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カルメン・ブラック(後半)

 霜月にはいりますと、日の角度が変わって、当店のあたりは一日中日がささないようになります。当店には、夏にはアスファルトが照り返して店の中まではいってきて明るく、冷房のききが悪くなるほどなのですが、冬場は反対に、あの日差しが恋しくなるほど暗く、冷え冷えしてまいります。直射日光ではありませんけれども、店内が照明に頼らなくても明るい季節は、春を待たねばなりません。
 そして、暗いアスファルトから沸き立つ、悪霊のような冷気が階段を伝って降りてきて、私の足下をしんしんと冷やすようになりますと、クリスマス商戦の時期がやって参ります。当店の二つのピークの季節のうちのひとつ、春の卒業・入学祝いとならぶ繁忙期です。近頃は、万年筆がちょっとしたブームを迎えているそうで、一昨年あたりから当店にも一見のお客様がたくさん見えられ、万年筆をお買い上げ頂きました。プレゼント用に、という方もおられれば、ご自分用にご褒美として、という方もおられます。こうやって、手元に新しく万年筆を迎えられたお客様のうち何人かが、また当店のお得意さまとしてご来店いただけるはずです。すべての万年筆を、心を込めてご準備いたしました。ご満足いただけるといいのですが。
 当店で販売する万年筆はすべて、それぞれのお客様の書き癖にあわせて微調整を行ってからお渡ししております。プレゼント用の場合は、送り主のお客様に、お使いになる方のことを伺って、最低限の万人向けの調整をいたしますが、ご本人様用の場合でしたらその方の書き方を拝見し、筆記角度や筆圧に応じて、ペン先を研ぎ直します。そうすることで、最高の書き味をあじわっていただけるように、力の限り努力いたします。
 調整を行う場所は、いつも書き物につかっている机と同じです。すぐ脇にグラインダーと洗浄機があり、引き出しには調整のための治具や紙類がおさめられています。机はアンティークの柘植製で、ふだんはなるべくものを載せっぱなしにしないようにしております。窓際の隅に、日に当たらないように、コーヒーのマグカップとそのコースター、そして荷物の受け取りのサインやちょっとした書き物用に、太字の万年筆を一本と、ブラックのインク。このほかには、何かここで仕事をするとき以外にはものをおかないことにしております。
 その太字の万年筆は、以前には、開店記念に私が自分で買い求めた古いバカラのグラスにシースへ入れたシルバーンをおいておりましたが、今はそこにあのオプティマが私を待っております。シルバーンも、開店のときに新調したのです。もう何年も前のことですけれど。いいペンですが、地味な色合いでしたので、そこにオプティマをおくと、花が咲いたように机が明るくなりました。ちなみに、バカラには美しいカットが入っております。東ヨーロッパか中央アジアの古都を思わせるような、美しいカットです。そこに光があたると、シースに納まったオプティマは鮮やかな光のシャトーに閉じ込められます。
 机上のペンは、こんな時にも使います。たとえば、インターネットでご注文頂いて、宅急便で商品をお送りすることもあるのですが、そのような場合は、一筆箋に直筆で一言お礼を添えるのが私のやり方です。ネットですと、直接お客様と接することがございませんので、すこしでもこちらの体温みたいなものを感じて頂きたくて、そうしております。もちろん、今年はそのメッセージをオプティマで書いております。ちょっと色目が派手なペンですので、まだ手に取る度に緊張いたしますが、扱いやすいペンだと思っています。
 オプティマを手に取る度、カレンさんを思い出します。あれからカレンさんはお見えになりません。先生も、テラシマさんもお見えになりません。もちろん、ご用がなければお見えにならないのは当たり前なのですが、先生もテラシマさんも、いつもであれば季節に一度はインクをお求めにいらっしゃるのに、この秋はついにいらっしゃらず、こちらで何か失礼でもあったかと不安になります。テラシマさんはというと、ご本人はいらっしゃらなかったのですが、一度奥様がお見えになりました。お買い物に見えたわけではなく、足取りも荒くご来店されて私のところへいらっしゃいますと、「もう主人に万年筆を売らないでほしい」と私をお叱りになりました。このオプティマのことで、何か一悶着あったのかもしれません。とんだとばっちりではありますが、大切なお客様の奥様です、私は丁重に謝罪いたしました。
 万年筆を売るというのは、息の長い商売です。ペン一本に数万円というのはいかにも高額なようですが、いいペンは一生モノなのです。手に合わない安物の使い捨てを何本もお求めになるよりは、握り心地のいい最高の一本を大事に使っていただいた方がずっといいと、私は信じております。コレクターのような方は立て続けに何本もお求めになりますが、手書きで仕事をなさる文筆家のように六〇mlのインクをふた月待たずに使い切ってしまうような方でも、年に一度の調整点検、新しくペンをお求めになるのは数年に一度というような格好ですので、私が常連のお得意さまとして親しくしていただいているお客様でも年に二、三度のご来店というのは、まあ頻繁にいらしてくださる方かと思います。ですからカレンさんがまたお見えになるのが来年の春以降だっとしても、何の不思議もないことではあります。
 ですが、ハロウィンの少し前にご来店頂いたときのカレンさんのご様子から、私は勝手に、カレンさんにはそう間をあけずにご来店いただけるものと思いこんでおりました。あるいは、そう願っていたのかもしれません。コーヒーは、近所のロースターで半月ごとに焙煎したてのものを買うようにしていたのですが、カレンさんがいらしたときになるべく新しいものを召し上がっていただけるように、週に一度買うように致しました。
 まあ、そうはいいつつも、クリスマス当日を迎えるまでは、たくさんのお客様にご来店いただき、インターネットからもたくさんのご注文をお受けしましたので、なんとかクリスマスまでに商品が間に合うよう、忙しい日々が続いておりました。ですので、いよいよ歳の暮れが迫ってくるまでは、朝には入荷した商品を点検、陳列し、午後には接客、夜にはネット注文の商品の準備と発送と、余計なことを考える間もないほど仕事に没頭しておりましたので、カレンさんがお見えにならないことを深く悩むようなことはございませんでした。むしろ、このように忙しいころにご来店頂いても、十分なことができないのではと恐れておりましたので、かえって都合がよいというように考えるようにしておりました。本当に、ありがたいことに、冬を迎えてからクリスマスまでの間は、一筆箋に書いたメッセージのインクを乾かすのももどかしいほど、忙しかったのです。
 やがて、クリスマスが近づいて参りました。
 十二月も半ばを過ぎますと、お客様の波も少しずつ引いて参ります。そして、ひしめきあうようにお客様が肩を寄せて万年筆を選んでおられた店内には、また夏の静けさがかえってまいりました。立て続けに出勤してもらったスタッフにも、交代で休みをとってもらえるようになりました。このころになりますと、私もすこしほっといたします。そして、忙しかった秋から冬にかけての出来事をふりかえってブログの原稿を書いたり、新しく仕入れた在庫品をのんびり点検したりできるようになります。
 ブログの原稿を書く・・・ええ、私はとにかく旧式の人間ですから、文章を書くにはまず手書きです。ですので、ブログの文章はいちど必ず原稿用紙やパッドにペンでしたためてから、打ち直します。どういうわけだか、いきなりキーボードに向かっても、点滅するカーソルをじっと見つめてしまうばかりで、いっこうに作文ができません。
 手で書くとなれば、どうしてもアウロラを手に取らないわけにはいきません。すぐそこにありますから。しかし、ブログに何を書けばお客様が注目してくださるだろうか、とうことを考えねばならないのに、アウロラのキャップをつけたりはずしたりしているうちに、白い原稿用紙にはうっすらとカレンさんの笑顔が映って参ります。そうやってぼんやりしているうちに、原稿を書く気はすっかり失せてしまって、ペンはシースに戻り、かさかさしたため息ばかりが出ます。私は、何やら病にかかったようでした。
 クリスマスが近づくに従って、私の病は重くなるようでした。こんなことでは、とは思いつつも、仕事が暇になるにしたがって、仕事とは別のことを考える時間が増えて参ります。そうしておりますと、ふっと、百人一首のこの歌が私の口をついて出ました。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ることの弱りもぞする
式子内親王   

 毎年のことですが、年末は三十日まで営業しておりますけれども、万年筆をお求めになる最後のお客様のご来店は、たいてい二十四日の夕方頃までです。あとは、駆け込みで修繕の依頼にいらっしゃるお客様があるかないか、という程度でございますので、私の実質的な仕事は、クリスマス・イヴで終わってしまいます。
 今年のクリスマス・イヴには、昼頃にウォーターマンをお求めになられたお客様があり、その後にはご来店のお客様はいらっしゃいませんでした。ですので、夕方には仕事に見切りをつけてスタッフを帰宅させ、私は営業時間の終わりまで、この一年を振り返りながら、ぼんやりと窓の外を見て過ごしました。事務仕事やお得意様への賀状の準備も多少は残っておりましたが、明日から年の瀬まではおそらくボウズですから、仕事のための時間は、いくらでもあります。小なりとはいえ私も一国一城の主ですので、普段は仕事最優先で生きておりますが、今日ばかりは肩の力を抜いて、コーヒーでも味わいながらゆったりとすごそうと決めました。
 天気予報によりますと、今年のイヴは数年ぶりに穏やかな雪が私たちに祝福をあたえてくれるだろうとのことでした。
 店の奥でコーヒーを淹れ、私が机につきますと、冬色にそまった街が窓の外に見えました。足下に隠した電気ヒーターが、ちん、ちん、とささやいております。コーヒーは、いつもより甘く、濃厚な味わいがいたしました。鼻から湯気を吸い込みつつ、つややかな濃褐色の液体をふくみますと、歳が暮れるのだという安堵感と、これからクリスマスが始まるのだという高揚感が私に訪れました。ええ、私は、何か不思議な、素敵なことがおこってもおかしくないような、そんな予感を感じたのです。皆様も、そのような予感を覚えて心のふわふわを味わったことがおありでしょう? もっともたいていは、実際には何もおこらなくて、期待はずれだったことさえすぐに忘れてしまうのですが。
 もちろん、私もそれなりの年齢ですので、こんな心のふわふわを感じたからといって、普段は買わないけれど気まぐれに一枚だけ買った宝くじで一等が当たるようなラッキーを信じたりはいたしません。ですので、いつもであれば、今日はちょっと違う道で帰ってみようとか、ふだんしないようなことをちょっとしてみようとか、そういうことは絶対にしないのです。しないのですが、ええ、今日ばかりはどうしてか、何かスペシャルなことが本当におこるような気がして、いつもなら右に傾く天秤が、今日は左に傾きかけているのを、私は感じていました。
 ええ、それはもう絶対に、雪の予感と、コーヒーの酩酊と、そして机のはしのバカラの中で微笑んでいるアウロラのせいなのは、間違いのないことでした。
 結局、その日は閉店時間までお客様も見えず、私は店じまいをして身支度をし、シャッターをおろしました。
 頬を打つ冷たい風に、光の粒がまじっておりました。光の粒は、私の肌にあたってじわりと溶けます。手袋をしたてのひらを空に向かって差し出しますと、白くてはかない結晶がぽつぽつと集まりました。私はもう片方の手袋をはずして、結晶をつまみました。結晶はたちまち弾けて、裸の指先にしみこんでいきました。ああ、はかないな、と私は雪をあわれみました。それは、不器用な男のはかない願いのようでした。そして、手袋の上に残っているいくつかの結晶を、もう誰の手にも触れずにすむように、コーヒーの温もりが残る私の息で、ふっと空に返しました。
 私はたまらない気持ちになって、また店のシャッターをあけ、照明をおとした暗い店内をてさぐりで進み、机の上からあのアウロラをコートのポケットにシースごと入れました。そして、またシャッターをおろしました。
 私の足は、いつの間にやら、繁華街の方へ進んでおりました。私は、どこへ行こうとも決めぬまま、回転の弱くなった独楽のようにふらふらと街を逍遙いたしました。気がつけば、駅前の大きなロータリーまでやってきました。普段は、店と自宅の往復を自転車でするばかりでしたから、駅の方になどやってきたのは、本当に久しぶりのことで、私はどうしてこんなところにやってきたのか、苦笑いでもしたいような気分で応えのいらぬ自問をいたしました。私は、店のシャッターの前で凍えているであろうデュオフォールド色の私の自転車のことを思いました。今日一晩ぐらいは、我慢してもらってもいいだろうと、クリスマスの街の熱気にうかされながら、心の中で自転車に、苦笑いとともに謝罪をいたしました。
 私は、ロータリーの端に寄って、街頭の光のあたらぬところから、ぼんやりと人の往来を眺めておりました。実に、実に様々な人たちが、駅に吸い込まれたり、反対に吐き出されたりしています。立ち止まる人もありましたが、待ち人がくるとすぐに立ち去って行きました。私は久しぶりに見る人混みがうねるように流れていくのを、酔ったように眺めました。私のように、長くここにとどまる方はおられませんでした。人は皆、携帯端末を片手に、ほとんど走るような早さで行き来しております。しばし立ち止まるのは、待ち合わせの恋人たちか、それともご夫婦でしょうか。私は取り残されたような気分でした。
 私は手袋をはずし、ポケットに手を入れて、アウロラにそっとふれました。シースのざらざらとした革の手触りが指先に感じられました。私はポケットの中で、シースのスリットから指をいれては、アウロロイドのなめらかな手触りと、少し湿気を吸ってしっとりしはじめたシースの革の手触りとのコントラストを楽しみました。
 実に、ひそやかで、なまめかしい遊びです。万年筆のこんな楽しみ方を知っている人が、この往来のなかにもおられるでしょうか? 私はそうは思いません。こんなにたくさんの人間がいて、誰ひとりこの喜びを知らない・・・たぶん、先生もテラシマさんもご存じないだろうな、と私は思いました。そして、今度カレンさんに会うことがあったら、私はぜひ、このことをカレンさんにお話ししたいと・・・もちろん実際にカレンさんの手で、この触覚の楽しみを味わっていただきたいなと、そう思い、カレンさんの白くて細い指のことを考えました。
 やがて、雪が強くなって参りました。
 弱い風にのって、さあっと紙をなでるような音をたてながら、白い粒子の群がラジオのノイズのように風景をかすませます。ロータリーに屋根はございません。あちこちで喜びの声があがっておりましたが、ロータリーからは人影が消えました。私は、ハンチングのつばを、そっと目元に引き寄せました。私は、もともとこんな場所にくるつもりではありませんでしたから、自転車通勤に使っている濃い灰色をした防水のダウンを着ておりましたので、そのままロータリーにとどまりました。あたりが深々と静まりかえってきました。雪は音を吸うのだと、小学生だった頃に聞いた話を、ふっと思い出しました。
 予報ではそう降らないように言っていたはずなのに、雪はもう、冷え切ったアスファルトに薄くつもりはじめておりました。ロータリーを巡るバスやタクシーのタイヤが、みぞれ状のしぶきをあげております。空気はどんどん重く冷たくなって参ります。そして、街は死んだように、人の気配が遠ざかって、私のいるところだけぽっかりと穴があいたようでした。私は、すうっと意識が研ぎ澄まされるのを感じました。
 私は、ほとんど無人になったロータリーをはさんだ向こう側のビルの陰に、小さな人影がたたずんでいるのを認めました。
 女性でした。街灯のあたらない場所で、周囲より暗いトーンの一角でしたが、彼女は鮮やかなグリーンのコートを着ていました。その裾からは、赤みがかった黒のロングブーツの細いシルエットがのぞいています。やはり赤みがかった黒の、つばの広い帽子をかぶっていて、ほとんど金色のような鮮やかな黄色のマフラーを首にまき、すっと胸のあたりに余ったところを垂らしています。その明るいマフラーがまず目につき、それから少しずつすべてのディティールが意識されました。
 お顔は、帽子のつばにかくれてはっきりとは見えませんでしたが、それは間違いなくカレンさんだと、私は気づきました。そう思った瞬間、私は夏に嗅いだ、ナッツの香りの香水がふわりと漂ったような気がいたしました。私はほとんど無意識に、ポケットからアウロラを取り出しました。そしてシースからぬき、キャップをはずして、カルメン・ブラックの濃密なワインの香りを鼻先に近づけました。そうすると、こんなに私とカレンさんの場所ははなれているのに、その二人の距離だけが街から切り取られたように、しんと静まりかえって意識されました。
 雪が、相変わらず強く振っておりました。ますます冷え込んでいく街に、頬はほとんど凍りつきそうなほどなのに、手袋を外した私の手は汗ばんでおりました。私は、アウロラをシースに収めて、手袋をつけ直しました。そして、痛いほど硬くなった体をゆっくりと動かしました。ええ、カレンさんにお声をかけようと思ったのです。
 ロータリーの反対側へいこうと、駅の軒下をかすめたところで、大柄なひとりの男性が私の横を走っていきました。けっこうな勢いでしたので、私ははっととびのくようにして避けました。男性は、申し訳ないというように少し首を傾げて私に会釈したようでしたが、そのまままっすぐ行ってしまいました。
 私は立ち止まって、男性の行方を目で追いました。その男性を、カレンさんもまた見つめていました。私の位置からはもう、その女性がカレンさんだと、はっきり分かりました。カレンさんは、その男性に向き直り、会釈をいたしました。私は身の置き所がなくて、前にも進めず、後戻りもできず、雪の中にじりじりと立ち尽くしました。雪が私をカレンさんの視線から隠しているようでした。カレンさんは私に気づかぬまま、男性と二言三言交わしますと、手袋をはめた手で男性の手をそっと引きました。二人は駅に背を向けて、雪に閉じこめられた街へと消えていこうとします。私は、カレンさんに気づかれなかったことにほっとし、また同時に苛々といたしました。
 私は、何も考えておりませんでした。気がつけば、足が自ずと前に進んでおりました。そして彼方から人を見下ろす月のように、二人との距離をたもったまま、白く静まりかえった街へと踏み出したのです。
 人混みは雪を避けて、地下街やビルに逃げ込んだようで、街に人通りはほとんどなく、踵の音も高くうつむき加減で早足にすれちがう影がちらほらあるばかりです。車通りさえ、もうクリスマス自体が過ぎ去ってしまったかのように静かでした。タクシーのぼんぼりが、あきらめたようにのろのろと去っていきます。ただ、カレンさんとあの男性だけが、暖かそうな足取りで、肩を寄せ合って歩いておりました。そのふたつの背中を、私は追いました。私のことを気にとめるような目が周囲になかったのは幸いでした。もし私に気づいた人があったならきっと、幽霊かなにかのように見えたことでしょう。私は自分の意志で歩くというよりは、何か穏やかならぬ大きなものに手足を縛られてあやつられているようなものでしたから。
 私は、カレンさんたちの後を追って、何をしようとしていたのか・・・別に、これから起ころうとしていることを見届けたって、何になるわけでもないのです。私自身の役にたつこともなければ、それを先生やテラシマさんにご報告しても喜ばれはしないでしょう。第一、このような振る舞いは紳士にふさわしくないことです。これでも私は、紳士のはしくれとしての矜持を身につけているつもりですから。けれど、私のそんな思いとは裏腹に、体の方はほとんど自動的に動いておりました。悪い憑き物が私の中に宿ったかのようでした。私は、自分のこの行為をほとんど憎みさえしていたのに、どうしてもやり遂げなければならないと感じていました。
 雪は絶えることなく降ります。街は、いつもとはまるで違う顔をしておりました。ここはもはや、私のよく知っているなじみ深い街ではありませんでした。今何時だろうと思って左腕をさすると、時計がありませんでした。どうやら店に忘れてきたようです。
 私は、今まで自分が当たり前だと思っていた世界とは、全然別の世界に来てしまったような気がしました。街はまったくゆがんで見えました。すべての線が、墨汁をふくませすぎた筆で描いた時のように、滲んだりゆがんだりしていたのです。
 私は、磁石同士をつくかつかぬかの距離でもてあそぶように、二人に気づかれないぎりぎりの遠さを保って、街を歩きました。クリスマスだというのに、この突然の少し強すぎる雪のせいでしょう、本当に人影はまばらでした。たまに出会っても、幽霊のようにうつむいた人影は、足早に私たちとすれちがうばかりでした。
 知らぬ間に、私たちは繁華街を抜けて、石造りの古い洋館スタイルのビルが並ぶ旧居留地へと迷い込んでいました。ここまできますともう街のはずれに近いところですので、いよいよあたりは暗く寂しさを増して参ります。もう、私のつま先さえもほとんどアスファルトに溶けて薄暗く消えかかっているほどです。
 私は、カレンさんたちはいったいどこへ向かっているのかと、急に不安を覚えました。しかし、そう思った瞬間、二人の人影は街灯と街灯の間に立ち止まり、顔を寄せて何かをささやき交わしたあと、石造りのビルの壁にすっと染み込むようにして消えてしまいました。
 私は、あたりを注意深く見回しながら、二人の消えたあたりへと歩調を早めました。すると、壁と思われたところには、古い木造りの回転扉があって、中には青白く弱々しい灯りがともっております。ゆがんだガラスの向こうに、メニューを開いた台が見えました。どうも、レストランか何かのようでした。
 どのように行動するのが適当だったのか、私にはよく分かりません。後から思い返せば、もうここで正気に返って、引き返した方がよかったのだと思います。でも、私はどうも狂っていたようでした。ええ、そのようにしか申し上げようがありません。そうでなければ、コーヒー香りか、あるいはカルメン・ブラックの匂い、それとも・・・わたしの鼻孔が確かに記憶している、あのナッツのような甘い香水のエンドノートが、私を酔わせていたのです。
 灯りに誘われる愚かな蛾のように、私は回転扉を押して、そしてそこにあったメニューも店の名も確かめずに、奥へと進みました。
 回転扉をくぐると、急にしんといたしました。私は自分の鼓動さえ聞こえたほどです。自分のすこし荒くなった息が騒々しくさえありました。入ってすぐの小さなエントランスこそ、自分の靴の先も見えぬほど暗かったのですが、奥にはいかにも重そうな扉がもう一枚あって、真鍮製のハンドル式のノブが鈍い光沢を放っておりました。ハンドルの先には、陶器の握りがついております。正直、先に進むのはためらわれないでもありませんでしたが、ここまで来ておいて、今更引き返すのは赦されないような気がいたしましたので、ままよと勢いをつけて、私は握りに手をかけました。
 扉が開くと、思わず咳き込みそうになるほどの暖気が、むっとあふれました。
「いらっしゃいませ」
 ウェイトレスが慇懃に私を出迎えました。黒々としたくるぶし丈のサロンは、よく手入れされており、いかにもしつけの行き届いた店という感じがいたしました。私がハンチングをとって会釈をしましすと、ウェイトレスはにっこりと笑って「ご予約のお客様ですか?」と言いましたので、私は首を振りました。ウェイトレスは、笑顔のまま、少し、眉を寄せました。
「申し訳ないのですが、本日はご予約のお客様で満席でございます」
 なるほど、それはありえることです。なんと言っても今夜はクリスマス・イヴですから。店の奥からは、大勢が一斉にささやき交わすさざ波のようなざわめきが聞こえていました。時折、節度のある笑い声が混じります。ざわめきの下地になっているのは、静かなピアノトリオでした。クールなジャズに身を任せながら、愛する誰かと過ごすホワイト・クリスマス・・・そうです、こういう場所は愛し合う二人にこそふさわしい。ここは万年筆専門店ではないのですから。私は、ひとりでのこのことやってきた野暮にも気づかなかった自分を恥じると同時に、このレストランが予約で満席の人気店であったことに、感謝いたしました。
 私は、少しほっとした気持ちで「そうですか、ではまた今度伺います」と言いかけました。けれどウェイトレスは、私の後ろをうかがうように首を少し延ばすと、私がその短い言葉を言おうとしてすっと息を吸ったところをさえぎって、少し言いにくそうにしながら「あの、おひとりですか?」と問いかけました。
「ええ、ひとりです。・・・そこで雪に降られたものだから、ちょっと休ませてもらおうと思って」
「左様でしたか、でしたらバーを利用いただけます。もし必要なら、簡単な食事でよければ、そちらで召し上がっていただけますし。ご案内いたしますね」
 ウェイトレスは、私が何かを言う前にもう、私を出迎えたときの曇りのない笑顔に戻って、私を店の中へと促しておりました。私は、困ったことになったと思いつつも、ウェイトレスに従いました。だって、店の玄関に立ったのは私自身なのですから、ウェイトレスに何の落ち度がありましょう? 
 足下にお気をつけください、とウェイトレスに注意を促され、私は少し段差になったフロアを下って、店の中へ入りました。エントランスから人間の背丈の半分ほど下がったところが、奥行き十メートルほどで電車くらいの幅のバースペースになっていました。半地下の広い踊り場のような格好になっていて、その奥にはさらに下に下る階段らしいものがあります。そちらがダイニングになっているのでしょう。バースペースは、カウンターで二つに区切られており、びっしりと酒瓶でうまった壁面は穏やかな照明であたたかく照らされております。カウンターの中ではひとりのバーテンダーが忙しくシェイカーを振り、できあがったカクテルをウェイターたちが地下の方へとせっせと運んでおりました。酒瓶の棚は一カ所が切り欠いてあり、そこはカーテンがひかれていました。さっき、そこからワインのペールを持ったスタッフが出て参りましたので、彼はソムリエで、カーテンの奥はセラーかパントリーなのかもしれません。
 バーに客はありませんでした。ええ、つまり、私がたったひとりの、バーの客というわけでした。ウェイトレスに、どうぞとスツールを案内され、私は腰掛けました。
 ウェイトレスが下がり、忙しそうにしているバーテンダーが注文のカクテルを仕上げる合間にやってきて、私の前にうやうやしくコースターを差し出しました。
「いらっしゃいませ、何かおつくりいたしますか?」
 私は最初、ワインでも、と思っていたのですが、気が変わりました。このバーテンダーがまとっている空気は、明らかにプロフェッショナルのマントでした。高い技術とみなぎる自信を覆う漆黒のマントです。そして、私が万年筆のプロなら、彼はカクテルのプロです。ワインを要求するのは失礼というものでしょいう。いえ、もちろん彼は、私がワインを注文すれば顔色ひとつ変えずにワインを提供してくれるでしょうが、プロフェッショナル同士が対峙するこの場面で、あえて彼の専門外の注文をするのは、礼を欠くことだと思いました。それは、万年筆の専門店でシャープペンシルを探すようなものです。当店にもシャープペンシルの在庫はございますが、わきまえたお客様がお求めになる商品ではございません。私は彼に、「ギムレットを。ほんの少し、甘めにしてください」と注文しました。
 差し出されたギムレットは、はっきりと白濁しつつもほんのりグリーンに色づいた、私の思い描いた通りのものでした。間違いなく、プロの仕事でした。私は彼を尊敬いたしました。私も、店ではお客様からこのように見えるのでしょうか。そうであったら嬉しいと思いました。そして同時に、手強い相手に会ったと、私は身の引き締まる思いに身震いしたほどです。
 私は、静かにグラスを傾けておりました。バーテンダーは、その間にも、忙しそうに・・・ええ、こう言うと誤解を招くかもしれませんのでより正確に申し上げますと、大変淡々とした調子でなんでもないように注文をこなしつつも、しかし高い集中力を保って休むことなく、仕事を続けておりました。先だってまでの、クリスマス商戦まっただ中の私がそうであったように、です。
 店は、強すぎない暖房が快適にきいていました。それは、慣れれば快適な温度と湿度でございました。私はコートを着たままでしたが、それでも暑くて困るということもない温度です。私は、アルコールの静かな酩酊を感じ始めておりました。落ち着いてきた心臓の鼓動が、かえって大きく胸に響くように感じました。「どうぞ」と声がかかり、私の目の前にさっと小皿が差し出されました。顔を上げると、バーテンダーが穏やかに笑っております。私は礼を言って、ナッツをひとつ口に含みました。すると、口の中にナッツの香りが広がり、鼻の奥をアルコールがすっと抜けていきました。そして、私は何をしにここへきたのかを、はっきりと思い出したのです。
 ああそうでした、私は、カレンさんとお話がしたい。
 いえ、もっと言えば、私が営む万年筆専門店のほかのお客様と同じように、平生から親しくさせていただき、ご用がたとえ一筆箋ひとつでもご来店いただいて、ひとことふたことお話をさせていただけるような間柄になりたい。そして、すぐにでなくても構いませんから、ぜひ当店の万年筆を一本お求めいただき、カレンさんの手元においていただきたい。
 私はギムレットのグラスを干しますと、バーテンダーにオレンジ・ブロッサムを頼みました。バーテンダーはまずチェイサーを私に出してから、仕事にかかりました。淡く色づいた、初夏の香りのするカクテルが差し出されます。私はまず水を飲み干し、それからカクテルグラスを手に取りました。
 私は立ち上がって、バーテンダーに、「お手洗いは、奥ですか?」と尋ねました。私は、なんとなくそんな気がして、そのように尋ねたのです。すると彼は穏やかに目尻を下げながら、さっきソムリエの降りていったダイニングの方に手を差し出しながら、「はい、お食事のお客様のフロアの、一番奥にございます」と応えました。
「ありがとう、ちょっと行ってくるよ」
 私は飲みかけのカクテルグラスをコースターに戻して、深呼吸をひとついたしました。私は脳にしびれを感じました。ええ、私は、たったこれだけの量だというのに、すっかり酩酊の覚醒の狭間にいたのです。
 私は、スツールから立ち上がって、奥へと下っていく階段へ進みました。途中で、雪のように白いナプキンを下げたソムリエとすれ違いました。ソムリエは、私が降りてくるのに気づきますと、少し横へよけて、私を通してくれました。ソムリエは、すれ違うときに、私の耳元でささやくように言いました。
「どうぞ、お気をつけください」
 それは多分、階段だから足下に気をつけろと、そういう意味なのだと私は思いました。しかし、少し酔っているとはいえ、カクテル二杯ぐらいでは足にくるような私ではありません。もちろん、彼は好意で言ってくれているわけですから、私はにこやかな表情で会釈をしました。
 階段は螺旋状に下って、おそらくはエントランスの真下あたりのところへ続いています。ダイニングのフロアは、さっきのバーよりもよく暖房がきいているらしく、湿った熱気があがってくるのが感じられました。まるで、ビルの胃袋に続く道のようだと感じました。途中で、ダイニングとは別のところへ通じるらしい細いわき道がありましたが、そちらは真っ暗で、どうも今日のところは使っていない様子です。私は、ほの暗い間接照明に照らされた、やわらかな色調の壁紙で飾られた階段を、慎重に下っていきました。
 ダイニングの入り口に立ちますと、中のざわめきが一層大きく聞こえて参りました。しかし、ダイニングの中は、真っ暗でした。暗闇の中から人の話し声が聞こえ、そして、ぽつぽつと暗闇の中で鬼火のような炎が飛び回っています。いえ、私にはそう見えたのです。私は、ダイニングの入り口に立って、じっと目をこらしました。少し時間がかかりましたが、やがて目が慣れて参りますと、私はやっと、ダイニングの中で何が行われているのか、はっきりと悟りました。
 それは、仮面をつけた男女の、立食形式のパーティでした。
 女性は濃色のドレス、男性は燕尾かセミフォーマルのスーツをまとい、あのヴェニス風の仮面で顔をかくしつつ、めいめいが勝手に輪を作って談笑しております。慣れぬ目には星のようにも見えた鬼火は、彼らがその手に一つずつ握っているキャンドルでした。
 そして、何種類もの香水の香りが酒類や料理のにおいと入り交じり、暖房と人の息で暖められ、私を圧倒しました。ほんのりと土の香りもするような気がいたしました。
 私は、まず中の様子をもっとよく見ようと、さらに目をこらしました。すると、後ろから私の肩をたたく手がありました。振り返ると、ウェイトレスとは少し様子の異なる、黒いシャツと黒いパンツに身を包んだ大柄な女性のスタッフが立っておりました。
「お客様、招待状を拝見できますか?」
 肉厚な頬に挟まれた薄い唇が、そう私に告げました。私はどきりといたしましたが、隠すようなことは何もございません、正直に「お手洗いはこちらだと案内されたのですが」と、ゆるしを求めるように伝えました。そのスタッフは無表情に、一秒ほど私の顔をみつめ、無害だと判断したのでしょう、「御案内します、奥にございますから」と私に先立って、暗闇の中へと突入して行きました。
 私は彼女に従いました。前を行くその黒ずくめのスタッフの腰のあたりには、何か硬そうなものが揺れておりましたので、よく見ますと、それは警棒と無線のようでした。そういえば、その黒いシャツの胸のところには何かワッペンのようなものがついておりましたので、おそらく警備のスタッフなのでしょう。シャツの上腕のあたりがソーセージのビニールのようにはりつめた様子から、いかにも腕力がありそうな女性でした。腰つきも、樫の大木のように頑丈そうです。あの太い腿で腕ひしぎでもくらったら、明日には私は店をたたまねばならないでしょう。私は、ほとんど無意識のうちに、コートのポケットに手を入れ、アウロラのなめらかな手触りを求めました。ええ、私はまだコートを着ていたのです。ここでは暑いくらいでしたが、しかし、脱ぐ気にはなれませんでした。私には、わずかでも身を守れそうなものが必要な気がしておりましたから。
 私はインクをこぼしたような闇の中を進みながら、慎重に左右を見渡しました。もちろん、カレンさんの影を求めておりました。ここにおられる紳士淑女は、どなたも仮面をつけておいででしたので、私は彼らの体つきに注目しました。頭の中には、白いワンピースでご来店いただいたときのカレンさんの様子を思い浮かべておりました。その方がカレンさんである、とは分からなくても、カレンさんではない、ということははっきりと判断できそうだったからです。あの方は肩のシルエットが少し丸すぎる、この方は手首が太すぎる、あちらの方は身長が足りない・・・私はひとりひとつずつのキャンドルの灯りを頼りに、女性の品定めをいたしました。残念なことに、カレンさんとおぼしき方は、見あたりませんでした。
 私を案内してくれた警備の女性が立ち止まりました。
「どうぞ、ここがお手洗いです。恐縮ですが、お済みになりましたらすぐにご退出ください。本日、当店は貸し切りでございますので。私は近くに控えております。もし案内がご入り用なら、セキュリティ、とお声掛けくだされば、伺います」
 彼女はやはり警備のスタッフでした。私は簡単にお礼を申し上げて、彼女の指し示した扉のほうへ進みました。見慣れた男女のマークが掲げられた扉が、ふたつ並んでおりました。
 そのうちの、私には用のない方の扉が開きました。そして、中から仮面をつけた女性が出て参りました。私は、その肩のシルエットや手首の細さ、身の丈に、思い当たるところがありました。お手洗いの中には照明があって、開いた扉から漏れる灯りが、その女性のシルエットを浮かび上がらせていたのです。そして、今出ていらしたその女性からは、私の顔や姿がはっきり見えたことでしょう。驚いたように手を口元に運んで、このようにおっしゃいました。
「あら、ナミキさん・・・」
 私は、なんと返事をしてよいものかすぐには分りませんでした。ええ、きっと驚いた顔をしていたのだと思います、カレンさんはそう仰った後、ふふふといかにも可笑しそうに笑いました。
「まあ、ここでお会いするなんて。お店のお客様にどなたか、この集まりの関係の方がいらっしゃるのかしら。奇遇だわ」
「カレンさんですね」
 そう言いかけた私の唇を、カレンさんは人差し指でふさぎました。そして仮面を反対の手の指でそっとなでて、「名前を呼んではいけませんわ。ここでは・・・それが決まりですから」と仰いました。私が、私の唇に触れた柔らかなカレンさんの指を手にとろうとしますと、その手はひらりとひるがえって闇に逃げていきました。行き場を失った私の手は、枯葉のようにはらはらと散り落ちました。
 私の目は、また一層暗さになじんで参りました。そして、カレンさんの仮面が、少しずつその輪郭を凍らせてきます。カレンさんは陶器のようなガラス質の白に輝く、それはそれは美しい仮面をつけていました。今までそれがはっきり見えなかったのは、その透明な反射が私の背にした暗闇を映していたからだったのです。ほとんど閉じたように伏せた目のスリットからは、奥にカレンさんの瞳のかがやきがうかがえます。そして、やや薄く開いたワイン色の唇からは、カレンさんの艶やかに濡れた歯がのぞいておりました。少なくとも、私にはそのように見えたのです。そして、つややかな仮面の肌には、たくさんの星がやどっておりました。ここにいる人たちの持つキャンドルの炎が、カレンさんの頬に星座をなし、白磁の天球の中で踊っていたのです。
 カレンさんは、どこからともなく何か小さなものを取り出して、それを口元に運びました。かりりと、濡れたようにグロスの光る唇の奥でナッツの香りが砕けました。誰がいつそれを差し出したのかは分かりません。まるで手品のようでした。私は、その香りを嗅いだだけでもう口の中にナッツの香りと味が広がるような気がして、私もそれを頂きたいと思いました。しかし、私にその食べ物を差し出して下さる方はおられませんでした。
 仮面は、たった一つの表情を浮かべておりました。私はうっとりと見つめました。しかし、仮面の伏せた目の奥で疑いの表情がぐらりと揺れました。カレンさんは、私が仮面をつけず、またそれを持ってさえいないことに気づいたようでした。私は動揺いたしましたが、だからと言って私に何ができたでしょう。私はただ、カレンさんの言葉を待ちました。
 やがて、疑いを確信へと進めたカレンさんは、仮面のむこうからこう仰いました。
「ナミキさん、マスクをおもちでないようですね。でしたら、ここに長居してはいけませんわ。・・・私、またお店に伺いますから、今日はお帰りください。ええ、本当に、必ずお伺いします。お約束いたしますわ」
 私は、カレンさんが親切でそう仰ってくださっているのを存じながら、なおその場にもじもじととどまっておりました。私は、ほとんど無意識のうちに、手をポケットにいれ、アウロラを汗ばんだ手のひらでにぎりしめました。シースの革が汗を吸って、しっとりと濡れた感触がいたします。私は、覚悟を決めて、カレンさんにお誘いの言葉をかけました。
「もし・・・もしよろしかったら、上のバーで少しお話できませんか? なかなか感じのいいバーでした。バーテンダーの腕前も上々です。ぜひ、ごちそうさせてください。カクテルを一杯、おつきあいいただけたら、すぐに帰りますから」
 私としては、これはもう、精一杯の勇気を振り絞ってのことでした。初めてご来店されたお客様の最初の万年筆の、そのペン先の調整を始める最初のひと削りよりも緊張いたしました。これを申し上げてしまいましたので、私としては、今日はもう十分にやったという感触でした。ですから、もしカレンさんの返事が色よくなくても、私としてはもうよかったのです。しかし、カレンさんの仮面の口元からは、「あら、」と意外そうな調子の感嘆が漏れました。それから、少し間をあけて、いかにも困ったという風な声音をつくってカレンさんは、こうお返事なさいました。
「困りますわ。でも、せっかくのお誘いですから、一杯だけとおっしゃるなら、少しおつきあいしようかしら。けれど、連れがあるんです。いいと言ってくれるかどうか分からないけれど、ちょっと、断ってきます。お待ちいただけます?」
 私は、さっき駅前のロータリーで見た男を思い出しました。あの大柄な男。私は急に気持ちがしぼむのを感じました。いいと言ってくれるかどうか分からないけれど・・・そんなもの、いいと言ってくれるはずがありません。私は勝手にそう決めました。けれど、カレンさんは、一杯だけならおつきあいしましょうとも仰ってくださいました。私は・・・私は、カレンさんがどこかへ行ってしまったら、もう私の前には戻ってこないような気がいたしました。カレンさんは、この闇に溶けて消えてしまうでしょう。そして、もう二度と私と会うことはないでしょう。私の店にもきっとご来店いただくことはないでしょう。そういうことを、私は独り合点して、まるで過去の事実であるかのように、そう決め手しまいました。
 もし、カレンさんとお話するなら、カレンさんを行かせてはならない。私はそう思いました。ですので、歩きだそうとするカレンさんの前に私は立ちふさがりました。カレンさんは、少し笑いながら、困ったように首をかしげました。
「あら、いけませんわ。少しお待ちください。すぐ戻りますから」
「ええ、分かっています。けれど、私はほんの少しの時間、カレンさんとお話できればいいのです。その・・・先だってご来店いただいたときに、万年筆のことについてお尋ねでしたので」
「もちろんです、私が聞きたいとお願いしたんですもの。でも、本当に少しだけ、どうしても、待ってくださらないかしら。そうしないと私、あとでしかられますの。・・・まあ、困ったわ。ナミキさん、あまり私を困らせると、人を呼びますよ」
「いえ、そんなつもりではないんです。ただ、ほんの少しだけ・・・」
 カレンさんは、さっと身を翻して、私をかわそうとなさいました。闇の中で、カレンさんのドレスの裾がひらりと舞って風をおこしました。暗さのために今の今まで気づきませんでしたが、カレンさんのドレスは鮮やかな緋色だと、そのときはじめて知りました。ええ、鮮やかな、アウロロイドの赤です。そして私は、いつもなら決してそんなことはしないのですけれど、このときは、どうしてもカレンさんを行かせてはいけないと思いこんでおりましたので、カレンさんの進もうとした方に腕を延ばして遮るような動作をいたしました。もちろん、カレンさんのからだにふれるようなつもりはございませんでした。けれど、私の手は、勢い余って、私がこのあたりで止めようと思っていた位置よりも、すこし先まで延びました。
 指先に、冷たくて硬い感触がありました。私の手が、必死の思いでつきだしたその手が、カレンさんの仮面にふれたのです。仮面は、カレンさんの顔からはずれ、床に落ちて乾いた音をたてました。そして・・・そして、つい今まで仮面のむこうにあったカレンさんの表情がむき出しになりました。
 カレンさんは、私が見たこともないような表情をしておりました。なんと申し上げればいいのでしょうか。ええ、ええ、私にもプライドなどというものがありますので、こんなことを告白するのは、正直、私自身にとっても苦しいことです。苦しいことではありますが、ああ、カレンさんのお顔は、醜く私をあざ笑っておりました。ええ、つりあがった広角、たるんだようにゆるみきった頬、私の醜態を見逃すまいと見開かれた目・・・そして、その表情は、仮面がはずれたことに気づくと、炎にふれた薄い油紙のように、さっと憤怒に燃え上がりました。
「セキュリティ!」
 聞いたこともないような鋭い声でカレンさんがそう叫ぶと、あたりはしんと静まりました。そしてたちまち、その静けさの奥から空気の吹き出す音がたてつづけにおこって、キャンドルの灯りが次々と消えました。私は体中の筋肉がこわばるのを感じました。あたりは闇でした。おぼれてしまいそうなほどの闇と、緊張した沈黙が、私を押しつぶそうとしておりました。
 そして、さっと一条の光がダイニングの入り口から差し込みました。階段からのほのかな灯りが闇に浮かび上がらせたシルエットは、あの、大柄な制服の女性でした。そして、光は懐中電灯で、右へ左へとゆれながら探しているのは、明らかに私でした。
 私は、もはやほかに何をすればいいのか分かりませんでしたから、ええ、ただまっしぐらに、ダイニングの外に向かって走り出したのです。
 後からあの警備のスタッフの警棒ががちゃがちゃと鳴る音が迫ってきて、私はもうダメかと諦めかけましたが、手に触れたものを次々に倒したり後ろ手に投げつけたりしながら懸命に走り続け、バーを抜け、エントランスをつっきり、何とか店の外へ出ました。それでもなお、誰かが追いかけてくるような気がして、私は街を走り続けました。走る度に足下で泥混じりの氷水が跳ねたのは覚えておりますが、私はいったいどこをどう逃げたのやら。やっとひと心地ついて、おや雪がやんでいるなと思ったのは、私の店の前までたどりついた時です。
 すっかり息が切れて、もう死んでもおかしくないと思うほどでしたが、、いがらっぽく荒い息が収まって参りますと、コートの内側にじっとりと汗をかいているのが自覚されました。ほとんど無意識に、手をポケットに入れますと、何かかさかさしたものが手に触れました。それは、シースにおさまったアウロラでした。私の手の汗を吸った革が硬く乾いていたのです。私は何となく、アウロラをシースから出しました。すると、手が滑って、アウロラは地面に落ち、かちっと音をたてました。
 はっとして拾い上げますと、アウロラは尻のところからぱっくりと割れておりました。縦にまっすぐひびがはいって、窓のところまで達し、中のインクが傷から吹き出す血のように私の手を汚しました。汚れた私の手は、ええ、ほのかにワインの香りがしておりました。カルメン・ブラックの、重くて渋い香りが。


 ええ、もちろん、この日からカレンさんはお見えになりません。
 私ですか? 相変わらずでございます。ですので、店はちゃんと続けております。先生もテラシマさんも、年が明けてからは時々お見えになります。常連のお客様がお見えになった折には、ご機嫌伺いとして近況をうかがうようにしておりまして、その時にテラシマさんは、離婚したんですよ、と明るい表情でおっしゃっておられました。先生は…先生はもともとプライベートのことはおっしゃらない方です。お二人とも、以前より少し砕けた態度で私に接してくださるようになった気がいたします。私も、冗談など申し上げる機会が増えたかと存じます。カレンさんにまつわるあれこれがあってから、私たちは少し、親密になったかもしれません。
 そうそう、偶然かとは思いますが、先生とテラシマさんは、春に万年筆を新調なさいまして、どちらもアウロラです。せっかくですので、私も自分用にアウロラを仕立てました。ウォーターマンもいいかと思ったのですが、欲しかったものが生憎、代理店の方で欠品中だったもので。いえいえ、オプティマではありません。オッタントットにいたしました。私どもには、こういう無骨でシックなものがしっくりくるようですから。

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