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史料でよむ世界史 1.2.9アレクサンドロス大王



19世紀以降、ドイツ人の歴史家ドロイゼンによって「ギリシア文化をオリエントに伝え、両者を融合させた(オリエントの文明をギリシア化させた)人物」と評価されるようになったアレクサンドロス大王

しかし、片田舎のギリシア文明のマケドニアが、数千年の歴史を持つオリエントの文明を凌駕するに至ったというのは、あまりにも不自然です。

アレクサンドロス大王は、実際のところはどのような人物だったと言えるのでしょうか。


視点1 ギリシア人の史料を通した見方

例1)「この王は短期間にこの上ない偉業を成し遂げ 、彼自身の英知と勇気のおかげで 、その功業の 大きさは 、太古の時代から記憶によって伝えられているすべての王を凌駕した 。というのも、彼は一二年でヨーロッパの少なからぬ部分とアジアの大半を征服し 、古の英雄や半神たちに匹敵する赫々たる名声を手に入れたのだから」 (ディオドロス第一七巻一章 ) 。

例2
思うに当時 、人類のいかなる種族 、いかなる都市 、いかなる人物であれ 、およそアレクサンド ロスの名が届かなかった場所はなく 、その名を聞かなかった者もいなかった 。実際かくも比類なき人物は 、∫と私には思われる (アリアノス第七巻三〇章 ) 。
 (森谷公俊『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2012=2016)

例3)
「一般に、アレクサンドロスは東方人に対しては尊大で、しかも自分が神から生まれた神の子であることを固く信じているようだったが、ギリシア人に対しては、自分を神とするのは適度に控えめに していた。(...)アレクサンドロスは、自分が神だという評判に影響されたり目を眩まされたわけでは なく、この評判によって他人を服従させようとしたのである」(プルタルコス、第 28 章。太字は引用 者)

例4)
 「アレクサンドロスが自分の出生を神に帰したことも、それが臣民に威厳をもって臨むための方便 にすぎなかったとすれば、私はそれほど大きな誤りだったとは思えない。」(アリアノス、第 7 巻 29 章。太字は引用者)

アレクサンドロス大王に関する史料は、複数の著者のものが現存しています。

森谷公俊さんによれば、(1)アリストテレスの親戚にあたる歴史家カリステネス。(2)技術者 ・建築家のアリストブロス 。(3)マケドニアの貴族で 、アレクサンドロスの側近の一人プトレマイオス 。(4)犬儒学派の哲学者ディオゲネスに学んだ哲学者オネシクリトス 。(5)ギリシア人で大王の朋友でもあったネアルコス 。(6)前三世紀初頭 、プトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアで活躍したクレイタルコス—これら6名による史料が知られています。

「アレクサンドロス研究においてはこれら一一人を常に念頭に置き 、現存作品のどの部分にどの原典が用いられたかをたえず確認しながら 、記述の意図や信憑性を検証しなければならない。これだけでも十分に複雑な作業である 。ところがそれだけではない 。原典である六篇の作品自体が、すでにそれぞれ独自の大王像を描いていた。それらがさ らにローマ時代の作家によって変形 ・修正されているのである 。要するにわれわれは 、ヘレニズム時代とローマ時 代という二重のフィルタ ーを通してしかアレクサンドロスを眺めることができない。」(森谷公俊、上掲より)

アレクサンドロスに関する人口に膾炙した逸話の多くは、こうした史料をベースにしていることが多いわけです。
ですから、アレクサンドロス大王を多面的にとらえるためには、それ以外の史料も視野に入れて検討していく必要があります。


視点2  アリストテレスの見方

例1) アリストテレスはアレクサンドロスが王位につくと、『王たることについて』という論説を書き、王に贈った。アレクサンドロスは「今日、自分は王ではなかった。なぜなら私は今日、誰に対しても善いこ とを成し得なかったからだ」といつも述べていたという。

例2) 「青年は、身体に関わる欲望の中でも特に性的な欲望を追い求めがちで、自分でこれを抑制する 力がない。また、欲望に対しても気移りし易いし、飽き易く、激しく求めるかと思えば、さっと止んで しまう。世の醜悪なところをまだ見ていないため、気立ては悪くなく、むしろお人好しであるし、人に 騙され易い。どんなことでも知っていると思い込み、それを言い張る。」
(『弁論術』第 2 巻 12 章、戸塚七郎訳)

例3) 『植民地の建設について』
 「...ここでアリストテレスは、ギリシア人達には友人や同族の人々として配慮し、彼らの指導者として振る舞うこと、異民族に対しては彼らの専制君主として臨み、動物や植物のように取り扱うことを勧めている。異民族を動植物同然と見なすアリストテレスの言葉は、当時のギリシア人が外国人= バルバロイに抱いていた感情を集約したものだ彼の学問が一見広大なようでいて、所詮ギリシア 世界の狭い枠組みを超えられなかったことを証明している。これに対してアレクサンドロスは遠征先の各地に都市を建設し、マケドニア人やギリシア人ばかりか地元の住民をも住まわせ、またペルシア人貴族を高官や側近に採用した。」(森谷、上掲。太字は引用者)

アリストテレスはアレクサンドロス大王の家庭教師として知られますが、これらの史料・資料からは、アレクサンドロス大王に対するアリストテレスの影響が限定的であったことがうかがわれます。特に例3からは、両者の外国人に対する認識の違いがわかります。



視点3 バビロン人に対するアレクサンドロスの見方/バビロン人のアレクサンドロスへの見方

では実際にアレクサンドロス大王は、外国人(バルバロイ)に対してどのような視点を持っていたのでしょうか。
そのへんがうかがえる、メソポタミアのバビロンに入城したアレクサンドロスに関する史料を読んでみましょう。


例1)入城の様子 (クルティウスの伝記)
「バビロニア人の多数は新しい王をひと目見ようと城壁の上に陣取ったが、それよりさらに多くの者たちが町の外へ出て彼を待ち受けた。その中には城塞と王室金庫を管轄するバゴファネスもい た。彼は王を歓迎する熱意においてマザイオスに負けないよう、街路に花と花環を撒き散らし、街路の両側のあちこちに銀の祭壇を配置して馬と家畜の群れが続き、獅子と豹が檻に入れられてそ の前を運ばれた。次にマゴス僧たちが慣例に従って讃歌を歌い、彼らのあとにはカルデア人(最 高神マルドゥクの神官)とバビロニア人が進んだ。最期にバビロニア人騎兵たちが行進した。騎兵 と馬の装束は、荘重華麗というよりもむしろ豪華絢爛たるもので、ひたすら贅を尽くしたものだった。
アレクサンドロスは麾下の軍勢にびっしり取り囲まれ、都市住民たちからなる群衆には(マケドニア人)歩兵のしんがりの後について進むよう命じた。彼自身は戦車に乗って都市に入り、それから 宮殿に入った(第 5 巻 1 章)。」

この入城儀礼は、サルゴン 2 世もキュロス 2 世もおこなったバビロンの伝統的儀礼でした。バビロンはアレクサンドロスに先立つ数千年の歴史を持つ、オリエントの最先端の都市。この都市の支配層の支持を取り付けなければ、オリエント支配はままなりません。

このとき大王はバビロンの神殿と聖域を尊重することを布告しています。



一方、ペルシア文化の無理解から来る行き違いがなかったわけではありません。それを示唆する例2を見てみましょう。

例2)無二の親友ヘファイスティオンの葬儀に際して
「(大王は)アジアのすべての住民に、ペルシア人の間で聖なる火と呼ばれているものを、葬儀が終わるまで入念に消すよう命令した。これはペルシア人が王の死に際して行う習慣だったものである。多くの人々はこの命令を不吉な前兆だと思い、王は大王の死を予言していると考えた(第 17 巻 114 章)。」

「ペルシア人の間で聖なる火と呼ばれているもの」とは、おそらくゾロアスター教の信仰で使用される火である可能性があります。

これを「消せ」と命令したことで、住民たちは混乱してしまいました。師アリストテレスと異なり脱・ポリス的で柔軟な思考を持っていたアレクサンドロス大王にも、オリエント理解に対する無理解はあったわけです。


視点4 アケメネス朝ダレイオス3世による見方

前 333 年末、ダレイオス 3 世のユーフラテス川以西を割譲する申し出に対する拒否の書状(アリアノス伝、太字は引用者)

アジア全土に主人たる者は今やこの私である以上、貴下こそ我が許へ来られよ。もし我が許へ 来るにあたり、私より何か不快な処遇を受けはせぬかと危惧されるなら、我が方からの制約を受け 取るべく、側近の者を派遣せよ。(......)今後貴下が私の許へ申し出をなすにあたっては、アジアの王に対するものとしてなすべきであり、対等の立場で交渉することはまかりならぬ。(第 2 巻 14 章)」

前 331 年ガウガメラの会戦の勝利後、リンドスのアテナ女神に犠牲を捧げた際 「王アレクサンドロスはダレイオスを戦で破り、アジアの主人となったが故に、神託にしたがいリンドスのアテナ女神に犠牲を捧げた。」

アケメネス朝[ハカーマニシュ朝]の王が、みずからを「アジアの王」と考えていたことがうかがえます。

当時の文明の先進地帯は、まぎれもなくアジア(オリエント)でした。
辺境であるギリシアのマケドニアの王にとって、「アジアの主人」となることは文明の中心に玉座を得ることを目指すものであったのです。

こうしてみてみると、「アレクサンドロス大王は、ギリシアの文明をアジア(オリエント)に伝えた英雄だった」という視点が、あくまでギリシアに中心を置いた後世の見方に過ぎないことがわかりますね。
そもそもギリシアの文明というものは、シリアの延長線上に位置する「オリエントの文明」の一分派に過ぎないと見た方が、当時の地中海世界のとらえ方としては適切でしょう(要するに、教科書の構成がいつまで経っても「ギリシア」「ローマ」「ヘレニズム」を、「オリエント」と別立てにしているのがよくないのです。地中海世界の枠組みの中で、あくまで並列的に扱うべきでしょう)。


最後に、旧アケメネス朝の王族・貴族による見方を紹介しておきましょう。アレクサンドロス大王が「アジアの王」たる地位を獲得するために「アケメネス朝」の血筋を得ようとしていたことがわかります。


視点5 旧・アケメネス朝の王族・貴族による見方


「前 324 年、スーサにおいて集団結婚式が行われ、アレクサンドロスはアカイメネス王家の二人の娘と同時に結婚した。一人はダレイオス 3 世の長女スタテイラ、もう一人はアルタクセルクセス 3 世 の娘パリュサティスである。ダレイオスがペルシア王家の傍系なのに対し、アルタクセルクセスは王家の直系に属していた。それゆえ大王は、ペルシア王家の二つの血統を手に入れたことになる。」 (森谷、上掲書)


参考



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