツのような甘い香水の香りが優しく私の鼻をくすぐりました。当店のスタッフに、そういう種類の香水をつける者はおりませんので、私は驚いて顔をあげました。申し訳ないことに、私はカレンさんがお店に入られた扉の音に、気づかなかったのです。
「こんにちは、ご無沙汰しております」
 そうご挨拶をいただいてから、私はあわてて立ち上がりました。カレンさんはにっこりと、水辺の葦のように微笑んでおられました。私は、あまりにもあわててしまいまして、いらっしゃいませも申しませんでした。そのことには、カレンさんがお帰りになられてから気づいたほど、私はどきどきしていました。
 カレンさんは、夏の海風を思わせるような白のワンピースをお召しになり、つばの大きなリボン付きの麦わら帽子をかぶっておられました。そして、日焼け予防の手袋を外した手でそっと帽子をとると、なつかしむように上着かけに吊しました。鎖骨が少しのぞく首元が、汗に濡れて淡く光っておりました。
「今日は、暑いですわ。・・・お変わりありませんか?」
「ええ、おかげさまで。今日は、本当に暑いですね」
 カレンさんは、ふっと困ったように笑いました。
「コーヒーのいい匂いですね。こんなに暑いのに、ホットを召し上がるんですか?」
「はい、コーヒーはホットが好きですので、年がら年中、ホットで頂きます。アイスは、飲まないこともないのですけど、苦手なもので・・・」
 私は、特にせめられた訳でもないのに、何となく恥ずかしくなって、コーヒーのマグカップにシリコンのふたをかぶせ、そっと机の端によけました。そして、もうコーヒーのことを話さずにすむように、立ち上がってカレンさんにたずねました。
「今日は、何かご用ですか」
「そうなの。一本差しのペンシースをひとつ、いただきたくて。あるかしら」
「ございます、こちらへどうぞ」
 私は、カレンさんをペンシースを納めた戸棚の方へご案内しました。狭い店なものですから、商品を並べるスペースがあまりありませんので、ペンシースは数種しかお客様の目に触れるところには並べていないのですけれど、実はけっこう、何種類も用意してあるのです。
 私は、ショーケースの上に、ベロアを張ったトレイを出して、そこに一本差しのペンシースを並べました。
「まあ、たくさんあるのね。どれもきれい・・・迷うわ」
「ペンシースは、まず、サイズが大事です。どのようなペンを納められるおつもりですか?」
 カレンさんは、小さなショルダーバッグの中から、アウロラの化粧箱を取り出しました。開封いたしますと、中からは鮮やかな赤のペンが出て参りました。オプティマです。特別サイズというほどではありませんが、持ちごたえのある、女性の手にはやや大柄なペンと言っていいでしょう。カレンさんの手のサイズなら、キャップを背にささずに使うのが適当かもしれません。私はそんなことを考えましたが、今はそれを口に出さず、オプティマの収まりのよさそうなモデルのシースを選んで、小さすぎるものと大きすぎるものを片づけました。
「このペンでしたら・・・このあたりが適当だと思います」
「どれがいいかしら」
「色も、まだいくつかございます。どれでもカレンさんのお好きなものでいいと思いますが、ペンと同じ色のシースにしておくと、見分けがつきやすくて、実用的です。あるいは、オーソドックスな皮の色・・・染めのない茶や、ベージュ、黒にしておくと、ほかの色のペンとも相性がいいです。どうぞ、実際に差してみて、ゆっくりお選びになってください」
「そうねえ。でも、やっぱり、ナミキさんが選んでくださらないかしら。私、よくわからないわ」
 私は、ちょっと得意になりつつも、困った笑顔でその申し出をお受けしました。カレンさんがお持ちになるのに、生成りの皮の色というのは、なんだか野暮なような気がします。赤のシースもあるのですが、オプティマのビビッドな赤とあわせると、ちょっとどぎついでしょうか。
「これなど、いかがでしょう」
 私は、カレンさんがお召しのワンピースのような純白のシースを取り上げて、カレンさんに差し出しました。
「すてきな色!」
「どうぞ、挿してみてください」
 オプティマは、あつらえたようにすっと、カレンさんの白魚の指から純白のシースに収まりました。私の胸は高鳴りました。
「いかがでしょう」
「とてもいいと思います。頂戴しますわ」
 私はほっとしつつも、鼻が高い思いをいたしました。おすすめしたものをお客様に気に入っていただけるのは、商売人冥利につきるというものです。
 少し気が大きくなったからでしょうか、普段はこんな不躾なことは言わないように気をつけているのですが、私はお会計のレジをうっている時にふと思ったことをカレンさんにたずねてみました。
「このオプティマは、どちらで?」
 カレンさんは、首を傾げました。どうも、そのペンがオプティマという名前だということをご存じないのだということに気づき、「その赤い万年筆ですが」と私は添えました。カレンさんは、やっと分かったというように微笑んで、「実は・・・先生に頂いたんです」とおっしゃいました。
「先生?」
「ええ、先生です。ほら、去年こちらでお世話になった・・・」
「ああ、先生ですか。すみません、気づかなくて」
「春から、カルチャースクールで先生の開いていらっしゃるお教室で、続けてお世話になっているんです。先生は私のことを覚えていてくださって、先だって、お食事に誘って頂いて、そのときにプレゼントしてくださったんです」
 私は、正直、ちょっと困りました。聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がいたしました。私はひとり勝手に居心地の悪さを覚えて、オプティマのインク窓をのぞき、「まだインクはお入れになってないんですね」などと大きな声でつぶやきました。
 するとカレンさんは、ばつが悪そうな笑顔を浮かべて、
「私、インクの入れ方を知らないんです。カートリッジを交換するタイプのものしか使ったことがないので。先生に聞けばよかったんですが、なんだか恥ずかしくて、聞けなくて。・・・あの、よかったら入れ方を教えていただけませんか?」
 と仰いました。もちろん、それも私の仕事のうちですから、何のご遠慮もいりません。ボトルインクはお持ちですかと訪ねますと、まだもっていらっしゃらないとお応えになり、それも本日お求めになると仰ってくださいました。
 今度は、インクの棚の前にカレンさんをご案内しました。
「どのような色にいたしましょう」
「まあ、たくさんあるのね。決められないわ」
 当店では、標準的に使われているインクはどのメーカーのものでも一通り在庫しております。ブルーブラック系だけでも十種類以上はありますし、当店のオリジナルもございます。私はまず、万年筆の用途をおたずねしました。カレンさんは、せっかく先生に頂いたから、お教室で使いたいと仰りました。ならば黒がいい。しかし、ペン習字ということであれば、描線のはっきりする顔料系がベストですが、少し扱いが難しいのが難点です。古典インクは保存に向きますが、やはり少し扱いにくいのと、用途がペン習字であれば長期保存の必要もないでしょう。ですので、トラブルの少ない染料インクがいいと思います。そんなことをお話ししながら、私はいくつかのブラックインクを取り出して並べました。
「色をご覧になりますか?」
「ええ、ぜひ」
 私は、机の方に移動して、私と向かい合うようにカレンさんに座っていただきました。そして、引き出しからガラスペンを取りだし、一つ一つのインクを空けて少量ずつ、試し書き用のパッドに線を引きました。
 濃厚なクリームの表面のように、しわ一つないつややかな紙上に、ぬらりと黒いシュプールが並びました。美しい、と私は思いました。このように美しいものをカレンさんにご披露し、またお試しいただいて楽しんでもらうのは、何よりうれしいことです。私は、それぞれのインクの特徴をお話ししながら、心を躍らせました。各メーカーの標準ブラックを試した後、最後に、当店のオリジナルインクを明けます。これは、香り付きのインクで、フルボディの赤ワインのようなフレーバーをつけてあります。色は少し赤みのあるブラックで、線の端のにじみの部分や、濃淡がつくところに、セピアがかった赤味がでるようにしてあります。人気のインクでして、カルメン・ブラックという名前で販売しております。
 案の定、カレンさんはこのカルメン・ブラックを大変気に入ってくださいました。香りもとてもよいと、お褒めくださいました。
 私は、インク補充のやり方を説明しながらカルメン・ブラックをオプティマに詰めて、「どうぞ書いてみてください」とカレンさんにお渡ししました。
 新しいパッドをご用意しました。柔らかな真四角のチーズみたいなパッドにカレンさんがペンを滑らせると、カレンさんのほっそりした淡い桜色の爪先から立ち上ったインクの香りが、甘く香ばしいカレンさんの香水の香りと混じって、私をぼうっとさせました。
「素敵・・・とっても素敵です。いい色ですね」
「ありがとうございます」
 カレンさんは、オプティマのキャップを閉めながら、くすっと笑いました。
「おかしいわ」
「なにか、不具合がありましたか?」
「そうじゃなくて・・・ナミキさんって、もっと物静かな人だと思ってましたわ。万年筆のことになると、とってもおしゃべりですのね。子どもみたい」
 私がなんと応えていいかわからなくてもじもじしておりますと、カレンさんは急にはっとした表情になって、「ごめんなさい、子どもみたいだなんて、失礼なこと、本当に私ったら・・・」とあわてた様子でいらっしゃるので、私もすっかりあわててしまって、「いえ違います、いえ違います」と何が違うのかもよく分からずに、両手を振り、ええもう、おかしいような恥ずかしいようなで、自分が何を言ったわけでもないくせにすっかり取り乱して、でも後からそれがどうにもおかしくて、カレンさんと顔を見合わせて笑い転げました。
 こんなに笑ったのは、いったいいつぶりだったか知れません。
 インクはサービスさせていただくことにいたしました。少し古いボトルでしたし、本日はシースもお買い上げ頂きましたので。カレンさんはお支払いすると言ってなかなか譲らなかったのですが、お断りしました。
 シースをお包みしようといたしましたら、「すぐに使うから、そのままで結構です」と仰っていただきましたので、セームで軽く拭き上げてから裸でお渡しいたしました。
 カレンさんの長い指が、鮮やかなアウロロイドの赤を白いシースに納めます。艶っぽい濃密な赤は、カレンさんの手に、よく映えました。アウロラは、カレンさんのお召しの白いワンピースに溶けてしまうがごとく、シースに収まりました。まるで、カレンさん自身の中に収まっていくかのように。けれど、ええもう私は、その指先を見ながら、それはそれは灼けつくような気持ちで、じりじりと笑顔を浮かべておりました。


 夏の間中、先生もカレンさんも当店にはお越しになりませんでした。
 夏は、商売の暇な季節です。万年筆の一番売れる季節は、春と冬です。春は新生活のスタートする季節として、よく文房具が売れますし、冬はクリスマスですから。秋には、夜長に手紙や日記をしたためることを楽しまれる方が多いと見えて、インクがよく出ます。けれど、夏だけはどうしても、売り上げが落ちます。これは当店にかぎったことではないのではないでしょうか。
 ですので、夏には臨時の文化講座をひらいて、常連のお客様などにご案内いたします。今年は、万年筆愛好家の集まりをとおして、去年ご縁のあった大学の国文学の先生をお招きし、「百人一首」を味わう講座を予定いたしました。ワインやコーヒーをいただきながらリラックスして先生の講義を聴いていただき、百人一首を短冊にうつしたり、実際に和歌をつくったりする講座です。予想を超える人気で、最初は夜に一度だけのつもりだったのでしたが、昼夜の二部入れ替え制にしなければとてもご案内できないほどのお申し込みを頂きました。
 こういう講座には、先生もよくお見えになるのですが、今年はどうもお仕事が忙しいようで、お申し込みをいただきませんでした。ホームページにも掲載いたしましたので、カレンさんもご存じだったと思うのですけれど、やはり音沙汰はありませんでした。
 ちなみに、テラシマさんは、講座に参加されていました。奥様もご一緒にご参加頂きまして、私は初めてテラシマさんの奥様にお会いしました。ええ、奥様のアウロラは何度も拝見したのですが、奥様ご自身とお話する機会はございませんでしたので。ええ、控えめな年輩の女性で、こう申しては何ですが、アウロラよりも、モンブランやペリカンの落ち着いた色目のペンが似合うのではないかと思いました。もっとも、直接にはテラシマさんにも奥様にも申し上げませんでしたが。テラシマさんの奥様はいつも、ヴィトンのポーチをお持ちになって講座に通っておられました。モノグラムのプリントは、真夏に持ち歩くには、少し重くて暑苦しい印象であったことは否めません。おそらく、ちょっと気持ちが高ぶっていらっしゃったのだと思います。お話させていただきますと、普段はこういう人の集まるところにはほとんど出ないのだけれど、詩歌が好きで、どうしても来てみたかったのだとおっしゃっておられましたから。
 講座を開くと、なるべく私も生徒として参加するようにしております。ええ、自分で店をもっていると、表に出てこのように教養を深める機会はなかなかもてませんし、実際に参加してみると生徒さんの感じ方がよく分かりますので、今後どういう講座を開こうか考える時の参考にもなりますので。今年の夏の講座は、大当たりでした。ええ、とても楽しかったです。「しのぶ恋」についてお話を頂戴し、講座の最後には、気に入った短歌を短冊に書いて朗読しあうということになったのですが、私は次の三首を選びました。

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
河原左大臣   
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
藤原実方朝臣   
逢ふことのたえてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし
中納言朝忠   

 この三首にはなんとはなしに感じ入るところがあって、いや、深い理由のあってのことではありません、しかし皆様の前で朗読を披露しました後で、にやにやしたテラシマさんからは、「何かつらいことでも?」と訪ねられました。いえ、本当に、気分で選んだだけのことですから、私としてはそのように問いつめられても応えようがなくて、困ってしまいました。ええ、だって「しのぶ恋」のお話だったのですから、おのずと選びたくなる歌は決まってくるものでしょう?
 夏の講座が閉講し、当店は遅めの夏休みを頂きまして、長かった残暑の季節を吹き飛ばす風がようやく吹き始めたころ、ふっとカレンさんが当店にお見えになりました。
「ペンシースを、また頂きたくて、伺いましたの」
 カレンさんは、秋らしくシックな濃紺のブラウスに、少しラメ感のある銀色に近い白のストールを巻いておられました。足下はスリムですが少し余裕のあるストレッチのジーンズをお召しでした。そして、バッグから取り出されたのは、セームに包んだ黒軸のエラボーでした。
 私は、そのペンに見覚えがありました。
「こちらは、去年の先生の講座でお使いになられたペンですね」
「そうです。いつもこうやって包んで、引き出しにしまっておくだけだったのですけれど、近頃は持ち出して外でも使うようになったんです。万年筆って、いいですわ。とてもエレガントな気分になれるんですもの」
「せっかくアウロラをお持ちなのですから、アウロラをお持ちになっては? とてもお似合いでしたよ。あるいは、ご事情があってエラボーをお持ち歩きになるようでしたら、先だってお求めになったシースに、このエラボーをさしてもよいと思いますが・・・」
「ええ、でも、せっかくだからひとつ頂こうと思って。・・・もちろん、こっちのペンをあの白いシースに試しに挿してみたりもしたのよ。けれど、白と黒じゃあ、なんだかお葬式みたいでしっくりこなかったの」
 私は「なるほど」とうなずいて、笑顔をつくりました。まあ、当店でお求めになっていただけるのはありがたいことですし、ペンごとにシースをあつらえるのも別に珍しいことではありません。私は、カレンさんをシースの棚の方へご案内し、例によっていくつかの色をならべました。
「また、見立ててくださる? ナミキさんにお任せしておけば、安心だと思うんです」
 私は、照れくさくて首を勢いよく左右に振りましたが、そうはしつつも、どの色がカレンさんに似合うかなあなどと、もう考えを巡らせ始めていたのです。
 カレンさんは、夏の間にどこか海のあるところにでもご旅行に行かれたのか、涼しげな寒天のように透き通った白だった肌が、焼けて淡いコーヒー色に染まっておりました。私はその肌の色の調子から、リラックスした野性のようなものを感じました。そこで私は、先にはカレンさんには似合わないと思った、シボのないスムースな生成りのものを手に取りました。
「これなどいかがでしょう? 生成りの色は黒のペンによく合いますし、派手さはありませんが普段使いには丁度いいかと思います。それに、使うと手の油がなじんで、色の深みが増して参りますので、長くお使いいただく楽しみもあります」
 カレンさんは、そのシースをとても気に入られ、すぐにお求め頂きました。
 このときには、カートリッジのかわりに挿して使うコンバータも併せてお買い上げになられました。先だってサービスさせて頂いたカルメン・ブラックがまだたくさん残っていて、このペンでも使いたいのだけれど何か方法はないかとご質問頂きましたので、コンバータをお勧めしたのです。パイロットのコンバータは大容量で扱いやすいプッシュ式ですから、どなたにもお勧めできます。さっそく使いたいということでしたので、すぐにエラボーの洗浄をし、コンバータを装着してお返しいたしました。ええ、ついでですので、コンバータの使い方をカレンさんに説明しがてら、試し書き用のカルメン・ブラックを詰めておきました。「何かおかえしをしないといけないわ」とカレンさんは恐縮しておられましたが、このくらいは、普通にサービスでさせていただいて問題ない範囲のことです。


 それから一週間と少したった頃でしょうか、先生が久し振りにお見えになられたのは。はっきりとは覚えておりませんがとにかく、そのカレンさんのご来店の少し後のことでした。
「これ、委託販売に出したいんだけど」
 そう仰って先生が私にお店になったのは、深紅のアウロラでした。
「ほとんど使ってないんだ。人にもらったんだけどね、その人にはもう会わなくなったし、仕事で使うにはちょっとペン先が硬いし」
 私は先生からアウロラを受け取って、まず軸の状態をあらためました。確かに先生がおっしゃる通り、ほとんど使った形跡はありません。「ケースはお持ちですか?」と伺うと、窓の外を睨みながら先生は、あるよとぶっきらぼうにおっしゃって、少し乱暴な手つきでそれを机に置きました。ケースのコンディションは良好なようでした。ケースは、中古で販売するときにはその有無で、少し値段が変わります。
 次に、ペン先のチェックをしようとキャップを開けますと、ふっとインクの香りがいたしました。私は、はっといたしました。この香りは明らかに、カルメン・ブラックの香りでした。
 パッドにペン先を滑らせますと、筆のあしあとに、赤黒いにじみが浮きます。もう間違いありません。このペンが飲んだのは、当店のカルメン・ブラックです。私は、記憶の中にある当店をご利用いただいたことのあるお客様のリストから、カルメン・ブラックをお求めになった方で、かつ、赤のオプティマをお使いの方をほとんど無意識のうちに探しました。思い当たる方は、おひとりだけでした。
 私は、ちょっと気を抜くと何か不適切なことを口走ってしまいそうで、強く唇を結んだまま、しばらくペンの査定をするふりをしておりました。もし・・・もし、私が考えていることが、まったくそのまま事実であれば、それは誰の名誉にもならないことです。私は、先生への無礼にならない範囲で、できるだけ事務的に対応することにいたしました。
「たいへん結構な品です。ですが、ペンポイントにわずかなずれがあるのが気になります。正直なところ・・・このぐらいが妥当な価格かと思いますが、いかがでしょう?」
 私は電卓に値段を打ち込んで、先生の方に差し出しました。先生は、目だけをぎょろりと動かし、その数字を確かめるか確かめないかのうちに、「いいよ、それでお願いしよう」とおっしゃいました。
 もちろん、私のことを信用してくださっているからわざわざ確かめるまでもない、ということだったのかもしれません。でも先生が、いかにも無愛想にそう仰ったように私にはきこえて、それからさらに、自分がどんな顔をしているのか気になって、もう、気が気ではありませんでした。
 じゃあよろしくね、と先生は仰って、すぐにお帰りになられました。扉を閉める手つきや、表の階段を上る足取りが、不機嫌そうだったのは、私の思いこみでしょうか。
 そういう経緯で、アウロラはしばらく当店の中古品コーナーに陳列されることになりましたが、その期間は案外と短かったのです。
 私にとっては少々悩ましい存在であるそのアウロラがやってきて二、三日の後に、仕事で使っている万年筆のペン先を曲げてしまったからすぐに直してほしいとテラシマさんからお電話を頂きました。テラシマさんは、当店から歩いて一〇分もかからないところにある役所でお仕事をされています。お昼休みにご来店とのことで、私が予定をあけておきましたら、お約束の通りにテラシマさんはいらっしゃいました。
「実は、仕事を持ち帰って、家で書類を書いていたら、そこに妻がやってきて、ちょっとサインしたいからそのペン貸して、と言うので、まあサインぐらいと思って渡したんですけど、そうしたら妻が手を滑らせて、落としてしまいましてね・・・ペン先から落ちたので、これはまずいなと思ったんだけど、案の定、書きにくくて。どうでしょう?」
「ええ、しっかり、曲がってますね」
 ペン先というのは、とても繊細です。曲がってずれてしまうと、すぐに書き味が変わってしまいます。そして、当店のお客様は、そういうことには特に敏感でいらっしゃいます。
 私が曲がったペン先を慎重に元通りに修正している間、テラシマさんは、店内をぶらぶらと歩いておられました。そして、中古品の棚にある、アウロラの前で足をとめました。
「このオプティマ、最近はいったの?」
「ええ、ほんの二、三日、前です。委託販売ですので、中古にしては少し高めのお値段ですが、モノは悪くありませんよ」
「きれいだね」
 私が、ありがとうございますとお返事するのに、少し間があいたのは、ペン先のスリット調整という集中力を要する作業に没頭していたからだと、私はそのように思います。
 まもなく、テラシマさんのセーラーの調整が終わりました。一度曲がったペン先の書き味を、全く元のとおりというわけにはいきませんが、まずまず満足のいく調整ができたと思います。テラシマさんにもご納得いただきました。
 テラシマさんは、自分のセーラーをシースに戻しながら、ちょっと照れくさそうに、「このオプティマ、ちょっと見せてもらってもいい?」と仰いました。悪かろうはずがありません。私はショーケースの中からあのオプティマを出して、つけペンの要領でインクをペン先につけ、テラシマさんにお試し頂きました。
「ちょっと書きにくいかな。調整は、してもらえるんでしょ?」
「はい、もちろん。販売価格とは別に調整費を頂戴する形にはなりますが。ケースもちゃんとございますので、見た目にも書き味も、ほとんど新品と同様になるでしょう」
「そうか・・・何か、ワケありなの?」
「いいえ、不良品だとか、そういうことではありません」
「安心していいんだね? じゃあ・・・これ、ください。ペン先は、少し直してもらって。あと、シースをひとつ欲しいな」
 即断即決でした。私は少し面食らいましたが、お買い上げになると仰っているのですから、まさかこちらからは何も申し上げることはございません。私は、早速ペン先調整の作業にとりかかりました。テラシマさんは少し極端にペンを寝かせ気味にして書くくせがございますので、テラシマさんのペンはいつもそれに合わせて調整します。今回もそうさせて頂いて結構ですかとお尋ねするとテラシマさんは、
「いや、普通の研ぎ方をしてください。・・・万年筆を欲しいと言っている友達がいるんです。その友達に、いい万年筆を見立ててほしいと頼まれていたのを思い出して。あー、いや、ナミキさんに嘘を言っても仕方がないな。実は、妻に、もう一本万年筆が欲しいと言われているんです。まったく、欲張りなやつでね、困りますよ」
 私は、はて、と首をひねりましたが、何も言いませんでした。
 調整を終えて、今度はペンシースを選びました。私は、テラシマさんの奥様がヴィトンのポーチをお持ちだったのを思い出して、ドットを飴色に染め抜いた砂鉄色のシースをお勧めしてみました。すると、テラシマさんは眉をひそめて首を振り、「もうちょっと、若々しくて、明るい色がいいな」と仰いました。
 次の候補に私が考えたのは、カレンさんがお買い上げになった純白のシースでしたが、それはあまりにも因縁が深すぎます。しかし生憎、他にこのペンにあいそうな色合いのシースはちょうど欠品中でだったもので、選択肢があまりありませんでした。そこで、先だってカレンさんにお求めいただいた生成りのものなら、少しは無難かと思って、お勧めしてみました。今度は、テラシマさんにご納得いただきました。
 テラシマさんは、帰り際、お会計をしようという段になって、「インクも買っていこう」と仰り、カルメン・ブラックをさっと手に取ってお買い上げになりました。
 ええ、こうなってくると、つくづく因縁だなあと、私はほとんど恐ろしいような心持ちで、うきうきと階段をのぼっていくテラシマさんの丸っこい背中を見送りました。


 そしてその年、またカレンさんが当店にお見えになったのは、秋が深まり、冬の気配がそっと忍び寄ってくるハロウィンのころでした。
 カレンさんは、鮮やかなオレンジ色をした薄手のトレンチコートをお召しになって、お見えになりました。私は、デュオフォールドの色だ、と思いました。窓の外にとめてある私の自転車と見比べても、同じくらいおいしそうな色でした。お肌の焼け具合は、すっかり戻ってもとの絹のように艶やかな白でした。
「以前、先生からきいたことがあるのですけれど、いらなくなった万年筆をこちらで引き取っていただけるんでしょうか?」
「ええ、そのようなこともいたしております。中古として買い取りをさせていただくか、あるいは委託販売という格好でお預かりすることもできますが」
 そう申し上げますと、カレンさんはあの、純白のペンシースを取り出しまして、スリットから深紅のアウロラをすっと抜き取りました。私は、思わずあっと声を上げそうになったのを、ようやくこらえました。
カレンさんは、照れるように笑って、「実は、先生のお教室をやめてしまったんです。そうしたら、もともと持っていた自分の万年筆は今でもよく使うのですけれど、こちらはほとんど使わなくなってしまって・・・。私も、万年筆のこと、少し勉強いたしましたわ。インクを入れたまま、ずっと使わないでいるのが万年筆にはよくないっていうことも知りましたの。だから、洗って置いておいたのですけど、でも、インクの入っていないペンって、いざ使おうって思ったその瞬間には書けないでしょう? そうすると、かわいそうに、この子の出番は全然こなくって。それでね、このまま私が持っていて、ずっと眠らせておくより、ナミキさんを通してどなたかこれを使ってくださる方のところへお嫁に行ってもらった方がいいんじゃないかって思ったんです」と仰いました。
 私は、大変失礼だったかとは思うのですが、ほとんど上の空でカレンさんの口上を聞き流しておりました。というのも、瞬きをするたびに、自分の瞼の裏に、先生とテラシマさんの顔が、スロットのようにぱちぱちと現れては消えておりましたから。
 カレンさんのお話の切れ目で、私が「なるほど、」と相づちをうちますと、カレンさんはもう一度、眉を八の字によせつつ照れくさそうに笑いました。私はなんだかもう、魔法にかかったような心地で、反射的に笑顔を浮かべてしまいまして、「買い取りか、委託か、どちらをご希望でしょうか?」と、それ以上の事情も聞かずに、お尋ねいたしました。
 カレンさんは、ちょっと首を傾げて考えるようなそぶりをなさり、けれど実はもう最初から決めていたという風にきっぱりと、「買い取りでお願いします」と仰いました。買い取りですと、在庫のリスクをこちらで背負い込む格好になりますので、カレンさんにお支払いする額は、多少、少なくなります。私は、買い取りをご希望のお客様には必ずそうするように、カレンさんにもそのように申し上げました。カレンさんはご承諾してくださいました。
「査定しますので、ちょっと拝見いたします」
 私は、オプティマを受け取って、ルーペでペン先の具合を確かめたり、クリップのメッキの傷の状態を確かめたりし始めました。私は、曲がりを直した跡をそのペン先に認めましたが、それが私の手による修繕かどうかは、はっきりとは申し上げられません。私が慎重に検査をしておりますと、あたたかな気配を耳のあたりに感じまして、目だけでちらりと確かめましたら、カレンさんのお顔がすぐそこにございました。
カレンさんは、私と一緒になってルーペをのぞき込みながら、私の耳元でそっと、こうささやきました。
「ナミキさん・・・このことは、先生やテラシマさんには、内緒にしてくださいね。私とナミキさんだけの秘密ですよ」
 あの、甘いナッツの香りの香水が、ふっとカレンさんの湿った息から漂い、私は頬のあたりにそれを感じました。私がどんな気分だったか・・・男性なら、どなたでも想像できることかと思います。私は、なるだけいつも通りの冷静さを装って営業用の笑顔をつくろい、「ええ、個人情報は、保護いたしますよ」と請け合いました。その試みは、成功したと思います。そうでなければ困ります。私は、この店の主人です。けれども、なんだか急に、私は自信をなくしてしまって、自分が主役の座を追われたように感じました。しかし、実際には、そんなことがあろうはずはありません。私は一城の主らしく、威厳をもって微笑むよう、努力いたしました。
 ペンのコンディションは、悪くありませんでした。先ほども申しました通り、ペン先の状態からは、それが私が研いだものかどうか・・・この場では、ちょっと判断しかねましたが。私は、いくらならお客様にお求めいただけそうか、売価を心の中でまず決め、買い取りの場合の歩合を掛け算して、カレンさんに買い取り価格を示しました。輸入元が決めている定価の四割弱、といったところだったと思いますが、カレンさんは納得してくださいました。
 私は、領収書にサインを頂いて、買い取り額を現金でカレンさんにお支払いしようとしました。
 ところが、カレンさんはそのお金をお受け取りにならずに、「あの・・・ペンシース、またいただけるかしら?」と仰って、ちょっとおどけた調子でバツが悪いような風を装い、肩をきゅっと首の方に寄せました。
 私は思わず、ぽかんとして、「はあ、」などと気の抜けた返事をしてしまい、恥ずかしくなってあわてて背筋をただしました。
「失礼いたしました・・・もちろん、結構でございます。たびたびご利用いただきまして、ありがたく存じます。では、このオプティマの代金からお支払い、ということですね」
「そうなんですの。今度は、二つ、お揃いで頂きたいんです。ひとつは私用に、一つはプレゼント用に。それで、その万年筆のお代金で、なるべく収まるように見立てていただきたいんですの」
 私は深呼吸いたしました。きっとカレンさんには、今度はどんなシースを見立てようか案をめぐらせている、というように見えたことでしょう。
「お納めになるペンは、お決まりですか?」
「なんて言ったかしら、鳥の名前の・・・」
「ペリカンでしょうか?」
「そう、それです。緑色の縞模様のやつです。けっこう大きなペンでした。私が持つと、ちょっと重くて。でもそれがいいんだっておっしゃってましたわ。もっと大きいのもあるけれど、これがベストサイズだって。で、私も万年筆を使っていると申しましたら、今度同じものをプレゼントしてくださるって、仰いましたの。ですから、せめてお返しに、シースを差し上げようと考えたんです」
 ペリカン・・・きっとM800のことだと、私はあたりをつけました。当店の在庫品をカレンさんにお見せすると、たしかにそれだと、カレンさんは顔を輝かせました。M800は、当店でも人気の、主力商品のひとつです。すばらしい製品ですが、よく売れる商品ですので、こうなってはちょっと個性に欠けるなあというのも確かです。いえ、しかし、本当にいいペンではあるのです。特に、速記力、インクフローとタッチの安定性という点においては、M800を越えるペンはそうありません。
 私は、ペリカンのサイズにフィットしそうなシースをいくつか用意しました。あのペンは、すとんとしたシルエットをもっておりますので、見た目の大きさの割には、コンパクトなのです。しかしながら私は、シースを用意しながら、もし私がカレンさんにペリカンをプレゼントするなら、ワンサイズ落としてM600を差し上げるのに、などと考えておりました。ええ、私はこう見えてもプロでございますので、お客様の手にあったペンのサイズというものを承知しております。カレンさんの手には、M800は明らかにオーバーサイズです。場合によっては、そのペリカンはこのアウロラと同じ運命をたどるのだろうなと・・・まことに失礼かとは思いますが、私は内心、優越感を感じつつ、ペリカンの紳士を哀れんでおりました。
 さて、お色は・・・とお伺いしようと思いましたら、カレンさんはやはり、「お見立てをお願いしてもいいですか?」と仰いました。
「そうですね・・・緑軸でしたら、同じ緑でそろえるのもよろしいですが、そでではひねりがありませんから・・・」
 私は、しばらく悩んでから、鮮やかなピンク色に染めたヤギ皮のシースをとりあげました。
「ちょっと派手に見えるかもしれませんけれど、カレンさんでしたら、きっとお似合いになると思います。もう三つ目ですから、少し遊んだ感じになさってみてはいかがでしょう? それに、ここまで思い切った色ですと、案外、男性が持っても様になるものでございます」
 私は、カレンさんがどんなお顔をなさるかと、少し心配しながらお勧めしてみたのですけれど、カレンさんは一瞬ぽかんとした表情を浮かべてから、少し困ったように笑って、「まあ、意外ね」と仰いました。私はカレンさんが気を悪くなされたかと思って、冗談ですと言いかけました。しかしカレンさんは、それを引っ込めようとする私の手から、明るいピンク色のシースをすっと横取りすると、
「ナミキさんって、案外、そういうところもおありなのね。気に入りましたわ、これ、頂戴します」
 と言って、さもおかしそうに声を立ててお笑いになりました。
 商品をお包みしてお会計をすませますと、私は、店が暇なときにはいつもそうするように、入り口まで進んでドアを開き、カレンさんを送り出そうといたしました。カレンさんは、「ありがとう」と仰り、透き通った秋の日差しのなかに出て行こうとされましたが、ふと足を止められて、私の方を向きました。
「ナミキさん、」
「本日はありがとうございました」
「また参りますわ」
「はい、お待ちしております。是非また、ご利用ください」
「今度、コーヒーをごちそうしてくださらない?」
「は?」
「お好きなんでしょう・・・? また、万年筆のお話を聞かせて欲しいわ。それに、ナミキさんがどんな万年筆を使ってらっしゃるのかも気になるし。もしお嫌でなければ、ナミキさんの万年筆を拝見できますかしら?」
「ええ結構です、もちろんですとも。私は、いつでもここで、カレンさんをお待ちしています」
「それじゃあ、またね」
 カレンさんは、梅の花のように朗らかに微笑みました。私はもう、自分がいったいどんな顔をしているのか、さっぱり分かりませんでした。たぶん、お客様をお送りするときはいつもそうするように、穏やかな笑顔を浮かべようとはしておりました。が、それが成功していたかどうかは、自分では何とも申し上げかねます。
 カレンさんが、ふっと頭を振ると、秋の日差しがまぶしい研ぎ澄まされた空気に、甘いナッツの香りが花びらのようにふわりと舞い散りました。そして私は、ほとんど無意識のうちに、胸一杯にその香りを吸い込んだのです。
 カレンさんがお帰りになった店内は、また静かになりました。
 私は、先ほど買い取りさせていただいたオプティマがまだ机のところに出しっぱなしになっていたのを取り上げました。新品の万年筆にはない、人の手の脂がほどよくなじんだ艶やかな手触りがいたしました。私は、ペンシースの棚から、デュオフォールドのイエローによく似た色のシースを取り出し、汗ばんだ指先でアウロラをその中に納めました。そして自分の財布を引き出しから出して、アウロラとシースの代金をレジの中に入れました。
 ええ、ええそうです。私はオプティマを、その美しいアウロラを、自分のものにしたい・・・ぜひそうしようと、そう心に決めておりましたから。

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