雑記:クラブツーリズム奈良分室展示スペースのレプリカ

近鉄奈良駅ビル五階のクラブツーリズム奈良分室は、来店窓口営業は終了しているが、その一角にある展示スペースは現在も平日16時までは公開されている(見学は無料)。

この展示スペースにて公開されているものは、奈良にある著名文化財のレプリカや模型で、元来は近鉄が経営していた「奈良歴史教室」の展示物であった。

2000年に奈良歴史教室が閉館した後、奈良市が展示物を引き継いで奈良観光のガイド施設的な「なら歴史館」を開設したが、これも2011年に事業仕分けの対象になって閉鎖し、その後で展示物の一部がクラブツーリズム奈良分室に引き継がれ、現在に至っている(場所は近鉄時代から同ビルの四階と五階)。

目玉的な展示物は、新薬師寺の国宝十二神将のレプリカで、十二体すべてが再現された様は壮観である。

レプリカは四十年以上前に作成されたものであるが、かなり精巧なもので、新薬師寺の仏像とほとんど変わりなく再現されており、非常に迫力がある。

一部を紹介すると、十二神将の中も最も著名な伐折羅大将(下の写真一枚目、二枚目、三枚目)、十二体の中でも最も激しい憤怒相の宮毘羅大将(下の写真四枚目)、対照的に最も穏やかな表情をしている安底羅大将(下の写真五枚目、この安底羅大将は実物の写真と比べると表情に若干の違いがある)、左手を挙げたポーズが印象的な迷企羅大将(下の写真六枚目、七枚目)などである(なお、各神将の名称は、新薬師寺の伝によるもので、国宝としての登録名称とは異なる。これは登録時に参照した記録が誤っていたためで、実際の尊名としては寺伝の方が正しい)。

十二神将は二箇所あるスペースの広い方に展示されており、当然実際の仏像よりも間近で見ることが出来、窓から外光も入るため、細部まで鑑賞しやすくなっている。

新薬師寺で実際の十二神将を拝観した後で、こちらでレプリカを見て、細部まで確認すると言うのも良いかも知れない。

他にも、興福寺所蔵の旧山田寺仏頭のレプリカ(下の写真一枚目)や、薬師寺西塔の模型(下の写真二枚目)、桜井市の談山神社十三重塔の模型(下の写真三枚目)などもある(階段を挟んで両側にある二箇所のスペースのうち、仏塔と薬師寺西塔は、旧クラブツーリズムの窓口と同じスペースに、談山神社十三重塔は十二神将と同じスペースに展示されている)。

ここにある展示物は、いづれもレプリカや模型でもとより現物ではないが、かなり精巧に作られており、一見の価値がある。

私は奈良歴史教室の頃から存在は知っていたものの、展示物がレプリカなために特に関心を払ってこなかったのであるが(何せ、同じ奈良市内に十二神将も仏塔も実物があるので)、撮影が出来ると言うことで今回訪ねてみると、想像以上のクオリティに驚き、もっと早く訪れるべきであったと感じた。

奈良歴史教室営業時には、近鉄奈良駅の改札を出てすぐの所に大きな案内板があったのであるが、現在は全く何の案内もなく、旧歴史教室の展示物がクラブツーリズムに引き継がれて同じ場所にあるのを最近まで知らなかったと言うことも、訪れるのが遅れた理由としてある。

おそらくこちらの存在はあまり知られていないのであろうし(博物館施設ではなく旅行社の一部であるため、観光ガイドなどでも紹介されていないだろうし)、平日の昼間のみ公開と言うこともあってか、私が訪れた際には他の見学客はいなかった。

とは言え、前述のようにレプリカは大変出来映えが良いし、何よりもアクセスが抜群であるため、これまた先に書いたように新薬師寺の実物と見比べて見るのも良いだろう(後、邪道かも知れないが、新薬師寺は鉄道の駅からは少し離れた場所にあるため、時間の関係で回れないと言う人はこちらに寄ってレプリカを見学すると言う手もある)。

撮影可に加え、無料で見学出来ると言うのもありがたい(奈良歴史教室の時は二百円か三百円くらいの入場料があったと記憶している)。

紆余曲折を経てきた展示物達であるが、この後も末永く公開・保存されることを願いたい。


話はそれるが、かなり以前に桜井市多武峰にある談山神社を訪れた際に、実物の十三重塔を見たことがある。

紅葉の名所として知られる談山神社は、大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏打倒の密議をした場所とされ、「談山」の名はその故事に由来する。

元来は鎌足の子の定慧が創建した寺院であったが、明治初年の神仏分離の際に寺院は廃絶した。

十三重塔は、木造としては日本では現存する唯一の作例で、元来は定慧が鎌足の供養塔として造立したとされるが、現在の塔は戦国期の享禄五年に再建されたものであり、重要文化財に指定されている(下の写真は当時インスタントカメラで撮影したものを電子化したものであり、かなり画質が悪いのはそのため)。

また、境内の外に建つ十三十層塔は、藤原不比等(鎌足の子で定慧の弟)の供養塔と伝承されているが、鎌倉時代後期の永仁六年銘があり、元来は不比等とは無関係の石塔であろう。

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