歴史のことば No.17 石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』
最近ある大学入試問題集をパラパラとめくっていて、「!」となった。
この表が掲載されている『世界史標準問題精講』は、受験勉強向け問題集としても非常に優れていると思うが、こんな表を巻末冒頭に掲げるとは、なにかしら思い入れがあるにちがいない。
もしそうなら賛同できる。ことヒトラー時代のドイツの歴史にかんしては、「ヒトラーが政権をとったこと」を、できるかぎり解像度を上げてとらえることがキモだからだ。
「ヒトラーが、その筋書き通り国民をコントロールした」
「国民の熱狂的支持によってヒトラー政権が誕生した」
……なーんてことは言えない。そこがポイントとなる。
この話は、教育現場でもわりと人口に膾炙していることだと思うが、実態はわりと複雑だ。でもイアン・カーショーのヒトラー本を読み倒すのも大変である。となると現在、もっとも手軽で良質な入門書は、石田勇治さんの『ヒトラーとナチ・ドイツ』だろう。
上記の話題としては、とくに第3章が重要だ。
一読すれば、ヒトラー政権の成立を理解するためには、ヒトラーを中心にするよりも、ヒンデンブルク(大統領任1925〜34)やパーペン(首相任1932.6〜.11)、それにシュライヒャー(首相任1932.12〜1933.11)を中心に据えてよみとく必要があることに気づくだろう。
石田氏は、1933年1月のヒトラーの首相就任について、次のように説明する。
当時パーペン前首相が描いていたのは、ナチ党のみならず国家人民党や鉄兜団などを結集させた右派連合政権を、共産党の躍進を警戒する財界からの支持のたかまっていたヒトラーを看板にかかげることで実現することだった。
つまり、ヒトラー独裁は既定路線ではなかった。保守派の思い描く国家体制は、ヒトラー独裁だけではなかったのだ。愛国的な保守派・右派勢力の台頭を下支えしていたのは、「ドイツは戦場では負けていなかった。国内の反戦平和主義者や共産主義者、ユダヤ人によって、背後から一突き(裏切り)を受けたのだ」という言説の高まりだったことも見逃せない(ヒンデンブルクも主唱者のひとりであった)。
ヒトラー独裁の決定打となった授権法(全権委任法)の制定も、ヒトラーひとりが強権的に制定したわけではない。
当時の保守派・右派勢力は、その後の破滅的な歴史の流れとは裏腹に、授権法こそがそれぞれの思い描く「新国家」を実現させてくれるものと期待していたのだ。
加えてヒトラーは、国会議事堂炎上事件を悪用し、国会の議決に必要な出席者数を巧妙に計算する。
かくして授権法は可決し、ヒトラー独裁への道が舗装された。自由は、ジグザグと道を進むようにして、剥奪されていくこととなる。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊