19世紀以降、ドイツ人の歴史家ドロイゼンによって「ギリシア文化をオリエントに伝え、両者を融合させた(オリエントの文明をギリシア化させた)人物」と評価されるようになったアレクサンドロス大王。
しかし、片田舎のギリシア文明のマケドニアが、数千年の歴史を持つオリエントの文明を凌駕するに至ったというのは、あまりにも不自然です。
アレクサンドロス大王は、実際のところはどのような人物だったと言えるのでしょうか。
視点1 ギリシア人の史料を通した見方
アレクサンドロス大王に関する史料は、複数の著者のものが現存しています。
森谷公俊さんによれば、(1)アリストテレスの親戚にあたる歴史家カリステネス。(2)技術者 ・建築家のアリストブロス 。(3)マケドニアの貴族で 、アレクサンドロスの側近の一人プトレマイオス 。(4)犬儒学派の哲学者ディオゲネスに学んだ哲学者オネシクリトス 。(5)ギリシア人で大王の朋友でもあったネアルコス 。(6)前三世紀初頭 、プトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアで活躍したクレイタルコス—これら6名による史料が知られています。
アレクサンドロスに関する人口に膾炙した逸話の多くは、こうした史料をベースにしていることが多いわけです。
ですから、アレクサンドロス大王を多面的にとらえるためには、それ以外の史料も視野に入れて検討していく必要があります。
視点2 アリストテレスの見方
アリストテレスはアレクサンドロス大王の家庭教師として知られますが、これらの史料・資料からは、アレクサンドロス大王に対するアリストテレスの影響が限定的であったことがうかがわれます。特に例3からは、両者の外国人に対する認識の違いがわかります。
視点3 バビロン人に対するアレクサンドロスの見方/バビロン人のアレクサンドロスへの見方
では実際にアレクサンドロス大王は、外国人(バルバロイ)に対してどのような視点を持っていたのでしょうか。
そのへんがうかがえる、メソポタミアのバビロンに入城したアレクサンドロスに関する史料を読んでみましょう。
この入城儀礼は、サルゴン 2 世もキュロス 2 世もおこなったバビロンの伝統的儀礼でした。バビロンはアレクサンドロスに先立つ数千年の歴史を持つ、オリエントの最先端の都市。この都市の支配層の支持を取り付けなければ、オリエント支配はままなりません。
このとき大王はバビロンの神殿と聖域を尊重することを布告しています。
一方、ペルシア文化の無理解から来る行き違いがなかったわけではありません。それを示唆する例2を見てみましょう。
「ペルシア人の間で聖なる火と呼ばれているもの」とは、おそらくゾロアスター教の信仰で使用される火である可能性があります。
これを「消せ」と命令したことで、住民たちは混乱してしまいました。師アリストテレスと異なり脱・ポリス的で柔軟な思考を持っていたアレクサンドロス大王にも、オリエント理解に対する無理解はあったわけです。
視点4 アケメネス朝ダレイオス3世による見方
アケメネス朝[ハカーマニシュ朝]の王が、みずからを「アジアの王」と考えていたことがうかがえます。
当時の文明の先進地帯は、まぎれもなくアジア(オリエント)でした。
辺境であるギリシアのマケドニアの王にとって、「アジアの主人」となることは文明の中心に玉座を得ることを目指すものであったのです。
こうしてみてみると、「アレクサンドロス大王は、ギリシアの文明をアジア(オリエント)に伝えた英雄だった」という視点が、あくまでギリシアに中心を置いた後世の見方に過ぎないことがわかりますね。
そもそもギリシアの文明というものは、シリアの延長線上に位置する「オリエントの文明」の一分派に過ぎないと見た方が、当時の地中海世界のとらえ方としては適切でしょう(要するに、教科書の構成がいつまで経っても「ギリシア」「ローマ」「ヘレニズム」を、「オリエント」と別立てにしているのがよくないのです。地中海世界の枠組みの中で、あくまで並列的に扱うべきでしょう)。
最後に、旧アケメネス朝の王族・貴族による見方を紹介しておきましょう。アレクサンドロス大王が「アジアの王」たる地位を獲得するために「アケメネス朝」の血筋を得ようとしていたことがわかります。
視点5 旧・アケメネス朝の王族・貴族による見方
参考