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新科目「歴史総合」をよむ 1-3-7. 日清戦争と華夷秩序の解体

日清戦争とは、何だったのか?

 日本が帝国主義路線をとるようになったのは、日清戦争がきっかけだ。日清戦争は日本のみならず、東アジアにかろうじて残っていた国際秩序(華夷秩序)そのものを変化させていくことになる。

 以下、アジア歴史資料センター・大英図書館共同インターネット特別展「描かれた日清戦争〜錦絵・年画と公文書〜」を参考に、日清戦争の経緯をたどっていこう。

日清戦争は、東アジアの国際秩序をどのように変容させたのだろうか?


朝鮮(大韓帝国)をめぐる日清の駆け引き


 19世紀後半の朝鮮では大きくふたつの意見をもつグループが台頭し、対立するようになります。ひとつは、「事大党」と呼ばれるグループで、伝統的に関係の深い清と連携することで安定を維持しようとする勢力でした。

 これに対して、欧米から文物を導入し近代化を推進する日本と連携して、むしろ清からの独立をめざす勢力「独立党」が現れました。この対立は、大きく見れば、古来の伝統的な華夷秩序の体制(中国を頂点とした主従関係に基づく国際秩序)と、欧米そして日本がもたらした新しい秩序である主権国家体制(国家同士は外交上対等な関係とする国際秩序)の狭間に朝鮮が置かれており、どちらの国際秩序に属するかという問題でもあったのです。
 
 かくして1884年、「独立党」の金玉均(きんぎょくきん)や朴泳孝(ぼくえいこう)らは日本公使館と相談しながらクーデタを起こしましたが、袁世凱が率いる清の軍隊に敗北しました(甲申政変(こうしんせいへん))。

 これ以後、清から派遣された袁世凱(えんせいがい)が軍事力を背景に朝鮮で大きな力をふるうようになりました。これを良しとしない日本も朝鮮に派兵し、日清両国は交渉の末、1885(明治18)年の天津条約により、どちらも兵をいったん朝鮮から撤退させることにしましたが、袁世凱による内政介入は続きます。こののち、日清両国はともに軍事力の強化につとめ、朝鮮をめぐる対立は深まってゆきました。


日清戦争の勃発

 そんな中、1894年6月3日、農民たちが地方官の圧政に対して蜂起(甲午農民戦争)を起こした。これを自力で鎮圧することは難しいと判断した朝鮮政府は、清国に対して出兵要請を行う。清国は朝鮮政府による正式な要請を受けると、北洋通商大臣と直隷総督を兼任する李鴻章がただちに朝鮮への軍隊の派遣準備にかかった。

資料 レファレンスコード: C08040476000 件名: B 清国の出師準備
「明治27年(1894年)6月上旬から日清開戦直前にかけての清国軍内部の動きについて日本側が得ていた情報をまとめたものです。2画像目から6月4日についての記述があり、直隷提督の葉志超が統領の聶士成らを率いて朝鮮に向かう準備を進めていることやその武装などについての情報が記されています。」

 こうして、1894年6月5日、軍艦2隻が仁川に到着し、同8日〜12日に、2000名規模の陸軍部隊が、海路で朝鮮半島に入り、牙山への駐留を始めた。
 

 一方で、日本政府は6月2日、清国が出兵するかどうかはまだ不明な状況下で、朝鮮への出兵を閣議決定した(閣議決定の内容はこちら(アジ歴資料)。出兵の目的は、甲午農民戦争を鎮圧し、日本の公使館や居留民を保護するというものだった。

資料 アジ歴 レファレンスコード: C08040626900 件名: 自明治27年6月~至明治27年12月 日記(1)
「明治27年(1894年)6月から12月にかけての大本営の日記の一部です。5画像目から6月2日についての記述があり、内閣が朝鮮への派兵を決定したこと、またこの時点で艦船の出撃の準備が進められていることが記されています。」

 6月5日には参謀本部に大本営が設置され、6月10日以降、海軍陸戦隊や混成旅団が朝鮮に上陸した。
 6月7日には、天津条約に従い、日清政府は相互に出兵の通告をしている(これに関する外交交渉についてはこちら(アジ歴資料))。
 しかし、6月11日に朝鮮政府と農民軍との間に全州和約が締結されると、朝鮮政府は日清両国に対して撤兵が要求。その際、日本政府は清国政府にとともに朝鮮の内政改革をおこない、両国軍を引き続き朝鮮に留めることを要求し、さもなくば日本が単独で内政改革をおこなうと提案した。しかし、清国はこれを拒否したため、日本は仁川に上陸させていた混成旅団の一部を朝鮮の都漢城方面に移動させた。

資料 アジ歴 レファレンスコード: B03030205100 件名: 5 明治27年6月8日から明治27年6月24日
「明治27年(1894年)6月中旬の日清間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。25画像目から、6月22日に汪鳳藻駐日本清国公使が陸奥宗光外務大臣に送った、日本政府からの提案に対し日清両国の即時撤兵を主張する清国政府からの回答の原文とその和訳があります。また29画像目から、翌23日に陸奥外務大臣が汪公使に送った、改めて撤兵を拒否することを清国政府に伝える日本政府からの通告文があります。陸奥宗光外務大臣は後にこの文書を「第一次絶交書」と呼びました。」

 日本政府としては、清を排除して、朝鮮の内政改革を単独でおこないたいところだった。
 そこで、大鳥圭介駐朝鮮公使は、朝鮮の外務大臣に対して、「朝鮮は清の属国であるのか、それとも自主国であるのか」を問いただす。

資料 レファレンスコード: B03050308400 件名: 4 明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日
「明治27年(1894年)7月の朝鮮の内政改革をめぐる日朝間の外交交渉に関する文書をまとめたものです。11画像目に、明治27年(1894年)6月28日に大鳥圭介駐朝鮮公使が朝鮮の督弁交渉通商事務(外務大臣に相当します)である趙秉稷に送った文書の内容が示されており、この中で、朝鮮が清国の属国であるか否かについての朝鮮政府の認識を翌29日までに回答するようにとの要求が述べられています。また12画像目から、6月30日に趙督弁交渉通商事務が大鳥公使に送った、日本政府の問いに対する朝鮮政府の回答文で、朝鮮が自主国として日本や清国と関係を結んできたという見解が示されています。」

 つまり、東アジアの伝統的な華夷秩序が、いまだに残っているのかを明確化させようとしたのだ。朝鮮政府の回答は「自主国である」というもの。そこで日本政府のなかでは清国の駐留を、朝鮮を属国にさせようとする不当なものとする意見が強まった。

史料 ある朝鮮人の日記より
日本は……朝鮮の独立を維持するために戦争をおこしたにすぎないと公言しているが信じがたい。朝鮮が清国の属国に組み入れられ、その結果日本の国内情勢が混乱をきたし内戦状態におちいることを恐れたというのが実情であろう。もし日本が勝てば、朝鮮に一種の保護権を確保し台湾を獲得するだろう。

(出典:木下隆雄『評伝 尹致昊—「親日」キリスト者による朝鮮近代60年の日記』明石書店、2017年。山川出版社『現代の歴史総合—見る・読みとく・考える』初版より重引)


 7月、日本は首都・漢城の王宮を占領して、朝鮮国王高宗の身柄を確保。高宗は、日本の大鳥公使の立会いで、興宣大院君に対して国政改革を委任し、興宣大院君による新政府成立が宣言された。さらに、7月25日には、日本の連合艦隊が清の艦隊を攻撃した。同月29日には、最初の陸戦も起きています。ここへきて8月1日、日清両国はたがいに宣戦布告することとなった。

 しかし、戦局は日本側に有利な形で推移していった。1894年10月末に日本軍が遼東半島上陸すると、北洋艦隊の拠点である旅順が陥落するおそれが高まり、清の北洋通商大臣兼直隷総督であった李鴻章は、日本国との講和を考えるようになる。しかし、講和は進展しないまま、11月21日の旅順が陥落。さらに翌年1895年2月には北洋艦隊のもうひとつの母港である威海衛いかいえいが陥落。清は黄海の制海権をうしなった。
 こうして3月19日清国から李鴻章と李経方が派遣され、同月20日に日本政府からは伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣が参加して講和会議が設けられ、下関条約が締結された。

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資料 「迎迓李傅相 前図」「明治28年(1895年)3月20日、山口県の下関(当時は「赤間関」「赤馬関」「馬関」とも呼ばれました)にある春帆楼という割烹旅館で、日本の全権委員である全権弁理大臣の伊藤博文(内閣総理大臣)及び陸奥宗光(外務大臣)と、清国の全権委員である欽差頭等全権大臣の李鴻章(北洋通商大臣兼直隷総督)及び欽差全権大臣の李経方(元駐日本公使)との間で、講和に向けた交渉が始まりました。なお、講和会議開始から間もない3月24日に、李鴻章は路上で小山豊太郎(六之助)という人物から銃撃を受けて負傷し、一時会議の席から外れています。ここでは、李鴻章率いる清国の使節団がこの前日に下関港に到着した際に、これを伊藤博文らが出迎えている様子が描かれています。」(パブリックドメイン、https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/gallery/images/zoom/16126.d.2/16126.d.2_(10)_B20102-76.jpg)


 下関条約において、朝鮮の独立、遼東半島(1896年の三国干渉を受け、清に変換された)と台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金の支払いが約束された。

 朝鮮に関する規定は、次のような内容である。

第 1 条 清国は朝鮮国が①完全無欠なる独立自主の邦であることを確認し、独立自主を損害するような②朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する

 つまり、①において朝鮮が主権国家であること、そして②によって華夷秩序が終焉をむかえたことがそれぞれ確認されたのだ。


 清が最後の冊封国であった朝鮮を失ったことで、東アジアの華夷秩序は最終的に解体されることとなった。



日清戦争での勝利を、日本の人々はどのように受け止めたのだろうか?

高まったナショナリズム


 日清戦争の勝利は、明治維新後の近代化政策の結実と受け止められた。新聞や雑誌の報道や、祝勝イベントが全国各地をにぎわせ、ナショナリズムが定着していった。

 上記リンクにあるのは、明治27年12月9日上野祝捷大会という戦勝記念イベントでの川上一座の演劇の様子を描いた絵画である。
 ここから、日清戦争後の日本が、「日本人」の国民意識(=ナショナリズム )を刺激し、教育やメディアを通じた国民統合に拍車がかかっていったことがわかる。

東京市祝捷大会」は,1894年12月9日,東京上野公園を会場に東京市民有志によって催された戦勝祝賀会であった。主催者はこの日のためだけに,11月22日に組織された東京市祝捷大会である。終了後,翌年5月3日に同会は公式報告書を作成した。これまた書名は『東京市祝捷大会』(土田政次郎,1905,非売品)と名づけられた。
[中略]
この日のプログラムを簡単に紹介しよう。満15歳以上の男子であれば,五十銭の会費を払って誰もが会員になることができた。予め市内各所に受付を設け,参加者はそこに申し込んで会券,会章,昼餐券を受け取った。朝7時半に日比谷練兵場跡に集合し,桜田門から宮城前広場に入って万歳三唱(ただし天皇は広島大本営にあって不在)。その後,丸の内から日本橋に抜けて,商家の立ち並ぶ東京の目抜き通りを上野公園に向かって歩いた。団体での参加者は,それぞれに旗や幟を立て,山車を曳き,それはあたかも江戸の祭礼のようだった。9時に上野公園に到着,旧黒門跡地に建てられた模造玄武門(平壌での激戦地)を抜けて会場に入る。10時より不忍池に臨む旧馬見所を会場に儀式が行われた。天皇皇后の肖像写真に対する拝礼に始まり,東京市長や東京市会議長ら要人の祝文朗読,靖国神社宮司による戦捷祝祭の執行,万歳三唱に終わった。皇太子も臨席した。その後,参加者は,思い思いに会場内の余興を見て歩くことになる。川上音二郎一座による野外劇、野試合,分捕品陳列,野戦病院の体験,幇間(太鼓持ち)による陸海軍の手踊りなどが,公園のあちらこちらで行われていた。そして,日が暮れるころから,この日最大の余興が始まった。不忍池を黄海に見立て,清国海軍の戦艦定遠と致遠の模造船を焼討ちし,歓声を挙げたのだった。

分捕石鹸

この会場で目にしたものや耳にした言葉は,現代日本のヘイトスピーチに勝るとも劣らない激しい中国蔑視に満ちあふれていた。いや,つぎのような光景を目にすれば,明治の日本人の方がはるかに残酷,冷酷であったと思うに違いない。路上やネット上に罵詈雑言が飛び交う現代の日本でも,さすがに中国人の切り首に見立てた風船や提灯,菓子や石鹸といった商品は売られていないからだ。

出典:木下直之「戦争に酔う国民 ─日清戦争と日本人─」『じっきょう 地歴・公民科史料』80、2-6頁、https://www.jikkyo.co.jp/contents/download/9992656956


 戦争の模様は戦時中から錦絵に描かれ、人々の目に触れることとなった。

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資料 「平壌夜戦我兵大勝利」「明治27年(1894年)9月15日未明、清国軍が集結していた平壌を包囲した日本軍が総攻撃を開始しました。この戦闘は日清戦争最初の大規模な陸戦となりました。同日夕刻には清国軍が降伏を申し出て脱出していき、翌日未明にかけて日本軍が平壌への入城を進めました。ここでは夜間の戦闘の様子が描かれています。」(パブリックドメイン、https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/main/18940915/index.html)

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資料 「鴨緑江帥水捷報」「明治27年(1894年)9月17日、日本艦隊(連合艦隊)と清国艦隊(北洋艦隊)が黄海の鴨緑江沖(大孤山沖と書かれることもあります)で遭遇し戦闘が起きました。この戦闘では日清双方で大きな損害を出しましたが、特に清国艦隊は失った艦船や乗組員の数が大きなものとなりました。ここでは、清国軍が日本艦隊に対して陸上から砲撃を行っている様子が描かれています(実際の黄海海戦では清国軍が日本艦隊に対して陸上から砲撃を行ったことはありません)。」(パブリックドメイン、https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/gallery/images/zoom/16126.d.4/16126.d.4_(30)_B20102-53.jpg)


当時刊行された戦争の勝利を祝う軍歌や関連作品集

・夢廼舎現『支那征伐呆痴陀羅経』明治28年

・『ちゃんちゃん征伐当世流行節』

・遊楽街の小仙『ちゃんちゃん征伐音曲集』東雲堂、明治27年

史料 福沢諭吉の社説 

もしも支那人が今度の失敗に懲り、文明の勢力の大いに畏(かしこ)まるべきを悟りて、自からその非を悛(あらた)め、四百余州の腐雲敗霧を一掃して、文明日新の余光を仰ぐにも至らば、多少の損失のごときは物の数にもあらずして、むしろ文明の誘導者たる日本国人に向かい、三拝九拝してその恩を謝することなるべし。」
(出典:福沢諭吉、「時事新報」明治27年7月29日の社説。右図はその挿絵。支那人とは、中国人のこと)


史料 英雄・木口小平

「『毎日新聞』の記者であった横山源之助によれば、開戦時の民衆は、わりあいに冷静というよりも、むしろ戦争に無関心であったという。とりわけ地方の民衆はそうであった。ところが、緒戦の連戦連勝にあおられて、民衆は一気にヒートアップしていく。その熱狂ぶりは、戦争の仕掛け人ともいえる陸奥宗光さえも驚くほどだった。」

小松裕『「いのち」と帝国日本』(日本の歴史14)、小学館、32頁。
大正7年、尋常小学校1年生用修身教科書。新聞報道によってさまざまな戦争美談が語られた。ラッパ手・木口小平もその一人である。「1893年(明治26)の新聞年間発行部数1060万は、95年には約1500万部に急増している。折しも、新聞は、自由民権期以来の論説を中心とした新聞から、報道を中心とした新聞への過渡期にあたっており、日清戦争は商業ジャーナリズムの成立に大きな役割を果たしたのである。」(同、34頁)。




兵士にとっての日清戦争


日清戦争の死者総数は1万2106人だった。だが、そのうち戦闘による死者は2割にも満たない。
コレラやマラリアのような疾病による死亡が8割強を占めていたのだ。

もっとも病死者の多かったのは、台湾における戦闘だ。ここで、皇族の北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)も殉死している。北白川宮の銅像は、北の丸公園の南側、近代美術館工芸館横にいまもたたずんでいる(もともとは近衛歩兵第一・第二連隊正門前にあった)。


戦地で流行したコレラは兵士の帰還とともに日本全国にもひろまった。1895(明治28)年には、日清戦争での死者数を上回る4万150人が亡くなっている。黒田清輝の裸婦像も展示物議をかもした第4回内国勧業博覧会(京都岡崎公園)では、場内の飲食が禁止され、公衆便所や病院も設置されるなど、まん延防止対策が講じられている。


博覧会も時代祭も、日本が近代になって行ったイベントである。そして国際戦争による大量の戦死者、流行性の病気による大量死もまた近代の産物であった。

出典:松山巌『群衆—機械のなかの難民』中公文庫、2009年、23頁。




日清戦争後、東アジアの情勢はどのように変化したのだろうか?


 その一方で、日清戦争後には、ドイツが山東半島の膠州湾を租借(1898年)、ロシアは遼東半島の旅順・大連を租借(1898年)、フランスは広州湾を租借(1899年)。さらに、イギリスは威海衛を租借(1898年)していった。
 こうした列強の帝国主義政策に対し、日本政府は危機感をつのらせた。

 しかし、軍備拡張には帝国議会の承認が必要だ。
 議会はながらく、自由民権運動にルーツをもつ自由党などの勢力が強く、政府の増税に批判的であったが、増税やむなしの方向に傾き、1900年には旧自由党勢力が伊藤博文を党首とする立憲政友会が成立することになる。

 なお、20世紀初めにかけて、不平等条約の改正にも進展がみられた。しかし、治外法権の撤廃は、内地雑居ないちざっきょを認めることが引き換えであったため、反対意見も多く出た。

***


日清戦争後の台湾
 もともと日清戦争においては、日本と台湾住民との間でも戦闘があった。台湾における戦闘が一応終結したのは、下関条約が締結されてから1年後のことであった。


日清戦争後の朝鮮

 日清戦争後の朝鮮では、ロシアに接近する動きが強まった。これに対抗するため、1895年には日本公使が国王の妃を殺害し、かえってロシアへの接近を強めた。 1897年に大韓帝国という国号に改めた国王は、皇帝に改称し、明確に華夷秩序から脱却した。朝鮮国内では、西洋化を進めようとする運動も、知識人の間でで活発化した。

日清戦争後の清

 日清戦争後の清では、敗戦の原因を立憲主義の未整備にもとめる知識人が、国政に参画し、近代国家を建設しようとする運動をおこした。これをクーデタ(戊戌ぼじゅつ変法へんぽうという。

資料 戊戌の変法

 大より小に、強より弱に、存より亡になるものがあり、その事情を知らねばなりません。小より大に、弱より強に、亡より存になるものがあり、その事情を知らねばなりません。近年は万国交通し雄を争い長を競い、強でなければ弱、大でなければ小、生存できねば滅亡で、中立は有り得ません。大から小になったのはトルコであります。強から弱になったのはペルシャであります。存から亡となったのは、インド、ミャンマー、安南、ジャワ、アラビア、マダガスカル、アフリカ全州がこれであります。みな旧を守って変ぜず、君主自尊で民と隔絶した国であります。弱から強となったのは日本であります。みな法を変じて新を開き、君主が民と通じた国であります。参考とするに、その効が最も速く、情報が最もそろい、我が国と最も近き国は、日本にほかなりません。
康有為『日本変政考』より(出典:杉山文彦「清朝末期中国人の日本観―日清戦争後を中心に」『文明研究』第28号

Q1. 康有為は「弱」(衰退する国)と「強」(繁栄する国)の違いがどこにあると考えていただろうか?
Q2. 清が「強」となるには、どのようなことが必要だと捉えていただろうか?
Q3. 康有為は、日本のことをどのようにとらえていたのだろうか?


 康有為こうゆうい(1858〜1927)と梁啓超りょうけいちょう(1873〜1929)らによる光緒帝こうしょてい(位1874〜1908)の下の改革は、保守派の反感を買い、クーデタ(戊戌ぼじゅつの政変)により失敗に終わった(詳細は1-3-5.立憲制の広まりを参照)。


台湾にとって日清戦争とは何だったのか?

台湾では1898年に初等教育制度が制定され、台湾在住日本人向けの小学校とは別に、漢人系の台湾人向けの「公学校」が設置された。

 また、漢人系ではないタイヤル族などの先住民の児童に対しては、蕃童教育所が設置され、教師は日本人警察官が兼務した。

 公学校や蕃童教育所では日本語教育が重視され、台湾人に日本帝国の一員としての自覚をもたせることが目指された。


出典:北村嘉恵「蕃童教育所の教員が巡査であったこと : 日本植民地下の台湾先住民教育の担い手に関する基礎的考察」、『日本台湾学会報』6、107-130頁、2004年。






日清戦争は、イギリスにとってどのような意味を持っていたのだろうか?


資料 「1895年の日本に対する清朝軍の敗北が、中国における影響力と領土をめぐる争奪戦の開始を告げることになった。日清戦争直後の最も重要な結末は、中国政府がかつてない規模での外資借入を余儀なくされたことである。チャールズ・アディス(香港上海銀行の野心にみちた副支配人)が素早く理解したように、日本の勝利はイギリスの政策にとって後退というよりもむしろ好機をもたらした。中国は今やイギリスの保護をかつてないほど必要としていたのであり、それゆえ日本が押しつけた賠償金はロンドンで調達されねばならないであろうし、その結果、イギリスは「中国の資源開発」で影響力を行使できる立場に立てるからである。……1874年から1895年までの21年間に、香港上海銀行は中国政府のために2100万ポンドを融資した。1896年から1900年までの4年間には、3300万ポンドもの巨額な資金を提供した。中国政府に対するイギリスからの借款は世紀転換期以降もゆるやかではあるが殖え続け、1902年から1914年の間に倍増した。」

(出典:P・J・ケイン/A・G・ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国Ⅰ』名古屋大学出版会、1997年、291頁)

共通テスト 試行試験 日本史B(平成30年(2018年))

選択肢
① 清国は朝鮮の独立を認める。
② 遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲する。
③ 日本に賠償金 2 億 両テールを支払う。
④ 新たに沙市・重慶・蘇州・杭州を開市・開港する。


追記:2023/05/20

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊