日清戦争とは、何だったのか?
日本が帝国主義路線をとるようになったのは、日清戦争がきっかけだ。日清戦争は日本のみならず、東アジアにかろうじて残っていた国際秩序(華夷秩序)そのものを変化させていくことになる。
以下、アジア歴史資料センター・大英図書館共同インターネット特別展「描かれた日清戦争〜錦絵・年画と公文書〜」を参考に、日清戦争の経緯をたどっていこう。
日清戦争は、東アジアの国際秩序をどのように変容させたのだろうか?
朝鮮(大韓帝国)をめぐる日清の駆け引き
19世紀後半の朝鮮では大きくふたつの意見をもつグループが台頭し、対立するようになります。ひとつは、「事大党」と呼ばれるグループで、伝統的に関係の深い清と連携することで安定を維持しようとする勢力でした。
これに対して、欧米から文物を導入し近代化を推進する日本と連携して、むしろ清からの独立をめざす勢力「独立党」が現れました。この対立は、大きく見れば、古来の伝統的な華夷秩序の体制(中国を頂点とした主従関係に基づく国際秩序)と、欧米そして日本がもたらした新しい秩序である主権国家体制(国家同士は外交上対等な関係とする国際秩序)の狭間に朝鮮が置かれており、どちらの国際秩序に属するかという問題でもあったのです。
かくして1884年、「独立党」の金玉均(きんぎょくきん)や朴泳孝(ぼくえいこう)らは日本公使館と相談しながらクーデタを起こしましたが、袁世凱が率いる清の軍隊に敗北しました(甲申政変(こうしんせいへん))。
これ以後、清から派遣された袁世凱(えんせいがい)が軍事力を背景に朝鮮で大きな力をふるうようになりました。これを良しとしない日本も朝鮮に派兵し、日清両国は交渉の末、1885(明治18)年の天津条約により、どちらも兵をいったん朝鮮から撤退させることにしましたが、袁世凱による内政介入は続きます。こののち、日清両国はともに軍事力の強化につとめ、朝鮮をめぐる対立は深まってゆきました。
日清戦争の勃発
そんな中、1894年6月3日、農民たちが地方官の圧政に対して蜂起(甲午農民戦争)を起こした。これを自力で鎮圧することは難しいと判断した朝鮮政府は、清国に対して出兵要請を行う。清国は朝鮮政府による正式な要請を受けると、北洋通商大臣と直隷総督を兼任する李鴻章がただちに朝鮮への軍隊の派遣準備にかかった。
こうして、1894年6月5日、軍艦2隻が仁川に到着し、同8日〜12日に、2000名規模の陸軍部隊が、海路で朝鮮半島に入り、牙山への駐留を始めた。
一方で、日本政府は6月2日、清国が出兵するかどうかはまだ不明な状況下で、朝鮮への出兵を閣議決定した(閣議決定の内容はこちら(アジ歴資料)。出兵の目的は、甲午農民戦争を鎮圧し、日本の公使館や居留民を保護するというものだった。
6月5日には参謀本部に大本営が設置され、6月10日以降、海軍陸戦隊や混成旅団が朝鮮に上陸した。
6月7日には、天津条約に従い、日清政府は相互に出兵の通告をしている(これに関する外交交渉についてはこちら(アジ歴資料))。
しかし、6月11日に朝鮮政府と農民軍との間に全州和約が締結されると、朝鮮政府は日清両国に対して撤兵が要求。その際、日本政府は清国政府にとともに朝鮮の内政改革をおこない、両国軍を引き続き朝鮮に留めることを要求し、さもなくば日本が単独で内政改革をおこなうと提案した。しかし、清国はこれを拒否したため、日本は仁川に上陸させていた混成旅団の一部を朝鮮の都漢城方面に移動させた。
日本政府としては、清を排除して、朝鮮の内政改革を単独でおこないたいところだった。
そこで、大鳥圭介駐朝鮮公使は、朝鮮の外務大臣に対して、「朝鮮は清の属国であるのか、それとも自主国であるのか」を問いただす。
つまり、東アジアの伝統的な華夷秩序が、いまだに残っているのかを明確化させようとしたのだ。朝鮮政府の回答は「自主国である」というもの。そこで日本政府のなかでは清国の駐留を、朝鮮を属国にさせようとする不当なものとする意見が強まった。
7月、日本は首都・漢城の王宮を占領して、朝鮮国王高宗の身柄を確保。高宗は、日本の大鳥公使の立会いで、興宣大院君に対して国政改革を委任し、興宣大院君による新政府成立が宣言された。さらに、7月25日には、日本の連合艦隊が清の艦隊を攻撃した。同月29日には、最初の陸戦も起きています。ここへきて8月1日、日清両国はたがいに宣戦布告することとなった。
しかし、戦局は日本側に有利な形で推移していった。1894年10月末に日本軍が遼東半島上陸すると、北洋艦隊の拠点である旅順が陥落するおそれが高まり、清の北洋通商大臣兼直隷総督であった李鴻章は、日本国との講和を考えるようになる。しかし、講和は進展しないまま、11月21日の旅順が陥落。さらに翌年1895年2月には北洋艦隊のもうひとつの母港である威海衛が陥落。清は黄海の制海権をうしなった。
こうして3月19日清国から李鴻章と李経方が派遣され、同月20日に日本政府からは伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣が参加して講和会議が設けられ、下関条約が締結された。
下関条約において、朝鮮の独立、遼東半島(1896年の三国干渉を受け、清に変換された)と台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金の支払いが約束された。
朝鮮に関する規定は、次のような内容である。
つまり、①において朝鮮が主権国家であること、そして②によって華夷秩序が終焉をむかえたことがそれぞれ確認されたのだ。
清が最後の冊封国であった朝鮮を失ったことで、東アジアの華夷秩序は最終的に解体されることとなった。
日清戦争での勝利を、日本の人々はどのように受け止めたのだろうか?
高まったナショナリズム
日清戦争の勝利は、明治維新後の近代化政策の結実と受け止められた。新聞や雑誌の報道や、祝勝イベントが全国各地をにぎわせ、ナショナリズムが定着していった。
上記リンクにあるのは、明治27年12月9日上野祝捷大会という戦勝記念イベントでの川上一座の演劇の様子を描いた絵画である。
ここから、日清戦争後の日本が、「日本人」の国民意識(=ナショナリズム )を刺激し、教育やメディアを通じた国民統合に拍車がかかっていったことがわかる。
戦争の模様は戦時中から錦絵に描かれ、人々の目に触れることとなった。
当時刊行された戦争の勝利を祝う軍歌や関連作品集
・夢廼舎現『支那征伐呆痴陀羅経』明治28年
・『ちゃんちゃん征伐当世流行節』
・遊楽街の小仙『ちゃんちゃん征伐音曲集』東雲堂、明治27年
史料 福沢諭吉の社説
史料 英雄・木口小平
兵士にとっての日清戦争
日清戦争の死者総数は1万2106人だった。だが、そのうち戦闘による死者は2割にも満たない。
コレラやマラリアのような疾病による死亡が8割強を占めていたのだ。
もっとも病死者の多かったのは、台湾における戦闘だ。ここで、皇族の北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)も殉死している。北白川宮の銅像は、北の丸公園の南側、近代美術館工芸館横にいまもたたずんでいる(もともとは近衛歩兵第一・第二連隊正門前にあった)。
戦地で流行したコレラは兵士の帰還とともに日本全国にもひろまった。1895(明治28)年には、日清戦争での死者数を上回る4万150人が亡くなっている。黒田清輝の裸婦像も展示物議をかもした第4回内国勧業博覧会(京都岡崎公園)では、場内の飲食が禁止され、公衆便所や病院も設置されるなど、まん延防止対策が講じられている。
日清戦争後、東アジアの情勢はどのように変化したのだろうか?
その一方で、日清戦争後には、ドイツが山東半島の膠州湾を租借(1898年)、ロシアは遼東半島の旅順・大連を租借(1898年)、フランスは広州湾を租借(1899年)。さらに、イギリスは威海衛を租借(1898年)していった。
こうした列強の帝国主義政策に対し、日本政府は危機感をつのらせた。
しかし、軍備拡張には帝国議会の承認が必要だ。
議会はながらく、自由民権運動にルーツをもつ自由党などの勢力が強く、政府の増税に批判的であったが、増税やむなしの方向に傾き、1900年には旧自由党勢力が伊藤博文を党首とする立憲政友会が成立することになる。
なお、20世紀初めにかけて、不平等条約の改正にも進展がみられた。しかし、治外法権の撤廃は、内地雑居を認めることが引き換えであったため、反対意見も多く出た。
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日清戦争後の台湾
もともと日清戦争においては、日本と台湾住民との間でも戦闘があった。台湾における戦闘が一応終結したのは、下関条約が締結されてから1年後のことであった。
日清戦争後の朝鮮
日清戦争後の朝鮮では、ロシアに接近する動きが強まった。これに対抗するため、1895年には日本公使が国王の妃を殺害し、かえってロシアへの接近を強めた。 1897年に大韓帝国という国号に改めた国王は、皇帝に改称し、明確に華夷秩序から脱却した。朝鮮国内では、西洋化を進めようとする運動も、知識人の間でで活発化した。
日清戦争後の清
日清戦争後の清では、敗戦の原因を立憲主義の未整備にもとめる知識人が、国政に参画し、近代国家を建設しようとする運動をおこした。これをクーデタ(戊戌の変法という。
康有為(1858〜1927)と梁啓超(1873〜1929)らによる光緒帝(位1874〜1908)の下の改革は、保守派の反感を買い、クーデタ(戊戌の政変)により失敗に終わった(詳細は1-3-5.立憲制の広まりを参照)。
台湾にとって日清戦争とは何だったのか?
台湾では1898年に初等教育制度が制定され、台湾在住日本人向けの小学校とは別に、漢人系の台湾人向けの「公学校」が設置された。
また、漢人系ではないタイヤル族などの先住民の児童に対しては、蕃童教育所が設置され、教師は日本人警察官が兼務した。
公学校や蕃童教育所では日本語教育が重視され、台湾人に日本帝国の一員としての自覚をもたせることが目指された。
日清戦争は、イギリスにとってどのような意味を持っていたのだろうか?
選択肢
① 清国は朝鮮の独立を認める。
② 遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲する。
③ 日本に賠償金 2 億 両テールを支払う。
④ 新たに沙市・重慶・蘇州・杭州を開市・開港する。
追記:2023/05/20