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ゼロからはじめる世界史のまとめ⑰ 1650年~1760年の世界

本日の「まとめ」は1650年~1760年の「輪切り」です。
日本の歴史では「江戸時代の中頃」にあたる時代の世界各地の様子を眺めてみましょう。


ヨーロッパ諸国が外に向けて発展し、海の重要性が高まる時代


―この時代、大砲や銃が広まったために、ユーラシア大陸の草原地帯を牛耳っていた遊牧民の軍事力は、もはや「最恐」とはいえなくなりました。

銃でバーン!と撃てば、馬もビックリしてしまいますもんね。
―だよね。
 そして各地の国々は貿易の利益を求めてますます海沿いに進出していくよ。


銃を手にした定住民たちの「時代到来」ですね!
―でもね、この時代は「ミニ氷期」(注:小氷期)ともいわれる寒い気候が世界各地を襲ったこともあり、経済活動はスランプにおちいってしまうんだ。反乱とか革命とか、良からぬことが各地で同時多発的に起きているよ。


前の時代は「拡大」の時代だったのに…
拡大にも「限界」があるからね。開発をし過ぎれば、環境破壊にもつながるし。

 面積の狭いヨーロッパの国々は「限界突破」のため、盛んにアメリカ、アジア、アフリカに進出し、利益につながりそうな物を自分の国に持ち込んだ。
 とくにアメリカはスペイン(一部、ポルトガル)によって利用されるだけ利用されたおされていく。

 ただ、ヨーロッパ各国は国内外の資源争いを背景として、国と国とのケンカがエスカレートしているよ。

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◆1650年~1760年のアメリカ

―アメリカは、いちばん先に乗り込んだスペインと、あとからやってきたフランス、イギリスとの間で「植民地取り合い合戦」がはじまっている。
 「インディアン」と呼ばれた先住民族たちは、ヨーロッパの人たちが自分たちの土地を奪おうとしていることが分かると必死の抵抗をこころみるものの、持ち込まれた病気によって人口は減っていった。
 武器などの点でも圧倒的な差があったから多くが悲惨な結果に終わったけど、なかにはヨーロッパから持ち込まれた馬を駆使した民族や、逃亡した黒人たちと強力してヨーロッパ人に立ち向かおうとした民族もいたんだよ。


やられっぱなしではないわけですね。
―インディアンたちにとって面倒だったのは、ヨーロッパの国どうしの「駆け引き」に巻き込まれたことだ。
 たとえば、イギリスとフランスは、ライバルどうしの先住民族をそれぞれ応援し、武器を与えて戦わせた


悲惨ですね…。アメリカ大陸に進出しようとしたのは他にはなかったんですか?
―赤道に近い熱帯の島々が浮かぶカリブ海には、イギリス、フランスのほかにオランダも進出したよ。
 ここは島が多く、ハリケーンもたくさん発生するから警備が手薄になりがちな場所で、先に来ていたスペインがうまく支配することができていない場所だった。当時は「カリブの海賊」の根城になっていたんだ。

 でもサトウキビの栽培にもってこいの場所なので、当時ヨーロッパでヒットしていた紅茶に入れるための砂糖の多くが、ここに運び込まれた黒人によって生産されたんだ。


だからハイチ地図には今でも黒人が多い。 Photo by Bailey Torres on Unsplash


ヨーロッパ人は自分たちの紅茶に入れる砂糖がまさかそんなふうにして作られていたなんて、思いもよらないでしょうね。
―だよね。
 この「黒人奴隷」で「砂糖」をつくるビジネスで大儲けしたのがイギリスだ。イギリスが今後、世界ナンバーワンの先進国としてのし上がっていくきっかけとなったのは、大西洋をまたにかけたこの貿易だといわれているよ。


南アメリカはどんな感じですか?
―ブラジルはポルトガルが支配し、その他のエリアはスペインが植民地にしているよ。
 各地からは特産品(ブラジルの金(ゴールド)など)がヨーロッパに輸出され、現地の人の気持ちを無視した支配が続けられた。


現地の人たちは一丸となって反乱を起こしたりしなかったんですか?
―もともといた先住民族に強い「まとまり」はなかったし、ヨーロッパ人との結婚も世代を追うごとに、よくあることになっていった。
 さらにそこへアフリカ人が奴隷として流れ込み、人種を超えたカップルも生まれる。


そうなると、とっても複雑な社会になりそうですね。
―そうだね。
 ただ、この時代には、かつて広い範囲を支配していたインカ帝国という国の、支配者の子孫を名乗る者が各地で反乱を起こすようにもなっている。成功はしなかったけどね。

 また、アメリカでスペイン人の両親から生まれた人たちの中には、「アメリカ生まれ、アメリカ育ち」という、スペイン人とは違うんだ。俺たちはアメリカ人だ」という意識も生まれていく。

 こういった雰囲気が、次の時代になるとスペインに対する反抗につながっていくことになるんだ。

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◆1650年~1760年のオセアニア

―この時代は、オセアニアに一体どんな人たちがいるのか、ヨーロッパ人に「バレてしまう」時代だ。


わたしたちにはオセアニアに長い歴史があることがわかりますが、ヨーロッパ人にとっては分かりませんもんね。
―そうだね。この時代にはオランダ人の探検家が細かく調査をしたのだけど、報告書を読んだヨーロッパ人の中には「現実とは違った」イメージを持つ人もでてくる。「のんびりしたパラダイス」とか「文明を知らない人たちの素朴な楽園」みたいなね。

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◆1650年~1760年の中央ユーラシア

―この時代になると、定住民の軍事力が、草原地帯の遊牧民のパワーにいよいよ追いつくようになる。


大砲や銃の力ですね。
―そうだよ。火薬の力が馬の力に勝ったわけだ。
 草原地帯では、モンゴルの血を引く遊牧民のリーダーによる「最後の遊牧帝国」が勢力をのばすけど、中国の皇帝によって、砂漠地帯に住んでいたトルコ系のウイグル人たちとセットにされて、支配下に置かれることになってしまった。


当時の中国の皇帝って、北部出身の民族なんですよね。
―もともと漢字も使えなかった女直(じょちょく)という民族だ。この時代に領土を拡大させていき、西から領土を拡大したロシアとの間に国境線を引いているよ(注:ネルチンスク条約)。


ロシアってヨーロッパの国なのに中国のほうまで拡大しているんですね…
―ロシアはかつて長い間モンゴル人によって間接支配を受けていたから、草原地帯の事情には詳しかったんだ。

 ただ当時はまだ遊牧民を倒すまでの力はなかったから、北の方に広がるさむ~い森林や平原を東に東に進んでいったんだ。


そんなところまで遠征する兵隊はどうやって集めたんですか?
モンゴルの子孫の人たちやトルコ系の遊牧民に頼んだんだ。「征服したら、そこに自由に住んでいいよ」っていうことで。
 外国を支配するために外国人を利用したわけだ。自分の手は汚さずに済むからね。


インドの北のチベットはどうなっていますか?
―チベットでは、モンゴル人のリーダーがチベット人の仏教のお坊さんを保護し、強い国が建設されているよ。

チベット仏教のお坊さんたち Photo by Will Pagel on Unsplash

 しかし、モンゴル人とチベット人が「手を結ぶ」ことを恐れた中国の皇帝は、軍隊を出動させてチベットの大部分を占領してしまった
 それ以来、チベット人は間接的に中国のコントロール下に置かれることになるよ。

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◆1650年~1760年のアジア


―この時期には寒かった気候がいったん持ち直し、各地で「開発」がすすみ、人口が増えていくよ。日本でも、今まで田んぼのなかったところに新しく田んぼがつくられるようになったのもこの時代だ。


技術が発展したっていうことですか?
文字の読める人が増え、新技術が伝わりやすくなったことも大きいね。
 だけどアジアの場合は人口が多いから、マンパワー(人の力)に頼ったところが大きいかな
 お米は小麦に比べ、狭い面積で育ててもたくさんの人を養えるだけの収穫が見込めるから。


収穫が増えれば、商業も盛んになりそうですね。
―そうだね。日本各地を結ぶ貿易ルートが整備され、大商人が特産品を仕入れて全国に売り出し、ヒット商品も数多くできた

 日本には、沖縄にある琉球(りゅうきゅう)王国を通して、中国や東南アジアの特産物が流れ込んでいたよ


あれ? 日本は「鎖国」(さこく)していたんじゃないんですか?
―実は日本は外国との関係を100%閉ざしていたわけではなく、窓口として「4か所のドア」が開かれていたんだよ(注:四つの口)。
 青森からは北海道のアイヌ。
 福岡の北にある対馬(つしま、地図)からは朝鮮。
 長崎ではオランダと中国。
 鹿児島を通して、沖縄。
 窓口の所在地には外国の事情に詳しい支配者が置かれ、国の管理下で貿易が行われていたんだ。


ずいぶん貿易が盛んですね。当時の中国も貿易に熱心だったんですか?
―当時、中国の北にいた女直(じょちょく)という民族が、モンゴル人を味方につけて中国の皇帝に即位していたよね。

 でも、この女直に滅ぼされた前の皇帝一族は、復活を夢見て南のほうに逃げていたんだ。


中国の南の方には港町がたくさんありますから、経済力がありそうですね。
―そうなんだよ。
 前の皇帝一族の中には、当時東アジアの海で活躍していた武装民間商人グループと協力し、女直を中国から追い出そうとした人もいた。
 そこで女直人の皇帝は、この武装民間商人グループのアジトである台湾(地図)を攻撃し、占領することに成功
 前の皇帝一族を完全にやっつけることに成功したんだ。


大変でしたね。でも女直人が、圧倒的多数の中国人を支配するのって大変じゃないんですか?
―その通り。
 だから、甘くするところはそれなりに甘く、でも厳しいところ徹底的に厳しい態度を見せて、批判が出ないようにおさえこんだ。
 「女直人に協力すれば有利になるぞ」と、中国各地の漢人の有力者たちをうまーく取り込んだんだ。

 税のとり方をシンプルにしたことも好評だったし、この時代に導入されたアメリカ産の野菜(トウモロコシやジャガイモ)の導入によって食料増産が可能になり、人口も1億人から3億人にまで増えた。


えっ、もうそんなにたくさん…
―領土もかなり広がって、現在の中国の領土よりもちょっと広いくらいのエリアまでになったよ。ただし開発のし過ぎもあって、やがて自然災害も起きるようになっていく。
 庶民の文化も発展して、社会派の小説から人生論まで様々な書物が出回った。


海外貿易は認められていたんですか?
―皇帝は「海賊」対策のため、貿易ができる場所を4か所に限定した。
 ヨーロッパ人の進出を防ぐ意味でもあったんだよ。
 それを嫌った中国南部の商人たちは、こぞって東南アジアに移り住んでいった。東南アジアに今でも中国系の人たちがたくさん住んでいるのは、これがルーツだよ。

 でも、この時代の終わりごろにはヨーロッパ人が中国との貿易を求めて盛んに来航するようになり、皇帝は中国の南にある広州という港に限って、免許を与えられた民間のビジネスマンによる貿易も認められた。


中国の貿易は、皇帝に「あいさつ」する形での貿易が基本じゃなかったでしたっけ?
―「朝貢(ちょうこう)貿易」のことだね。伝統的にはそれが基本だったんだけど、この時代になるとついに民間人の貿易が許可されたわけだ(注:広東システム)。




◇1650年~1760年のアジア  東南アジア

―東南アジアでは貿易の利益を握った王国が、各地で栄えている。
 また、中国で貿易の制限が強まると、それを嫌った中国商人が拠点を東南アジアに移していくよ(注:南洋華僑)。


ヨーロッパの進出はどうなっていますか?
―前の時代にはスパイスの貿易が盛んだったよね。

スパイスって持ち帰るだけで高く売れたんですよね!
―はじめはね。
 でも当然ずっーとやってれば飽きられるし、珍しくもなくなる。
 この時代にはスパイスの価格は暴落し、もうからなくなったオランダは島そのものの支配へととりかかるんだ。
 オランダは後から「新規参入」してきたイギリスを追い出し、現在のインドネシアの島々の支配地域を広げていくよ。
 貿易から支配への方針転換だ。
 この地を支配していたイスラーム教徒の王様たちは次第にオランダの言うことを聞かざるをえなくなり、コーヒーやお米を輸出向けに栽培させて利益を上げようとしたんだ。

ヨーロッパの支配は東南アジア全体に及んだのですか?
―まあ「支配」といってもこの頃のヨーロッパには、まだまだアジアの国々を支配できるだけの経済力も軍事力もない。
 特に大陸側の東南アジアでは、ビルマタイベトナムにあった王国が貿易ブームの恩恵を受けて絶好調だ。



◇1650年~1760年のアジア  南アジア

―南アジアにはムガル帝国というイスラーム教徒を支配者とする国が領土を広げていた。
 貿易が盛んで、ヒット商品だった綿織物の生産により、アジア有数のリッチな国にのし上がっているよ。


皇帝はイスラーム教徒だったけど、ヒンドゥー教徒に対して手加減をしていたんですよね。
―そう、現実的な支配を心がけたんだね。
 インドの建築様式を取り入れたタージ・マハルという巨大なお墓(皇帝の奥さんの墓)からも、インドの文化を柔軟にとりいれようとした跡が読み取れる。

これは宮殿じゃなくて、お墓なのだ。Photo by Julian Yu on Unsplash

 でも、その後即位した皇帝が、「マジメに」イスラーム教の決まりを実行しようとしたものだから、イスラーム教徒ではないヒンドゥー教徒からも税を取り立てようということになってしまった。


ヒンドゥー教徒からの税は免除されていたはずですよね。
―だよね。
 これがもとで各地のヒンドゥー教徒が反乱を起こし、帝国はバラバラに。
 そのスキに、東南アジアの支配をあきらめたイギリスが、インドを支配しようと沿岸の港町をゲットし、貿易の拠点をつくっていったんだ。

 イギリスは、同じ頃インドに進出したフランスを戦いで破り、インドの支配をほぼ独占することになるよ。

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◆1650年~1760年のアフリカ

―アフリカの国々にはヨーロッパ人の商人が奴隷や象牙、金(ゴールド)目当てに進出している。

ヨーロッパの国々は植民地は作らなかったんですか?
―熱帯特有の病気にかかる心配もあることから、本格的な植民地化はまだだけど、温暖な気候である南アフリカには、オランダ人が植民地をつくっているよ。


西アフリカはどうですか?
―サハラ砂漠からナイル川に向けた貿易ルートには、ハウサ人という民族がいくつも国をつくっている。各地で王様が貿易の富を独占して栄えたんだ。

 海岸近くでは相変わらず奴隷をヨーロッパの商人に売り渡ししていた王国が栄えている。


アフリカ人がアフリカ人を奴隷として売っていたってことですよね。
―アフリカにもさまざまな民族がいるからね。悲劇だよね。
 西アフリカの遊牧民の中には奴隷貿易に反対し、イスラーム教の“正義”の下で広い地域をまとめようとする運動も起きるようになっているよ。


北アフリカはどのような状況ですか? 
―オスマン帝国の影響力がどんどん弱まっているよ。地元の有力者が各地で勢力を強めている状況だ。

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◆1650年~1760年のヨーロッパ


―この時代のヨーロッパは「17世紀の(全般的)危機」ともいわれるとっても「スランプ」にあたるんだ。


どうしてですか?
―気候が寒くなったことが、無視できない原因だ。
 あれだけ盛んだったアジアの貿易も不振となり、「宗教がらみの戦争」も各地で起きたんだ。


「宗教」ってキリスト教ですよね? キリスト教の教会のパワーは弱くなっているはずなのに、どうしてまだ「宗教がらみの戦争」なんて起きるんですか?
―以前からキリスト教のローマ本部のパワーが弱くなり、各地で「独自のキリスト教」が生まれ、ローマ本部から独立しようとする動きが起きていたよね。
 ローマのキリスト教本部は、国なんて関係なく「全世界」のキリスト教を目指していたわけだけど、この時代には各国が「自分の国限定」のキリスト教」をバックアップするようになっていたんだ。
 だから、一見「宗教」と「宗教」の争いのようにみえるけど、実のところは「国」と「国」との争いというわけなんだ。


現在の「国」との違いはありますか?
―いちばん大きな違いは、「国民」は「国」の持ち物だっていうことだね。
 「国民」には、国に関する決定権なんてない。
 「国」は一部の王家や貴族が運営するもので、由緒正しい王家がいくつもの国の支配者を掛け持ちしていることだってある。
 ただ、それぞれの国が自分勝手に行動した結果、ドイツで史上最悪の戦争が起きてしまったことを反省し、「人様の国の中で起きているケンカには口出ししない」「ケンカが起きたら、関係各国の国が集まってミーティングをし、取り決めを決める」「普段から国と国との間に外交官を送り合って関係を取り合う」といった国を超えたルールがつくられていくよ。


今では当たり前のようなルールですけど、このころのヨーロッパで生まれたものなんですね。
―そうだね。
 ただ「ヨーロッパ」といってもこの頃には地域によって大きな差も出ているよ。

 例えば西のほうのヨーロッパでは、王様が商人の富を利用しつつ、あの手この手で強い国をつくろうとしている。イギリスやフランスが代表例だ。

 東のほうのヨーロッパでは、ロシアが西はバルト海、東はアジアのほうまで領土を広げているよ。
 バルト海(地図)はヨーロッパの北にある海で古くから貿易が盛んなエリア。周辺のスウェーデン、ポーランド、ロシアが支配権をめぐって争ったんだ。


ポーランドって強くて大きな国だったんですよね?
今とは比べものにならないほど巨大な国だったんだ。でもこの時期になると、西からはドイツ人、東からはロシア人に挟まれて、しだいに衰えていくよ。
 国の大部分が真っ平らな平野だから、外からの侵入を受けやすいことが弱点だった。


ドイツ人の力も大きくなっているんですか?
―うん、ドイツ人の国として「プロイセン」と「オーストリア」という新興国が成長している。
 だけど、「ドイツ」というまとまった国はないよ。


どういうことですか?
―「ドイツ語」を話す人の住む地域を「ドイツ」ということにするならば、その地域をカバーしていたのは「神聖ローマ帝国」という国だ。
 でも、当時の神聖ローマ帝国っていうのは、もはやいくつものドイツ人の国があつまったグループのような存在。地図を見てみればわかるけど、「つぎはぎをしたパッチワーク」のような状態になっているよね。
 皇帝は「名誉会長」のような存在だ。


「名誉会長」っていうと、箔は有るけど必ずしもパワーがあるとも限りませんね。
―そうなんだ。でも、由緒があるから威厳はある。
 当時の神聖ローマ帝国の皇帝(=「名誉会長」)を務めていたのはオーストリアの支配者だ。
 その頃、オーストリアは、地中海からアラビア半島の付け根のほうにまたがる巨大な国をつくっていたオスマン帝国から、ハンガリーを取り返すことに成功
 オーストリアは、このハンガリーだけでなくチェコというところの王様の位も兼任し、一大勢力になっていく。


どんどん強くなっているじゃないですか。
―だけど、他の国がオーストリアのいうことを聞いてくれるとは限らない。その代表がプロイセンだ。戦争を2回もおこない、領土を取り合っている。
 「どちらが最強のドイツ人の国か」をめぐって争っているんだね。

 でも「どっちもどっち」のところもある。産業は盛んではないし、土地にしばりつけられた農民も多い

 支配者の中からは「先進国」のイギリスやフランスの最新思想をとりいれて、支配の方法を改善しようとする人も現れるよ。もちろん「自由」や「平等」のような、支配に都合の悪い考え方までは取り入れないけどね。


イギリスやフランスはそんなに進んでいたんですね。
―平和な世の中だったとは限らないけどね。
 イギリスでは政治的に落ち着かない時期が続くけど、この時代に「王様が無条件に偉い!」という考え方は否定され、王様よりも議会の決定のほうが上!」という慣習が定着した。

 それに比べてフランスでは「イギリスよりも遅れている」という意識が強い。海外ではイギリスとフランスの植民地取り合い合戦が100年続き、経済的にフランスはイギリスに立ち遅れてしまった。


なぜそんなに差がついてしまったんでしょう?
―簡単にいえばイギリスは、「国民からきっちり税をとる能力」が高かったので他の国からの信用が高く、イギリスにお金を貸してくれるお金持ちは国内外にたくさんいたんだ。「イギリスにお金を貸せば必ず多くなって戻ってくる」という期待も高かった。

 
 それにこの時代のイギリスではとっても効率よく農業を行うテクノロジーが開発されて食料の増産ができるようになり、みんながビジネスに専念できるようになった点も大きいよ。

 国民の稼ぎが増えれば税金も増えるし、税金が増えれば軍隊を強くすることもできる。強くした軍隊でオランダやフランスと戦い、この時期には広大な植民地を世界中に獲得することになるんだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊