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なぜ慰霊碑めぐりをするのか②


原爆に「命と未来」を絶たれたヒロシマの少年少女たちのこと


平和記念公園の噴水の南側にまっすぐ東西に伸びる平和大通り通称「100メートル道路」は建物疎開作業によって作られた道です。その作業の主力が今の中学校1、2年生。12、3歳の少年少女たちでした。

1945年8月、広島では全市をあげての建物疎開作業が行われていました。8千人以上の少年少女たちが建物疎開のために動員され、約6千人が亡くなりました。日本教育史上で最大の犠牲者を出しました。

関千枝子さんがなぜ、慰霊碑めぐりのフィールドワークや平和大通りを歩くことにこだわっていたのか、それは、この日本教育史上で最大の悲劇があまりにも知られていないこと、継承されていないことに驚き、怒り、このことを人々に伝えようとしていたからです。


広島の原爆で12、3歳の少年少女たちが6千人以上も死んだことを知っていますか?

 太平洋戦争当時、6年間の国民学校初等科(=小学校)を終えた子供たちが進学する場合、男子は中学校、女子は高等女学校へと進みました。その他、工業・商業学校などの実業学校などもありました。その他に、国民学校高等科(2年制)に進んだ子供たちもいます。

 原爆の時に広島中の学校の12、3歳の、ちょうど今の中学1、2年生にあたる中学校・高等女学校の低学年や国民学校高等科の生徒が死んだり、あるいは重傷を負ったりしたのです。

なぜ、こんなことが起きたのか?

 アジア・太平洋戦争は、1944年のサイパン、テニアン島の陥落から、急速に戦況が悪化し、その年の11月から本土への空襲が相次いでいました。火事になると道が狭いので、被害が大きくなるというので、強制席に民家を壊し道路を広げる作業が行われることになりました。広島では、1945年8月、全市を挙げての「建物疎開作業」が市の中心部で行われていたのです。町内会(隣組)、企業、近隣の農村などから多くの人たちが動員されましたが、その作業の主力が、こうした生徒たちでした。この年は、学校も夏休みもなく、子供たちも「臨戦態勢」でした。(ちなみに、1944年から都市部の初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため田舎へ強制的に疎開させられ、中学校と高等女学校の高学年の生徒たちは、勉強は一切なく軍需工場などに勤労動員に行かされていました。)1945年3月には、国は国民学校初等科を除くすべての学生・生徒に授業を行わなくてもいいという命令を下しました。それで、中等学校低学年の生徒も工場や農作業に動員されたのですが、広島ではまだ恒常的な動員に行っていない低学年の生徒たちがおり、彼らが建物疎開作業に動員されたわけです。

 家を倒し、それを片付け、後を踏み固め、道路にするのですが、機材一つありません。路面電車に乗るのも子供たちには禁じられていました。自宅から鍬やシャベルを担いで集合、作業をしたのです。8月は酷暑の時期です。学校の校長先生たちの中には子供たちの健康を心配し、中止を嘆願したのですが、軍の責任者に「この非常時に何を言う」と一喝されたそうです。

私は当時、高等女学校の2年生

 市役所裏の雑魚場町(現在の町名は国泰寺町)に8月5日から作業に行きました。爆心から1キロ強のところです。運命の8月6日、私は病気で欠席、奇跡的に命を拾ったのですが、作業に行った二年西組の同級生の生徒たちは、たった一人を除いて全滅しました。(生き残った一人も戦後二十四年経ってから亡くなりました)

 何人かの友は、作業をしていた雑魚場から、当時宇品にあった学校に帰ってきましたが、ひどい火傷で、親が見ても自分の子供とわからないくらいでした。手の指の先まで火傷をし、皮膚がむけ、ずるずるになっています。手を握ってあげることもできません。私自身も、自分が欠席して助かったことがすまなくて、いたたまれない気持ちでした。

 私は病欠していて助かったため、「運のよい子」と言われました。言われるのは苦痛でした。自分だけ「逃げ出した」ような罪悪感ですが…。そして思いました。「私が運がよかったとして、全滅したクラスメートは、亡くなった14万人の広島の人たちは“運が悪かった”のか!」

そして、生き残った者は何をしなければいけないのか、懸命に考えました。

 当時は、県庁が今の平和記念公園の南側にありましたが、その付近と、土橋周辺(今の中国新聞ビルの西側一帯)で作業をしていた学校の生徒たちは、もっと悲惨でした。爆心から至近距離のため、生存者はいません。どこで死んだかわからない人も多いのですが、このあたりで作業をしていた子どもたちなのです。

私たちは、道を作ることが、お国のためだと信じていました。重労働を当たり前と思い、懸命に働きました。しかし、あれはいったい何のための作業だったのかと、今思います。あの疎開作業がなかったら、私は広島の原爆の死者は8千人は少なくなっていると思います。

 今回のフィールドワークで訪れるのは、爆心に近く、平和記念公園から歩いて行ける範囲のところにある慰霊碑が中心ですが、この辺りに慰霊碑のある学校は古くからのいわゆる伝統校が多く、その他の多くの学校はその校舎内に慰霊碑があります。さらに国民学校高等科の場合、死者の数もわからず、慰霊碑もなく、全く「不明」となっている子どもも多いのです。その意味を考えてほしいのです。

 太平洋戦争のことを「十五年戦争」とも言います。1931年の満州事変から1945年までの15年間続いた戦争でした。つまり、原爆で亡くなった12、3歳の少年少女たちは「平和の日」を一日も知らない子どもたちでした。

そのことの意味をよく考えながら、暑い日差しの中を歩いてください。

                             関 千枝子

  参考:建物疎開作業で亡くなった学徒動員の碑めぐり 竹内良男さん資料


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