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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第2主日・神のいつくしみの主日〉


戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた(ヨハネ20・26)。




わたしたち人間にとって、誰もが抱く、最もなじみ深い感情の一つは、〈恐れ〉ではないでしょうか。〈恐れ〉を抱くからこそ、わたしたちは不測の事態に対処でき、ある程度安全に身を守って生きていくことができると言えるかもしれません。

しかし、その〈恐れ〉は、度を超すと、わたしたちの生き方をとても不自由にします。とりわけ、内的な生活において、自分自身の心の安定が脅かされるような状況や対人関係などを前にしたとき、わたしたちは自分の心に防壁を築き、その内側に隠れることを当たり前としてしまいます。そうすれば、わたしたちは面倒に巻き込まれたり、無意味に傷つくことがないと信じているからです。

イエスの受難と死を体験した弟子たちも、まさにそうでした。彼らは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20・19)のです。しかし、そのように〈恐れ〉に取り憑かれ、身を隠していた弟子たちの前に、復活したイエスが現れました。そしてイエスは言います。「あなたがたに平和があるように」(20・19)。

イエスの言う〈平和〉とは、一体どのようなものなのでしょう。それを知る鍵は、「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(20・20)というイエスの行動にあると思われます。イエスの両掌には、十字架に釘づけられた傷跡が、またわき腹には槍で突かれた傷跡が、そのまま残っていました。それはあたかも、勝利の勲章のように、復活したイエスの体を美しく装い、むしろその傷跡があるからこそ、一層イエスは〈神の栄光〉に輝いているかのようです。生前、痛々しくもイエスの体に刻印されたそれらの傷跡は、奇妙なことに、イエスの喜びと平和の源泉となっています。

イエスは再び「あなたがたに平和があるように」(20・21)と述べ、さらに「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20・21)と言ってから、弟子たちに「息を吹きかけて」(20・22)、〈聖霊〉を与えます。

イエスの受難と死を前にして、イエスを裏切って逃げてしまった弟子たちは、皆それぞれに深く傷ついた存在です。彼らは、傷ついた自己のイメージに囚われて、不安と恐れ、自己憐憫の殻に閉じこもっていました。イエスはそのような小さな自分に縮こまっている弟子たちに、自分と同じ使命を与えようとするのです。

アシジの聖フランシスコは、こうしたイエスのやり方を経験により熟知していました。彼は、自分の兄弟たちに言います。

いとも親愛なる兄弟たち、わたしたちの召し出しについてよく考えましょう。憐れみ深くも神はわたしたちを召し出してくださいましたが、それはわたしたちの〔救い〕というよりも多くの人の救いのためであり、言葉よりも模範をもって、すべての人を奨励するためです。自分たちは小さく愚かな者たちだと思って、恐れてはなりません。安心して単純に悔い改めを告げ知らせなさい。世に勝った主に信頼しましょう。〔主は〕ご自分の霊によって、わたしたちを通して、わたしたちの中で語ってくださいます。〈『三人の伴侶による伝記』〉※1


フランシスコ自身、回心したての頃、それまで最も〈恐れ〉を抱いていたレプラ(重い皮膚病)を患っている人々に対して、神の恵みによって自己に打ち克って奉仕し、その友人となることで、大きな霊的な喜びを得るようになりました。また、ある時は、人間的な羞恥心から施しを乞うことにためらいを感じ、一度はきびすを返して止めましたが、それが神の望みと知るや自らの臆病さを悔いて、すぐに施しを乞いに帰りました。すると、彼は神の霊に酔わされて、人々の心に神への熱烈な愛を鼓舞するのでした。このように、〈聖霊〉は弱い人間の心を強めて自己に打ち克たせ、人間的に苦く感じられたものを優れて甘美なものに変えてしまうことを、フランシスコは知っていたのです〈チェラノのトマス『魂の憧れの記録(第二伝記)』参照〉※2。

ところで、イエスの最初の出現の時にいなかった12人の弟子の一人であるトマスは、イエスの復活を信じませんでした。疑い深いトマスは、ちょうど、イエスがわたしたちの傷ついた人間性を癒し、わたしたちの傷を神の栄光の源泉に変えてくれることなど、決して信じられないと思っているわたしたち自身の内にある〈疑い深い心〉を象徴しているといえるでしょう。

それでも、イエスは、そのようなトマスの前に現れてくださり、ご自分の傷をはっきりと見せておっしゃるのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20・27)。

わたしたちに必要なことは、イエスのこの呼びかけに単純で素直な心をもって応えることだけなのではないでしょうか。それは、いつくしみ深いイエスが、決してわたしたちを見捨てることはないという、ちょっとした〈信頼〉と〈勇気〉をもつことでもあるでしょう。
その先に、わたしたちの真の〈心の自由〉が待っているのです。


※1『アシジの聖フランシスコ伝記資料集』、フランシスコ会日本管区訳・監修、教文館、2015年、186頁。
※2同書、224頁。

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