ニッポンの世界史【第5回】 マルクスの史的唯物論のインパクト
”公式”世界史に対する批判
ともかくも文部省によって学習指導要領(試案)がつくられ、”公式”世界史の体裁は整いました。
しかし、こうした”公式”世界史への対抗軸("非公式"世界史)にも目を配る必要があります。
その動きの中心となったのは歴史教育者協議会(歴教協)と歴史学研究会です。
歴教協は1949(昭和24)年7月14年に創立された民間教育研究団体で、これまでの歴史教育が、学問的な研究を反映したものではなかったことへの反省から設立されました(会誌である『歴史地理教育』は昭和29年に創刊され、現在も刊行され続けています)。
世界史の動向においては、1951年8月には『歴史教育月報』7号(歴教協の機関紙『歴史地理教育』の前身)に掲載された高校世界史教科書批判が重要です。
これを承け、「ヨーロッパ中心の近代主義的傾向」の問題点やどのようにすれば「アジア」が正当にとりあげられるのかといった議論がはじまりました(鈴木亮『大きなうそと小さなうそ』ぽるぷ出版、1984)。
もう一方の歴史学研究会(歴研)は、東京帝国大学文学部史学科出身の若手有志により、1931年に結成された「庚午会」を前身とする組織です。
歴史教育者の吉田悟郎は在学中から歴研に出入りし、大学よりも大きな学びを得たと回想しています(「<インタビュー記録>歴史教育体験を聞く : 吉田悟郎先生」『歴史教育史研究』4、2006)。
はじめは特定の思想や政治的信条にもとづく組織ではありませんでしたが、石母田正(いしもだしょう、1912〜1986)や遠山茂樹(1914〜2011)のように戦争に批判的な若手研究者も集まっていたことから特高ににらまれ、1944年8月に解散しました。
そして敗戦の年に、遠山茂樹・高橋磌一(たかはししんいち、1913〜1985)・松島栄一(1917〜2002)らにより活動が再開されることになります。この段階でも、特定の思想や政治的信条にもとづいているわけではなく、大学や専攻にとらわれない自由な研究組織でした(永原慶二『20世紀日本の歴史学』吉川弘文館、2003、140-141頁)。
こうした組織を舞台に、1950年代から1960年代にかけて現場の教員と大学教員が一体となって、世界史をいかにとらえるべきかという問題(「世界史認識」)について議論が深められていくことになります。
現場の教員をうごかしていたのは、自分たちが教え子を戦地におくりだしてしまった罪責感です。どうすれば新しい時代の歴史教育といえるのか、その道筋は必ずしもはっきりしたものとはいえませんでしたが、「民主社会の担い手の育成」が一番の目的という点では共通していました。
「社会科」が生まれる以前の「西洋史」の学習指導要領(試案)には次のようにあります。少し長いですが、その後の風潮の変化との違いをみきわめるために引用しておきましょう。
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マルクスの史的唯物論
戦前の皇国史観や”公式”世界史への批判として、新しい歴史学・歴史教育をつくろうとする人々の期待を集めるようになったのは、「科学」的に社会の発展の歴史を説明する理論でした。
そのひとつがカール・マルクス(1818〜1883)の唱えた史的唯物論に基づく発展段階理論です。
なんだかむずかしそうですが、ようするにマルクスの考えた、「人類社会の社会は次のように発展していったはずだ」のだというセオリーです。
まず、それぞれの社会には、それぞれの社会特有の自然との関わりや、生産力の特徴がある、と考えます。
たとえば、みんなが狩猟をして生活している社会と、会社に行って働いている社会では、モノを生産する道具や土地、働き方に違いが出てくる。もっと言えば、人と人との関係のあり方に違いが生まれる。たとえば古代社会になると、支配階級と奴隷が登場する。中世封建社会では領主と農奴が、近代市民社会では資本家と労働者というように、それぞれの社会は一定の「生産関係」をもっている。
さらに、こうした「生産関係」は、個々人の意志を超えたものであって、「みんなが当たり前だと思っている社会のしくみや価値観」(政治や法律、道徳や宗教、それに芸術)は、これに従うほかないと考えます。
つまり土台部分(下部構造)の「生産関係」は、二階部分(上部構造)の部分である「イデオロギー」(人々を動かす考えかた)を規定することになる。物質的なモノがどんなふうにつくられ、人々の手にわたるのかという現実的な条件によって、人々の関係性や考え方がきまるのであって、その逆ではないということです。
しかし、それぞれの段階における人々のつながり(生産関係)は、遅かれ早かれ、その社会の人々を支える生産力を維持しようとしても無理が生じることになる。
そのとき、革命という形で、必然的にその社会は次の社会のあり方(社会構成体)へとアップデートする—。
ざっくり言えば、こんなふうに考えられたわけです。
唯物史観はなぜ受け入れられたか?
このマルクスの歴史の見方が、戦後日本の歴史学にインスピレーションを与え、これをもとに世界史を構成していこうということになりました。
なぜか。
まず第一に、マルクスの理論が「科学的」であると考えられたからです。先ほどの説明はおおざっぱなものですが、その中身たるや、とても壮大で緻密でありました。マルクスや、その盟友エンゲルスの書いたものだけでなく、20世紀初頭に実際にマルクスとエンゲルスの考えを信奉したレーニンやトロツキーという人たちが、ロシアで自分たちの手で革命をはじめてしまう。そうすると、彼らやその後継者によって、マルクスの文章に膨大な注釈がつけられていく。誤読といえるものも含めて、壮大な体系になっていったわけです。
敗戦直後の日本人は、戦争をふりかえって、自分たちが「非科学的」な精神主義に陥っていたと痛感する。そのなかで一筋の光明として降り注いだのが、マルクスの理論であったんですね。
マルクスの歴史の読み方によれば、人類の社会構造は、経済的な条件に規定されます。
では、どうやって社会構造が高次のそれへ移行していくのか。その法則、すなわち「世界史の基本法則」を割り出すことができれば、次の答えがつかめるかもしれない。
(1)どうすれば西欧や日本が導入した、資本主義社会の「まちがい」を正すことができるのか?
(2)日本はなぜ、西欧とは異なる「まちがった」発展の道筋をたどり、戦争への道に突き進み敗戦という結果に至ったのか?
そう期待されたのです。
(1)の動機に基づいた世界史の見方は、すでに戦前から見られました。
よく読まれていたのは、ソ連で刊行された世界史全集の邦訳です。しかし、共産主義に対する弾圧が強まると、いったんアンダーグラウンドなものとならざるをえなくなりました。
息を吹き返したのは戦後のことで、たとえば1950年には羽仁五郎(1901〜1983)が『日本人民の歴史』を岩波書店から刊行し「日本には、人民の歴史がなく、支配者の歴史しかなかった」と訴えています。
その前年には『アララギ』の同人でもあった赤木健介(伊豆公夫名義、1907〜1989)も、『人民の世界史』(正旗社、1949年。『青年のための世界歴史』(1946年)の改版)を出版しています。
どのような世界史が構想されていたのかわかる箇所を抜き出しておきます。
つまり、歴史というものは、特定の個人の偶然や思いつきによって切り開かれるのではなく、経済的な諸条件の生み出した階級の関係が「おかしい」ことに気づいた偉大な人間によって切り開かれるのだというわけです。
1952年に刊行された『史的唯物論』(ソ同盟科学アカデミー哲学研究所編、下巻、1952)の「歴史における個人の役割」という項には、ソ連のスターリンの言葉が次のように引用されています。これもわかりやすいので、引いておきましょう。
一方、戦前に特に歴史学界において支持を広げたのは、(2)の動機に基づいた世界史の見方です。
人類の社会はどのように発展するのか、すなわち「世界史の基本法則」を割り出すことができれば、日本がなぜ「まちがった」発展の道筋をたどることとなったかも明らかにされる。そのように考えられたのですね。
一枚岩ではなかったマルクス主義史学
ただし、マルクス主義史学の内部が、必ずしも一枚岩ではあったわけではありません。また、歴史学者がみなマルクス主義的な考え方をとったわけでもありません。
たとえば羽仁五郎と井上清のグループ潮流がマルクス主義を全面に押し出した方針を掲げ、規定の手続きを経ずに1946年1月に歴史学研究会の主導権をとろうとして問題となったことがありました。
いわゆる「羽仁クーデター」といわれる出来事です(『歴史としての戦後史学』角川ソフィア文庫)。
しかしこの動きへの抵抗は強く、同年3月に改めて総会がひらかれ、代わって国史の石母田正や西洋史の倉橋文雄がリードすることとなっています。
これに対抗するように、マルクス主義者も加わる形で作られたのが「民主主義科学者協会」(略称は民科)です(今でもこれをルーツとする後継組織は存在しますし、『歴史評論』という機関紙は、歴史科学協議会に発行元を変え、現在でも発行されつづけています)。
とはいえ、歴史学研究会も時流には抗えず、結果としてマルクス主義的な考え方への傾斜を強めていきます。
たとえば1949(昭和24)年には、従来の日本・東洋・西洋の三部会制を改めて、世界史的立場から原始古代史・封建史・現代史部会に変更されています。また、この年の年次大会では「各社会構成における基本的矛盾について」がテーマとなり、『世界史の基本法則』として刊行されています。
とはいえ、マルクス主義的な発展段階論によって、各国・各民族の歴史がすべて説明できるかといえば、そんなに甘くはありません。
まず法則のほうが先にあって、個々の歴史的事実は、その法則に沿うようにして拾い上げられることになってしまう。これでは、どうしても事実よりも法則が重んじられることになりかねません。
また、マルクスの歴史観のベースには、根強いヨーロッパ中心主義と、アジアに対する蔑視もあります。これはマルクスに限ったことではなく、当時の西洋世界における世界史叙述の抱える一般的な問題でもありました。
もちろんマルクス主義的な唯物史観の立場から、「中国や日本には、マルクスのいうアジア的生産様式はあったのか?」とか、「日本には市民革命はあったのか?」といった問いが立てられ、多くの史料が詳細に掘り起こされたことには一定の意味もありました。
しかし、マルクスの描いた「大きな物語」の公式にあてはめて過去を理解することが重要だという研究者にとっては、むしろ実証主義的な、堅実な研究者(戦前に強い影響力をもっていたアカデミズム実証主義歴史学)は「実証主義的な歴史家」に映ります。たとえば文部省教科書『くにのあゆみ』にかかわり、のちに教科書裁判で知られるようになる家永三郎も、実は批判の対象となった一人でした(網野善彦『歴史としての戦後史学』角川ソフィア文庫、2018)。
近代主義者からの批判
このように歴史学へのマルクス主義の影響は強まっていきましたが、これに影響を受けつつも、ヨーロッパ以外の文明の思考様式に注目したマックス・ウェーバーの影響を受けた研究者が、同時に発言力を増していたことも、付け加えておきましょう。
たとえば、ヨーロッパ近代史(イギリス)の大塚久雄のもとには、フランス史研究の髙橋幸八郎(1912〜82)や、ドイツ史研究の松田智雄(1911〜95)があつまって「大塚史学」が形成されています。また、法社会学の分野では川島武宜(かわしまたけよし、1909〜92)、また政治思想の丸山眞男(1914〜96)、地理学の飯塚浩二(1906〜70)が重要です。
彼ら近代主義グループは、マルクス主義に先んじて、すでに戦中に日本の近代に対してするどい批判を展開し、学問を形成していました。
その上で敗戦を契機に、戦前の軍国主義を消し去り、民主的で進歩的な社会を形成しようとする機運が、彼らの発言力を高めたのです。
歴史学の動向を細かくおさえることは、ここでの目的ではありませんから、このへんにしておきましょう。
ともかく、1940年代後半から1950年代初めにかけて、産声をあげたばかりの「世界史」は、歴史学に吹き込んだ”新風”であるマルクス主義と近代主義の影響を受けていたわけです。
一方で、”公式” 世界史たる学習指導要領(試案)は、それら”非公式”世界史の動きに対して、きちんと釘を刺していました。
先ほどの引用した部分のなかに、次のような箇所があります。
とはいえ、どのように扱えば「世界史」といえるのか、その体裁はいまだぼんやりしていました。
とはいえ、いずれの「世界史」の根底にも、日本が歩んだ近代や、現状の社会体制に対する強い問題意識がありました。
大きな理論に魅せられつつ、複数の世界史像がひしめいていた時代。1940年代後半から1950年代初めにかけては、そのような時代でありました。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊