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お寺で生まれたカトリック修道者・工場勤務編

◇コンベンツアル聖フランシスコ修道会の神学生による「元観想会の修道者の召命」前編(2回シリーズ)です。

【1. 元・観想会の修道者】

+主の平和とご加護が、皆様と共にありますように!

皆様、はじめまして。私は昨年5月にコンベンツアル聖フランシスコ修道会に入会し、現在「志願者」として関町志願院に在籍しております。この修道会内ではいちばんの新参者ですが、既に43歳。「20代に見える!」と言われて喜ぶ自分に年を感じる今日この頃です(苦笑)。「小神学校」から入会された先輩方が多い中、私の経歴は「異例づくし」であるかもしれません。出身はカトリック信者の少ない福井県。しかも浄土真宗の寺に生まれ、得度まで受けながら寺を継がずに受洗したのが2002年。南山大学大学院で仏教とキリスト教の比較研究をした後、奨学金を返済するために理系の研究機関に勤務。念願叶って、ある観想修道会に入会したのが2008年。伝統的な戒律に従って、外部との関わりを避けて孤独を生きる修道者として、山の上で8年間、「祈れ、働け」をモットーに、人目につかず歩んできた者です。

【2. 聖母の騎士との出会い】

「では何故、コンベンツアル会にいるのか?」
観想会入会後数年経った頃、コンベンツアル会から一人の神父様が、年度黙想の指導に来院され、講話の中で「聖母の騎士会」について言及されました。
「聖母マリア様の使命のために、自分のすべてを捧げるという精神で活動する会です。」
在籍していた会が「聖母マリア様の観想会」だと思っていた私は、「聖母マリア様の活動会」が存在することを知りました。しかも、聞けば「誰でも入れます」とのこと。早速、入会を願い出ました。そして2012年の「神のお告げ」の祭日に、修道院の中庭にある「お告げの聖母像」に向かって跪き、マリア様よろしく「なれかし」と、すべてをマリア様の使命のために捧げたのでした。今から考えますと、これがまずかったのかもしれません(苦笑)。

【3. 観想か、活動か】

まだ世間にいた時のことですが、当時所属していた教会には、私が観想会を目指していることを耳にして「あなただったら、活動会でも行ける」と言って下さる方が、何人かいました。「教会学校を手伝って!」「是非、運営委員に!」と、お誘い下さる方々も(苦笑)。平日フルタイム勤務で疲れ果てていた私は、「何故休日まで働かないといけないのか」と考えて、すべて「丁重に」お断りしていたのが思い出されます。そういえば、某大学の学長自ら、「修道生活をお考えでしたら、是非○○会に!」と、卒業記念式典で仰っていたっけ(苦笑)。私自身、観想会の禁域の中で、人とも会わずに生活することについて、「折角頂いたタラントンを、土に埋めることになりはしまいか」と、どこかで感じていたのも事実です。
イエズス会の神父様に霊的指導を願いますと、「君は色々な人のために祈っているが、いつも祈っているその相手と、実際に関わるのもいいんじゃないか」と、背中を押された気がしました。
 では「神は、私をどこに置こうと望んでおられるのか?」と、問う日々が続きました。
 ある日、マリア様に聞いてみることにしました。その日はかなり必死に祈った記憶があります。すると、
 
「あなたが決めてください。」
と、心に聞こえた気がしました。「え??」これは、私にはかなり「意外」なご返答でした。私は(半分以上)マリア様のためにここにいる、と考えていたのですが、そのマリア様は、「私が」「自由に選ぶ」ことをお望み?だとすると・・・
私は、「時の徴」を感じて、「聖霊に導かれるまま」に、「山を降り」、「活動会を目指す」ことにしました。

【4. 退会-再び世間へ】

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」(『ルカ書』1:38)
ところで、私の霊名は「大天使ガブリエル」です(苦笑)。(修道名も同左でした。)
かの修道院におけるホスチア製造の黎明期から、製造・メンテナンス・発送業務に携わりましたが、世に「神の御子」(の受け皿)をお届けする「私の使命」は、ひとまず終わりを告げました。
再び私服を着て、山を降りた私は、取り敢えず腹ごしらえをと、目に入ったレストランに入りました。席に着くと、若いウェイトレスさんが笑顔で出迎え、水と食事を運んでくれるのに「感激」しました。もう永いこと、そういうことに無縁でしたので(苦笑)。たとえ営業スマイルであったとしても、「笑顔には人を癒す力がある」、「世間も悪くない」と思いました。(ある神父様は「誘惑じゃないですか?」と仰いましたが(苦笑)。)
マリア様が、「あなたが決めてください」と仰ったのなら、新しい「門戸」は開かれるはずです。そんな希望が、私にはありました。
実際、「活動会」と一口に言っても、様々な会があります。どこを選ぶべきか。
自然な流れとして、「聖母の騎士会」を紹介してくださった神父様に連絡を入れました。即、「体験入会」することに。時は5月。長崎は春真っ盛りで、本河内のルルドでは、「ルルド祭」が盛大に祝われ、年配の修道士さんが「メガホン」片手にロザリオの先唱をされていたのが印象的でした。
しかし、その時既に、召命活動資金も底が見え始め、「入会前に働かざるを得ない」程になっていました。召命担当の神父様は「あまり遅くならない方がいいですよ」と言われましたが、「少なくとも、半年は働かざるを得ません」と応えるしかありませんでした。「すぐに修道生活を継続したい」という望みは「私の望み」でしかなく、「神の望み」ではなかったようです。しかし、いざ「働くしかない」と心に決めた時、友人の紹介もあって、トントン拍子で「高給」の仕事に就くことになりました。「神の摂理は修道院の中だけにはたらくものではなく、世間の只中でも、人や状況を介して力強くはたらく」ことを実感できた瞬間でした。「Deo Gratias!」こうして、T社の工場で「働け、祈れ」の生活が始まりました。
工場での仕事は立ちっぱなし。極限まで生産効率を追求するアスリート的な世界。しかも2交代制で、日勤と夜勤が週毎に逆転する過酷なものでした。私の持ち場には日本人は少なく、最近の日本にはいないような屈強な外国人ばかり。日本人も時々入社してきますが、3日~数カ月で姿を消します。初めの一か月は文字通り「全身筋肉痛」。観想修道会での労働(あるいは苦行)とは比較になりません(苦笑)!「エジプトで酷使されているイスラエル人みたいだ」と、何度考えたかわかりません。しかし、徐々に気付き始めました、「この動き、フェンシングに似てる」。
この「聖母の騎士会員」は、かつて「フェンシング部」に所属し、実際に「騎士的な訓練」を受けたことのある、今時珍しい「聖母の騎士」であったのでした。(因みに、「弓道部」にも3年、「ボーイスカウト」にも6年いました。(未だに)車の免許もないのに、「馬」には乗ったことがあります。)
それに気付いてからというもの、仕事自体が楽しくなり、そして「一時間当たり生産数」の「新記録/NEW RECORD」を更新するのを目標に、「喜んで働く」ようになりました。世界企業であるT社の「闘技場」で、世界を相手に戦う「グラディエーター」のようだったでしょうか。「仕事が楽しい」と同僚に打ち明けると、皆一様にびっくりして「変人扱い」してきましたが(苦笑)。仕事を楽しめないとは、不幸なことです。
しかし、いくら楽しんではいても、生活全体が「過酷」であることは間違いありません。平日には「ロザリオ」も「教会の祈り」も出来なくなりました。主日のミサは欠かしませんでしたが、「聖堂で歌う」のを「喜び」とも「使命」とも感じてきた私には、「主日にしか歌わない」のは寂しく、残念に思われてきました。しかし「祈りは欠かしたくない」との思いから、出勤前に「(聖母の騎士会の)毎日の奉献の祈り」と「お告げの祈り」「主の祈り」「ザカリアの歌」「栄唱」を、帰宅時には「今日一日のすべてを聖母の使命のために捧げる祈り(自作)」「お告げの祈り」「主の祈り」「マリアの歌」「栄唱」を、自転車で移動中に「心の中で歌う」のを日課としました。
また、「絶えず祈れ」という勧めを実行したかったので、自動車部品をブン回しながら「(グノー/バッハの)アヴェマリア」を、マリア様のご意向で「心の中で歌う」ことも実践し始めました(これについては観想修道会でも、労働の際などにやっていましたが)。これはこれで、なかなか「充実した祈り」だったように思います。
「このまま、こうして生きていくのも、悪くはないか。」
そんな想いが心に浮かんだ時、コンベンツアル会の召命担当の神父様から連絡が入りました。
「管区長様と話がつきましたので。5月から来ますか?」
5月。今は、3月半ば。え、ほとんど一か月後?!
あまり深く考えずに「はい」と返事をしてから、そんなに急に退社できるか等、調整に奔走する「出エジプト(T社)期」に突入しました。何かが、急展開し始めました。
「神にできないことは、何一つない」(『ルカ書』1:37)

(後編へ続く)


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