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映画『ミナリ』中のキリスト教 約束の地への旅 聖書で紐解く映画


1. 「約束の地」アメリカにおける韓国人

「希望の地」アメリカ
『ミナリ』は韓国系移民が、アメリカの田舎に移住し、農業で成功しようとする映画だ。ここで、移民の国アメリカの建国物語を確認しよう。もともとアメリカは清教徒(ピューリタン)と呼ばれる人々が英国国教会の迫害の逃れるため移住したことが建国の始まりとされている。ピューリタンは、アメリカを旧約聖書の「約束の地(プロミスドランド)」に重ねた

メイフラワー号で新大陸に来たピューリタンたち

「約束の地」とは、エジプトの奴隷状態から脱出したイスラエルの民が目指した地カナンのこと。モーセたちが率いる流浪の民は、40年も砂漠をさまよいながらついに「約束の地」にたどり着く。
迫害されたイギリスから脱出し、神が約束した土地・新大陸に向かうピューリタンたちと同じように、リー・アイザック・チョン監督の家族や多くのアメリカに移住した人々は、自身のアメリカへの移住を故国を脱出して「約束の地」で祝福を受け成功しよう、というマインドがあった。

そのような背景の中で、『ミナリ』の主人公ジェイコブは自分の畑を「エデンの園」と呼んだ。人類の祖アダムがエデンの園を耕したように、主人公ジェイコブは農業を始めたのだ。

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。

旧約聖書 創世記2:15

韓国系アメリカ人のアンビバレントな感情

『ミナリ』の主人公である父親はジェイコブ(つまりヤコブ)。妻の名はモニカ。子供たちの名前も、アンとデービッド(ダビデ)。アメリカに渡った韓国人は、欧米風の名前をつける傾向がある。
筆者にはワシントンDC在住の韓国系アメリカ人の友人がいる。彼女は渡米を機に名前をグレースに改名した。「自分の韓国名を忘れてしまったわ」と私に話す彼女の表情には、韓国名を捨てたことへの誇らしさすら感じた。


「ミナリ」で、ジェイコブ一家は、白人中心の現地教会に通っている。韓国人教会は、移民としてアメリカに入ってきた韓国人が互いに助け合う側面がある。韓国教会は世界中にあり、アメリカ国内でも一定の存在感を示している。一方で、韓国教会から逃げてくる人もいるという。現地教会に通う韓国人は、韓国人どうしの交流が嫌になった場合も多い。『ミナリ』では、「韓国人のしがらみに縛られたくない、でもアメリカでの商売に韓国人のつながりに頼るしかない」という韓国人どうしの微妙な心理が描かれている。

2.『ミナリ』の中のキリスト教豆知識

ベトナム戦争帰りのポール
『ミナリ』では、一風変わった白人の隣人ポールが、主人公ジェイコブと共に韓国の野菜を育てる。彼は既存の教会に通わず「私の教会はこの十字架だ」と毎日曜日に十字架を担いで道を歩いている。このポールの言動が、不可思議である。たとえば、畑で野菜が実るように祈らせてくれと言う。そして意味不明な言語で話しはじめ、ジェイコブにハグする。これは「異言」の呼ばれる祈り。また、ポールが家のドアなどに(おそらく)オリーブオイルを塗るシーンがある。家から悪霊を追い出す儀式である。これら異言、悪霊の追い出しなどは「ペンテコステ派」と呼ばれるグループの傾向である。

ヤコブのはしご
『ミナリ』は大自然や植物のインサートカットが美しい。郷愁の念すら感じた。たとえば、韓国野菜の収穫が終わり笑みを浮かべた主人公ジェイコブとポール。ふと見上げた先には、雲の隙間から太陽の光が差し込む「ヤコブの梯子(Jacob's lador)」カットを挟み込んでいる。
ジェイコブ(ヤコブ)が、ヤコブの梯子を観る。なんともユーモアのある監督ではないか。


この太陽から神々しいものを連想させる手法、『ミナリ』のリー・アイザック・チョン監督は、テレンス・マリックの影響を強く受けたそうだ。昔から絵画や建築において光は、神の象徴として使われいた。映画において、太陽の光を「神の存在」「目に見えない偉大な何か」として用いた例として、テレンス・マリック監督である(『ツリー・オブ・ライフ』『名もなき生涯』など)。リー監督はテレンス監督の『天国の日々』を観て、映画監督を目指したらしい。


水の役割


『ミナリ』の最後で主人公は、水源に石を置く。この石をリー・アイザック・チョン監督は「ヤコブの祭壇です」と言ったらしい。聖書で、ヤコブは石を置いて祭壇を築いた。その場所が後に「ヤコブの井戸(Jacob's Well)」となった(創世記33章参照)。監督のお父さんが厳しい環境で農業に必死に取り組む姿勢は、ヤコブが天使と格闘しているシーンと重ね合わせたのではないだろうか。


3.プロットで感じる「神の見えざる手」

「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と聖書にはある。養鶏場で、ひなが落とされケガをし、周りの人に「もう使えないから捨てな」と言われるシーンがある。印象的だったのは、同じタイミングで、デービッドは転倒して足を怪我するのだ。おばあちゃんは「Strong Boy(お前は強い子だねー)」とデービットをいたわるのだが、弱いもの、働けないものに価値があるのかという監督の問いかけではないか。

翌朝、目を覚ますと、おばあちゃんが脳梗塞で倒れ、オネショしていた。ポールは悪魔祓いをする。息子デービッドの心臓の弁の穴が奇跡的小さくなっていた。また、デービッドのオネショも止んだ。祈りが聞かれた。悪魔払いの後にデイビッドの心臓病が奇跡的に回復する。おばあちゃんがデービッドの病気を変わりに背負ってくれたという解釈は、キリスト教的なモチーフである。

ちなみに韓国のキリスト教は、日本のそれとはかなり違う。歴史的にも、日本のキリスト教が知識人層を中心に受け入れられたのに対し、韓国では庶民層に浸透している。牧師が説教の最中に感情的になったり神がかりするようなものもあり、日本の新宗教を彷彿とさせるものもある。

以上、聖書の文脈を知っていると、映画に新たな発見がある、ということを簡単に書いてみた。今回の映画『ミナリ』が受け入れられた背景には、キリスト教的な要素、また韓国系のみならずアメリカ国内の移民の共感を得たこともあるのではないか。

<参考文献>
町山智浩の映画トーク 『ミナリ』(2020年)
・大木英夫「ピューリタン―近代化の精神構造 (中公新書)」
・島田裕巳『キリスト教入門』(扶桑社新書、2012年)

https://youtu.be/76dpyotsAdQ


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