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短編 Death cab for the cutie

 まわりの数グループの耳目が沖の方へ集まっている。嫌な予感がした。

 正午の満潮までは程遠く、長い砂浜が続く。
自然と足が早くなる。

浅瀬に次女を見つけ、長女の居場所を尋ねる。次女は指で沖の方をさした。

 浮き輪にお尻を沈め、波に乗って遊んでいたら沖へ流されたと言う。
浮き輪から下りて、掴まりながら泳げばよいものを、海には例年より早くクラゲが出て、刺された経験をもつ長女は、その恐怖で手足を水に入れられず、そのまま沖の方へ流されたようだ。

およそ200m先の、ブイまで流されていた。目を凝らすと長女の不安そうな顔が見えた。

 コロナの影響なのか。ライフセーバーもいないビーチだったので、俺が海に入って長女のほうへ泳ぎ出した。その姿を見て、あの子のお父さんよ、と、まわりは安堵した顔を見せた。

 そんな目に急かされた。俺は一旦戻り浮き輪をもっていくべきだったのだ。最後に泳いだのはいつだったか忘れていた。

ゴーグルをつけて、波をかき分けて進む。足が土に着いたのは最初だけで、あとはひたすら平泳ぎで前に進む。

 潮の流れか、なかなか沖に進めない。頭を沈め一掻きして頭をあげる。進んだ感じがしない。

 足の届かない寄る辺ない水の中、徐々に体力だけが奪われていく。水の中に顔を入れていられる時間がだんだん少なくなる。

あれ?これよくニュースでみるやつだ。と思った。そこからネガティブはゆっくりと俺を蝕んでくる。体力が底をついた時こそ、やつらのやりたい放題だ。

子どもを救助にむかう父が海で亡くなる。というニュースの画面下に自分の名前が出ている。お盆の帰省中の不幸でした。と、アナウンサーが、残念そうに締めくくる。

 そこからは溺れながら、長女の浮き輪を目指す。死が近づいてきた。怒りはなく、悔しさがまさった。死の感情は悔しさだった。

 本当に紙一重だった。俺は長女の浮き輪に掴まった。空気を求めて天を仰ぐ。長女は、くらげが、そこら中たくさんいることを泣きながら説明していた。

俺には全くその音が聞こえず、浮き輪に必死で掴まり、ただ息を切らして、深い海に浮かんでいた。


体力が少しだけ戻ってきて、
さあ行くか、とはじめて声をかけた。

浮き輪につかまって、ゆっくりと浜を目指した。その時には長女も、浜辺を見て静かになった。


 俺は2月に父を亡くした。すい臓がんだった。一度はオペしたが、転移再発して、再発後は緩和ケアを選択した。ぎりぎりまで家で過ごして、市民病院の緩和病棟へ移ってから2ヶ月で亡くなった。73歳だった。
自分の死期が分かってしまう病気だったが、今死にかけた俺からすると、父は随分幸せに死んだと思えるし、良かったと思う。それとも父も悔しかっただろうか。

父が亡くなって半年たって、実家のヨークシャーテリアが失踪した。夏の真っ盛りの朝に、玄関で水やりに出ていた母の隙を盗み、忽然と出ていったそうだ。前にもあったことだったので、すぐに帰ってくると思ったが帰ってこない。老犬だから、熱中症になってどこかで倒れているのではないか。
母が色々捜したが見つからない、保健所に問い合わせても見つからない。市のホームページの、ペット捜索ページに載せたが反応はない。

気の強い、癇癪もちの母だが、相当こたえていた。

それがつい2週間前だった。

文脈を考えてしまう。
俺は文脈(コンテキスト)と共時性を信じている。
因果関係と、偶然性と言い換えてもよい。
信号がやけに青が続く日があれば、その日は何でもうまくいったり、
ビートルズの曲を口ずさんでいると、カブトムシに巡り合えたり、
といったようなことだ。

その理屈で言えば、俺は海で亡くなっていてもおかしくなかったし、亡くなるべきだったとも言える。
その力学を曲げてまで、生かされたということに恣意性を感じる。
人は何かにつけて因果を求める。理由を求める。
へとへとの俺はそれについて考えるのをやめた。

浜辺にあがって、背中に照り付ける太陽が、俺の影を、さっきよりも随分伸ばしていた。


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