痛みからしか成長は得られないのか
ちっちゃい頃、小学校低学年くらいの頃のことをなんとなく、ふと思い出した。
あたしちっちゃい頃すごい乱暴な子だったと思うの、たぶん。たぶんっていうのはゲンキンにもほとんど覚えていないから。
結構すぐ怒鳴った(喚いた?)し、たぶんすぐ手も挙げるような、そんな感じだったと思う。それでも弱っちかったから目立つようではなかったと思うけれど。
まぁ、そんな話はさておき。
何の授業だったかな、確か植物のスケッチをする授業だった気がするんだけど。
あたし画伯なので現代の人には理解されないような絵を描く人なんですよ。だから、絵を描くのがあまり好きではなくて。
でね、まぁたぶんテキトーに絵を描いていたと思うんだけど、それをね、前の席の男の子がぱっと取り上げてからかってきたんだよね(たぶん笑)。その子はべつにやんちゃっていうのかな、そういう子でもなくていたって普通の子で、多分出来心だったと思うんだよね。そういうのってあるじゃん。
ただそんなことされたらそりゃこっちもキレるわけで。あたし思いっきりその子のお腹を殴ったのね、結構本格的な角度だったと思う(笑)
大した力じゃなかったと思うんだけどその子が後ろに倒れて泣き出したかな、どうだったかな、まぁそんな感じになって。その子の顔と吹っ飛んだ後に小さいなりにやばいって感じ取って…。
絶対あり得ないと思うし、何思い上がってんだって感じだけれど、
どうしよう、臓器潰れたりしてないかな
なんてね、ちょっと本気で考えてた。
怖くなったのかな、それ以来人に手を挙げることはなくなった。いや、普通というか当たり前なんだけど。殴られても殴り返さなくなった。
あたしたちより上の世代は運動部とか殴る殴られるは当然だった、とか言うけれど、この間、お話しした人がこんなことを言っていた。
僕たちの世代はそう言ったことが当たり前だった。だから逆にどこまでなら大丈夫ってラインが分かってる。でも今の子たちはそういう経験がないから喧嘩とかしてもどこまでやっていいか分からないから必要以上にやってしまうような気がする。
そんな内容だったと思う。この話をしてくれた人もあたしも暴力に賛同するわけじゃないけれど一理あると言えば一理あると思う。
人の痛みが分かった時とか悔しい時に人は成長するって言うけれど、確かにその通りだとは思うけれど。あっ、悔しいってある意味自分に痛みが伴ってるでしょう。
でもそれって誰かはどこかで傷ついているわけでしょう。
あたしだって、人を殴ることについて成長って呼んでいいのか分からないけれど成長した、学んだわけだけれど、そこに殴られた彼がいたわけでしょう。
人間一度痛い目見れば分かるって言うけれどそれは劇薬であって初手ではないと思うのよ。
至極当たり前なことを書いたような気がするけれど、成長にも色々形はあるけれど。
できれば、誰も痛みも伴わない形で成長を手に入れたいよね。
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