見出し画像

神学生による随筆 「時のしるし」~新型コロナ

M神学生

「事実は小説よりも奇なり」。ゲーテから「今世紀最大の天才」と評されたイギリスの詩人ジョージ・バイロンの言葉です。コロナ感染症によって引き起こされた世界規模の急激な変動を思うにつけ、この言葉が実に穿ったものであると認めざるを得ません。今年1月には既にコロナ関連のニュースが報じられていたと記憶していますが、少なくともその時の私にとっては多少の心配はありつつも「対岸の火事」であり、現在の様な状況になるとは夢にも思いませんでした。しかし事態は急激に悪化し、あれよあれよという間に我が国内でも世界でも感染が拡大し、私が学んでいる上智大学を含む多くの大学は「全面的な入構禁止」や「授業の完全オンライン化」という異例の措置に踏み切る事を余儀なくされました。

今年1月の段階では「新型コロナウイルス」という単語自体まだ「新語」の感があり、ましてや「3密」や「ソーシャル・ディスタンス」、「新しい生活様式」などの単語は存在すらしなかったように思いますが、現在ではまるで昔から使われていた言葉のごとく人口に膾炙している状態です。私は現在、上智大学の大学院で学んでいますが、志願期の時に通っていた別の大学も合わせるなら合計10年以上の時間を大学という場所で過ごしてきました。しかし大学での講義が完全に中止になり、学生が各自のパソコンを用いて自分の好きな場所で講義を受ける日々が到来するとは想像すらした事がありません。それにも関わらず現在ではその「オンライン授業」が、あたかも昔からそうであったかの様に自分の日常の一部となっているのです。確かに「事実は小説よりも奇なり」です。

世界規模で様々な「変化」が生じている「奇なる」今日、ふと「世の終わり」とか「終末」などという単語が頭をよぎる事があります。確かに『ヨハネの黙示録』などには疫病や飢饉、戦争などが世の終わりに先立って生じるかのような表現が見いだされますし、福音書にも世の終わりの直前に起こるとされている様々な混乱や変動への記述があります。聖書の記述を、その表現にのみ注目して受け取るなら「そろそろ世の終わりが近いのではないか」と勘繰ってしまうのも無理はないでしょう。

もちろんそれも1つの読み方かもしれません。しかし聖書、特に新約聖書が私達に示すのは人に恐怖を抱かせる疫病、天災、戦争などのおどろおどろしい描写ではありません。聖書は「オカルト的」な終末観とは一線を画しており、全く異なった次元のメッセージを読み手に伝えようとしています。ルカによる福音書を見てみましょう。

「彼らは尋ねた、『先生、それはいつでしょうか。それが起こる時には、どんな徴があるのでしょうか』。そこで、イエスは仰せになった、『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を騙り、『わたしがそれだ』、あるいは、『時が近づいた』と言う者が大勢現れる。しかし、ついて行ってはならない。戦争や反乱のことを聞いても、うろたえてはならない。まず、これらのことが起こらなければならない。しかし、すぐに終わりが来るわけではない』。そして仰せになった、『民は民に、国は国に逆らって立ち上がる。また、大地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象が生じ、天には大きな徴が現れる』」(ルカ21章7節~11節)。

確かに一見すると不安を煽る様な表現です。「方々に疫病が起こる」などは正に今の状況ではないかと思いたくもなります。世の終わりについて語る物語は「黙示文学」と言われたりしますが、それは既に旧約聖書の時代から存在していました。ミサの中でも読まれる「ダニエルの預言」はその筆頭格ですし、それ以外にも私達が持っている聖書には収録されていない物語が多数あります(「シリア語バルク黙示録」、「アブラハム黙示録」、「エチオピア語エノク書」、「シビュラの託宣」など)。新約聖書が世の終わりについて語る時には、これらユダヤ教の黙示文学を前提としてそこから多くの表現やテーマを借り受けて来ている訳ですが、上に引用したルカのおどろおどろしい記述などはその典型と言えるでしょう。

その一方で新約聖書は独自の要素も含んでいます。それは「時間の計算が無い」という事です。ユダヤ教(特に後期ユダヤ教)の黙示文学の特徴は色々ありますが、その1つは「世の終わりがいつ訪れるかを正確に計算する」というものです。天変地異の様な自然現象を「時の徴」として受け取り、それらの後ろに隠された「秘密」を解き明かしてゆく事で「世の終わりがいつ訪れるのかを計算する」という物語の構造は後期ユダヤ教の黙示文学の大きな特徴と言われています。しかし先に引用したルカ福音の個所にはその様な「時間の計算」は一切ありません。並行箇所のマルコ13章32節には「その日、その時は誰も知らない。天の使いたちも子も知らない。父だけが知っておられる」という驚くべき表現まで登場します。細かい釈義は横に置くとして、いずれにせよ注目すべきなのは、仮にユダヤ教の黙示文学の表現を借り受けていたとしても新約聖書は決して「世の終わりが『いつ』到来するのか」を伝えようとしているのではないという事です。新約聖書で用いられいている様々な象徴的な表現を、あたかもその謎を解けば世の終わりがいつ到来するかが正確に分かる「暗号」の様に受け取る事は聖書本来のメッセージを見失わせてしまう読み方になるでしょう。結局「世の終わりがいつ到来するのかを正確に計算する」という営みはキリスト教にとって関心外の事柄なのです。

では「時間の計算」の代わりに新約聖書が伝えようとしているものは何でしょうか。それは先に引用したルカ福音の8節~9節に凝縮していると言えるでしょう。「イエスは仰せになった、『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を騙り、『わたしがそれだ』、あるいは、『時が近づいた』と言う者が大勢現れる。しかし、ついて行ってはならない。戦争や反乱のことを聞いても、うろたえてはならない』」。「惑わされないように気をつけなさい」、「ついて行ってはならない」、「うろたえてはならない」という3つの言葉こそ、新約聖書が「世の終わり」というテーマに関して私達に伝えたいメッセージの中核と言えるでしょう。ここでは「落ち着き」と「警戒」がセットになっています。真の「警戒」は「落ち着き」とペアになっており、「落ち着き」からしか生まれてこないという事です。逆に言えば、表面的には「警戒」のように見えても、もし「落ち着き」を欠いているならそれは「惑わされている状態」なのかもしれません。

最近では「自粛警察」や「マスク警察」という言葉に出会う事も珍しくなくなりました。なかなか収束のめどが立たない現状、「警戒」の大切さは大いに強調されてしかるべきでしょう。しかし「落ち着き」の方はそれに伴っているでしょうか。ある大学の部活でクラスターが発生したため、その大学に所属しているというだけで教育実習生が実習を拒否されたとか、その大学の学生がアルバイトを休むよう職場から通達されたという報道がありました。ある高校の運動部で同じくクラスターが発生したところ、特に関係のない生徒の写真がSNS上で勝手に公開されたり、あらぬ誹謗中傷が当該高校に寄せられたという信じられない報道もあります。「落ち着き」を失った「警戒」が暴走しているのではないでしょうか。

本当になすべき「警戒」とは、もちろん自分自身が感染しないように、また他人に感染させないように最大の注意を払う事であると同時に、やむを得ず感染してしまった方々やその関係者に対する「ケア」だと言えるでしょう。教皇フランシスコは8月19日の一般謁見の中で「パンデミックは一つの危機です。危機から脱した時、以前とは同じではあり得ません。以前より良くなるか、悪くなるかです」と指摘されました。「落ち着き」を失った「警戒」が増せば増すほど、「コロナ後」の社会は冷たく荒んだものになっている危険があります。他方、しっかりとした対策を講じつつも、やむを得ず感染してしまった方々やその関係者への温かなケアを忘れない配慮が増せば増すほど、「コロナ後」の社会には何か新しい希望が見出せるようになるかもしれません。コロナ感染症の一日も早い終息を祈ると同時に、この様な「落ち着き」に根ざした「警戒」を怠らないよう努めたいものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?